甥の張耀霊の位を奪って前涼で帝を称したと晋書は書き、人心を失い一族の張瓘らの挙兵で殺された。
張祚の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 354年〜355年
- 没年
- 355年年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 簒奪前の皇帝を退けて、自ら位を奪った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- 張耀霊張祚は張耀霊の伯父
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓張諱祚字太伯幼名螽斯諡号威王呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻八十六 列伝第五十六(張軌傳附張祚、載記ではない)
- 死因
- 晉書 卷八十六 列傳第五十六 張軌(附張祚)/十六國春秋 卷七十三
- 即位経路
- 晉書 張軌傳
生涯
どんな皇帝か
晋書は博学で雄武、政事の才があったと紹介し、史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人曰は卑しい庶出の身で嫡流家を正式に継ぐ本家の血筋を覆し、首を梟されたのは自然の理だと評する。
即位まで
張駿の子で、張重華の庶兄にあたる。勇力と才があったが内外に取り入るのが巧みで、重華の寵臣と義兄弟の契りを結んだ。重華は、張祚を周公として幼い子を補佐させるつもりだと言っていた。病の重い重華が手令で謝艾を輔政君主を助けて代わりに政治を執ることに召したが、張祚と趙長らはこれを隠した。重華が没して幼い耀霊が継ぐと、寵臣らが遺令君主などが死に際に残した命令と偽って張祚を輔政に就け、かねて張祚と通じていた重華の母の馬氏が耀霊の廃位に同意した。実権を握ると淫虐をほしいままにし、重華の妻の裴氏と通じ、裴氏と謝艾を殺した。354年、群臣に迫られやむなく大統君主の位を受け継ぐこと、またその位を摂るという書を下して、位に即いた。
史料について
十六国春秋は、重華が353年の秋に張祚を誅そうとしたと書き、資治通鑑の重華の言葉とは張祚への態度が食い違う。即いた位を、晋書は帝位とし、資治通鑑と十六国春秋は王位とする。
治世と最期
廃した耀霊は、楊秋胡に殺させた。災異天の戒めとされた天災や怪しい出来事が続いても凶虐は増し、諫めた馬岌を免官し、勲徳が先公に及ばないのに革命天命が改まり、君主や王朝が入れ替わることはよくないと諫めた丁琪を宮門の下で斬った。
桓温が関中に入ると恐れて馬岌を呼び戻し、東征を言いふらしつつ西の敦煌へ逃れるつもりだった。一族の張瓘の強大を憎んで兵に襲わせたとき、出兵は涼国を危うくすると言った王鸞を斬った。玄武殿に降りた玄冥と名乗る神に日夜祈り、深く信じた。
355年、張瓘の弟と子が城に入ると、殿上で剣に手を掛けて死戦を命じたが、戦う者はなく殺されて首を梟された。のちに張天錫が改葬して威王と追謚した。
史料について
耀霊を殺した時期を、晋書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は353年とし、資治通鑑は355年に張瓘が耀霊の復位を掲げて挙兵した後とする。資治通鑑は王鸞の一族も滅ぼしたと書く。十六国春秋は、趙長が張祚の頬を刺し、逃げ込んだ閣で厨士に殺されたとするが、晋書では趙長は張祚の死より前に殺されている。威王の追謚も十六国春秋にだけ見える。

勢力図
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354–355年の地図に、張祚が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元1
- 皇后354年皇后を立てる
- 改元354年2月元号を「和平」とする
- 反乱355年7月〜355年9月張瓘・
宋混の乱(張祚弑逆)
年表
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前涼が