海陵王
金|在位 1150–1161年
- 諱(本名)
- 完顔亮(迪古乃)
- 在位
- 1150–1161年
- 在位期間
- 11年343日365名中114位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 40歳(数え年)269名中・長寿順131位タイ
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 5回289名中97位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
関連動画
当サイトとは無関係の外部YouTubeチャンネル「鳥人間 中国史三昧」様が制作・公開されている解説動画です。
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
熙宗を弑して即位。
出典: 金史 巻五(海陵本紀)
死因の経緯
南征中、部下の完顔元宜(浙西道兵馬都統制)が軍を翻し弑逆。「浙西兵马都统制完颜元宜等军反,帝遇弑,崩」。金史巻132論賛は熙宗・海陵・衛紹王の3名を同列の「弑」と扱う。完顔元宜は殺害の瞬間まで海陵自身の南征軍指揮官であり内部クーデターとみなせるが、世宗は既に東京で即位を宣言していた点で処刑説も成立し得るため確信度medium。
出典: 金史 巻五(海陵本紀)/巻一百三十二(逆臣伝末尾論賛)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中に天德(即位に伴う建元)→貞元→正隆と計3回改元。海陵は簒奪即位で皇帝以外の身分(王等)を経ていないため『2段階即位パターン』には該当せず、各eventに【皇帝即位前】等の付記は不要と判断した。
大赦回数
在位中2回の全国規模大赦(即位・建元天德時、改元正隆時)を確認。正隆六年十月に世宗(完顔雍)が遼陽で即位を宣言した際の「改元大定、大赦」は海陵自身の治世の出来事ではなく世宗側の記事のため計上しない。
立后回数
在位中の立后は徒単氏の1回のみ。廃后や再冊立の記録はなく、正隆六年の南征時にも「皇后及太子光英居守」とあり、終始徒単氏が皇后であったと考えられる(なお同姓の皇太后徒単氏〔嫡母〕は正隆六年八月に別途弑殺されているが、これは皇后ではなく皇太后であり本項目には該当しない)。
皇太子廃立回数
天德四年二月庚午、子の光英を皇太子に立てたとの記録があるが(「立子光英為皇太子」)、廃立の記録は見当たらない。正隆六年九月の南征出発時にも「詔皇后及太子光英居守」とあり、海陵が正隆六年十一月に殺害されるまで光英は皇太子の地位のままであったと考えられる。「立太子」自体はカウント対象外のため、いずれにせよ本項目は0回。
親征回数
「上自将三十二总管兵伐宋,进自寿春」と皇帝自身の親征と明記された対宋戦争のみ1件。契丹・単州・大名府の反乱鎮圧はいずれも将軍・大臣への派遣であり皇帝自身の出征ではないため含まない。
反乱鎮圧回数
国内の地方反乱・部族反乱を4件確認。うち2件(東海)は鎮圧成功が明記されるが、残ゃ3件は皇帝崩御(1161年12月)までの間に鎮圧完了の記載がなく、特に大名府王九乱は具体的な討伐軍派遣の記載自体がなく、鎮圧事例としての確実性はやや低いためmediumとした。
被反乱回数
国内反乱4件(rebellionSuppressionCountと同一)に加え、南征軍内部での完顔元宜による兵変(弑逆)1件を例外パターン4としてsufferedのみに計上。世宗(完顔雍)の東京即位自体はaccessionRoute領域の事案として別扱いとし本カウントには含めない。弑殺事実自体は原文に明記されており確実度高。
遷都回数
在位中に遷都1回(1153年 上京会宁府→中都(燕京))。
即位時年齢・没年齢
金史巻五冒頭「天輔六年壬寅歳生」により生年(西暦1122年、天輔六年)が明記。末尾「帝遇弑、崩、年四十」により崩御時の享年40(数え年)が明記。即位時年齢は原文中に『時年』等の直接記載なし(生年から逆算すれば数え年28歳前後だが未確認情報のため記録せず)。
在位中の出来事(17件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
立后1149年天德元年九月甲午、惠妃徒単氏を皇后に冊立。
天德元年九月甲午、惠妃徒単氏を皇后に冊立。「九月甲午、立惠妃徒単氏為皇后。」
出典: 金史 巻五(海陵本紀)
改元1150年1月11日皇統九年十二月己未、熙宗弑殺・即位に伴い皇統九年を天德元年と改元(建元)。
皇統九年十二月己未、熙宗弑殺・即位に伴い皇統九年を天德元年と改元(建元)。「己未、大赦。改皇統九年為天德元年。」
出典: 金史 巻五(海陵本紀)
大赦1150年1月11日皇統九年十二月己未(熙宗弑殺・即位から2日後)、改元天德と同日に大赦。
皇統九年十二月己未(熙宗弑殺・即位から2日後)、改元天德と同日に大赦。「己未、大赦。改皇統九年為天德元年。」
出典: 金史 巻五(海陵本紀)
遷都1153年3月上京会宁府 → 中都(燕京)
海陵王(完顔亮)は天徳三年(1151年)四月丙午に「詔迁都燕京」(燕京への遷都を詔した)。その後貞元元年(1153年)三月辛亥に燕京に到着し、三月乙卯に「以迁都诏中外。改元贞元。改燕京为中都,府曰大兴,汴京为南京,中京为北京」(正式に遷都を天下に布告し、貞元と改元、燕京を中都・大興府、汴京を南京、中京を北京と改称)と本紀に明記される。旧都上京会宁府はその後、正隆元年(1156年)十月に「命会宁府毁旧宫殿、诸大族第宅及储庆寺,仍夷其址而耕种之」(会寧府の旧宮殿・大族邸宅・儲慶寺を毀し、その跡地を耕地化せよと命令)と破却されている。(出典: 金史 本紀第五 海陵(china-history/金史/本纪/第五章-卷五-原文.html))
反乱鎮圧1158年3月〜1158年6月東海県 張旺・徐元の乱
首謀者: 張旺・徐元
結果: 鎮圧成功(東海平定)
「三月辛巳,东海县民张旺、徐元等反」に対し都水監徐文・歩軍指揮使張弘信ら舟師九百を派遣、「六月,徐文等破贼张旺、徐元,东海平」により鎮圧完了。
被反乱1158年3月〜1158年6月東海県 張旺・徐元の乱
首謀者: 張旺・徐元
結果: 鎮圧成功
rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧1161年5月契丹諸部の反乱
首謀者: (指導者名の記載なし・契丹諸部族)
結果: 討伐継続中、皇帝崩御(同年11月)まで鎮圧完了の記載なし
「五月庚辰…契丹诸部反,遣右卫将军萧秃剌等讨之」、六月には枢密使仆散思恭・西京留守萧怀忠が兵一万を率いて追討、八月にも枢密副使白彦恭を北面兵馬都統に任命し追討継続。旧遼地域の契丹部族による国内反乱として鎮圧・被反乱の両方に計上。
被反乱1161年5月契丹諸部の反乱
首謀者: (指導者名の記載なし・契丹諸部族)
結果: 討伐継続中に皇帝崩御
rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧1161年8月単州 杜奎の反乱
首謀者: 杜奎
結果: 討伐軍派遣の記載のみ、結果不明のまま皇帝崩御
「八月壬寅…单州贼杜奎据城叛,遣都点检耶律湛、右骁骑副都指挥大磐讨之」。
被反乱1161年8月単州 杜奎の反乱
首謀者: 杜奎
結果: 結果不明のまま皇帝崩御
rebellionSuppressionCountと同一事件。
親征1161年9月〜1161年12月南宋(伐宋・南征、江淮方面)
対象: 南宋(伐宋・南征、江淮方面)
結果: 淮水を渡り和州・廬州方面まで進撃、瓜洲渡から長江渡河を図るが、渡河直前に部下の完顔元宜の反乱により弑殺され、南征は完遂されず頓挫。
「上自将三十二总管兵伐宋,进自寿春」と皇帝自身の親征であることが明記。太保完顔昂・尚書右丞李通ら諸将を左右領軍大都督等に任命しつつも、皇帝本人が全軍を統率し九月に南京(汴京)を出発、十月に淮水を渡河、十一月に瓜洲渡で長江渡河を計画するも同月に弑殺された一連の軍事行動。
反乱鎮圧1161年9月大名府 王九の反乱
首謀者: 王九
結果: 官軍が近づけず事実上鎮圧失敗、皇帝は報告を嫌い上奏者を処罰
「九月庚寅,大名府贼王九据城叛,众至数万,所至盗贼峰起…官军莫敢近。上又恶闻盗贼事,言者辄罪之」。具体的な討伐軍指揮官の記載がなく実効的な鎮圧が行われなかったことが示唆されるため、他3件よりやや確信度を下げて計上。
被反乱1161年9月大名府 王九の反乱
首謀者: 王九
結果: 官軍近づけず、鎮圧されないまま皇帝崩御
rebellionSuppressionCountと同一事件。
被反乱1161年12月15日完顔元宜の兵変(南征軍反乱・弑逆)
首謀者: 完顔元宜(浙西道兵馬都統制)
結果: 海陵王(完顔亮)弑殺・崩御
「乙未,浙西兵马都统制完颜元宜等军反,帝遇弑,崩,年四十」。南征軍を率いていた海陵自身の指揮下部将による軍事クーデターであり、朝廷内部の権力者(南征軍司令官)による兵力を伴う弑逆に該当するため例外パターン4としてsufferedのみに計上(suppressionには計上しない)。deathCauseNoteと同一事件。
改元日付不詳貞元元年三月乙卯、燕京遷都の詔と同日に天德から貞元へ改元。
貞元元年三月乙卯、燕京遷都の詔と同日に天德から貞元へ改元。「乙卯、以遷都詔中外。改元貞元。」
出典: 金史 巻五(海陵本紀)
改元日付不詳正隆元年二月癸酉朔、貞元から正隆へ改元、同日大赦。
正隆元年二月癸酉朔、貞元から正隆へ改元、同日大赦。「二月癸酉朔、改元正隆、大赦。」
出典: 金史 巻五(海陵本紀)
大赦日付不詳正隆元年二月癸酉朔、改元正隆と同日に大赦。
正隆元年二月癸酉朔、改元正隆と同日に大赦。「二月癸酉朔、改元正隆、大赦。」
出典: 金史 巻五(海陵本紀)