張祚
前涼(五胡十六国)|在位 354–355年
- 諱(本名)
- 張祚
- 在位
- 354–355年
- 在位期間
- 1年243日365名中275位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:威王
即位の経緯
先代(甥)の張耀霊を殺害し自ら涼公を称した後、354年に皇帝を僭称。独自元号「和平」を建元。
出典: 晉書 張軌傳
死因の経緯
従兄弟の張耀霊(前主)を殺害し帝位を奪ったが、河州刺史張瓘・驃騎将軍宋混らが張耀霊の復位を掲げ挙兵。側近も寝返り宮門を開いたため孤立し、殿上で剣を振るい抵抗を試みたが従う兵はなく、逃げ込んだ万秋閣で厨士(料理人)徐黒に殺害された。晒し首にされ、2人の子も処刑された。同一政権内の反乱による殺害のため暗殺に分類。
出典: 晉書 列傳第五十六 涼武昭王李玄盛(張氏、張軌伝系)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
張祚在位中(建興四十二年〈354年〉1月~和平二年〈355年〉)に確認できる改元は、即位に伴う「和平」建元の1回のみ。和平年号がそれ以降変更された記録はなく、次の改元(建興四十三年への復称)は後継者張玄靓の即位後の出来事として玄靓側に帰属する。
大赦回数
永和十年(354年)の僭帝即位の詔で「赦殊死」(死罪のみの限定的恩赦)が行われたが、「大赦」「大赦天下」の明記がなく全国規模の一般恩赦とは認められないため対象外とし、0回とした。
立后回数
在位中に皇后冊立は1回のみ確認。廃后・再冊立の記載なし。
皇太子廃立回数
永和十年の即位時に子の泰和を皇太子に立てたとの記載はあるが、張祚在位中(354年1月~355年)にこの太子を廃したとする記述はない。祚死後、後継の張玄靓が「祚の二子を誅す」とあるが、これは張祚自身による廃立ではなく後継政権による粛清であり対象外。
親征回数
在位期間(354年1月僭帝位~355年9月被殺)中、南山の麗靬戎討伐(和昊を派遣)・王擢討伐(牛霸・張芳を派遣)・張瓘討伐(易揣・張瓘を派遣)はいずれも将軍を派遣した形で、張祚自身が親征した記録は『晋書』張軌伝(列伝第五十六)・『資治通鑑』晋紀ともに確認できない。桓温の関中侵攻に恐れをなし『大聚衆、声言東征』(大軍を集め東征を号令)したが、実際には敦煌方面への西走を意図した見せかけで、桓温撤退により実行前に中止された(『資治通鑑』晋紀二十一)ため親征として計上しない。
反乱鎮圧回数
在位中に確認できる唯一の大規模軍事衝突は張瓘討伐だが、これは張瓘の強大化を恐れた張祚側からの先制攻撃であり(『資治通鑑』:『祚惡河州刺史張瓘之強、遣張掖太守索孚代瓘守枹罕、使瓘討叛胡、又遣其將易揣・張玲帥歩騎萬三千以襲瓘』)、開戦時点で張瓘は反乱を起こしていなかった。判定基準の例外3(皇帝側が権臣・部将を先制的に打倒しようとした場合で相手がまだ反乱を起こしていないケース)に該当するため鎮圧回数には計上しない。麗靬戎討伐(和昊派遣、大敗)・王擢討伐(牛霸・張芳派遣)も、対象が服属民の反乱であったことを示す記述がなく、鎮圧対象として確定できないため計上しない。
被反乱回数
本件は張祚の先制攻撃から始まり反撃側の反乱に発展するという複合的な経緯のため、鎮圧・被反乱の非対称(鎮圧0・被反乱1)が生じている。これは判定基準に列挙された正当な食い違い理由(皇帝自身が攻撃主体だった場合の除外)とも、反乱側が最終的に弑逆に成功した場合の計上(例外4)とも解釈しうる境界事例であり、confidenceをmediumとした。
遷都回数
晋書載記・張軌伝を通読。張氏の姑臧定都(301年赴任時)から376年の前秦降伏まで姑臧が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(deathCause.note含む)および_corpus_cache/qianliang-zhangzuo.txt(晋書載記、張祚関連本文全4段落)を確認したが、生年月日・即位時年齢・享年の直接記載は見当たらなかった。「祚篡立三年而亡」とあり簒奪(353年末涼公僭称)から死去(355年9月)まで数え約3年の在位期間の記述はあるが、これは年齢ではなく在位期間の言及。年号年ラベルによる逆算材料となる年齢の直接記載も他の前涼君主(張軌・張寔・張茂・張駿・張重華・張耀霊)の記事中に見当たらず、逆算不能。調査済みだが不明のため全フィールドnullとした。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
立后354年永和十年(354年)、張祚が僭称帝位した際の詔で「立妻辛氏為皇后」とあり、妻の辛氏を皇后に立てた。
出典: 晋書列伝第五十六
改元354年1月永和十年(354年)正月、張祚が帝位を僭称し「改建興四十二年為和平元年」として建興の年号(東晋正朔の継続使用)から独自年号「和平」への改元(即位に伴う最初の建元)を行った。
永和十年(354年)正月、張祚が帝位を僭称し「改建興四十二年為和平元年」として建興の年号(東晋正朔の継続使用)から独自年号「和平」への改元(即位に伴う最初の建元)を行った。『晋書』穆帝紀にも「十年春正月...涼州牧張祚僭帝位」とあり時期が一致する。
出典: 晋書列伝第五十六
被反乱355年7月〜355年9月張瓘・宋混の乱(張祚弑逆)
首謀者: 張瓘(河州刺史、驃騎将軍)・宋混(敦煌の豪族)
結果: 張祚が河州刺史張瓘の強大化を恐れ索孚を送り込み易揣・張玲に襲撃させたが、張瓘は索孚を斬り挙兵して姑臧の張祚打倒・張耀霊復位を檄文で布告。易揣・張玲軍は渡河中に張瓘軍に撃破され、敦煌の宋混・宋澄兄弟も1万余の兵を集めて張瓘に呼応し姑臧へ進軍。宮中でも領軍将軍趙長らが太后馬氏を担ぎ出し玄靓(耀霊の異母弟)を新主に擁立するクーデターが発生し、最終的に張瓘の弟張琚・子張嵩の軍が市人数百を募って開城、殿上で抗戦しようとした張祚に従う兵はなく殺害された(享年不詳、篡立から約3年)。前涼政権は張玄靓へ移行。
端緒は張祚自身による張瓘への先制攻撃(判定基準の例外3に該当し得る局面)だが、張瓘側がこれに応戦して挙兵・檄文発布・進軍・弑逆に至り、明確な武力反乱として成立・成功しているため被反乱に計上した(鎮圧側は最終的に反乱者側が主体となったため、例外4に準じる状況とも整理できる)。同時期の宋混・宋澄の合流および趙長らの宮中クーデターは、いずれも張瓘の反張祚行動に呼応・合流したものであり、首謀者を張瓘とする単一の反乱として1件で計上した。