海陵王の人物データ
- 生年
- 1122年
- 在位
- 1150年1月9日〜1161年12月15日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1149年12月9日から
- 没年
- 1161年12月15日40歳(数え年)長生き順同率129位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 女真名迪古乃字元功諡号煬呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 金史 巻五 海陵紀
- 死因
- 金史 巻五(海陵本紀)/巻一百三十二(逆臣伝末尾論賛)
- 即位経路
- 金史 巻五(海陵本紀)
生涯
即位まで
太祖の孫で、遼王宗幹の第二子である。熙宗が太祖の嫡孫本家を継ぐ立場にある孫として位を継ぐと、父が太祖の長子であることから帝位をうかがった。即位前は、せっかちで疑い深く、残忍で術策を使う人だったという。唐括辯との廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることの密談では、自ら誰を立てるかと持ち出し、その気があるのかと問われると、やむを得なければ自分でなくて誰がいると答えた。1150年の初めの夜、大興国が門を開けて海陵らを寝殿に入れ、一行は熙宗を殺して、忽土の言で海陵を座に就けた。
治世と最期
同じ年、宗本らや、太宗の子孫七十余人、宗翰の子孫三十余人を殺させた。1151年に鷹や鵞鳥の貢納をやめ、同じ年に燕京への遷都を詔して、1153年に移って中都と改めた。1155年に嫡母父の正妻。実母でない子から見た呼び方の徒単太后を迎えると、杖を差し出して不孝をわび、宮中でも表向きは恭順だった。
天下が一家となって初めて正統となれると言い、1159年から宋を討つための船を造らせて兵を籍に入れた。1160年には、宋は無罪で出兵に大義が無いと激しく諫めた祁宰を、市で処刑した。1161年には、伐宋を諫めた嫡母の皇太后を殺した。同じ年に自ら宋へ攻め入ったが、逃げ帰る兵が道に続き、遼陽では世宗が即位して海陵の罪を数え上げた。報を聞いた海陵は股を打ち、宋を平らげてから大定と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることするつもりだった、天命ではないかと嘆いた。長江の渡河にも失敗した。
瓜洲渡で翌日の渡江を期したところで、完顔元宜らの軍に背かれて殺された。死後の1162年に海陵郡王へ落とされ、1181年にはさらに庶人とされた。
史料について
金史の海陵紀の論は、鵞鳥を断ったことを倹約の見せかけとする。太后を殺した理由に、后妃伝はさらに侍婢の密告から異図を疑ったことを書く。長江の渡河の失敗(采石の戦い)を、宋史の虞允文伝は虞允文が迎え撃った大勝とし、金史は本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分が先発の部隊の敗れとだけ書き、烏延蒲盧渾伝は二百余人が沈んだとする。庶人とした詔を、海陵紀は前年の条に置く。
海陵王とつながる皇帝

勢力図
宋・
1149–1161年の地図に、海陵王が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・遷都1・親征1・皇后1・改元3・大赦2
- 改元1150年1月11日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1149年12月11日)元号を「天徳」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1150年1月11日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1149年12月11日)改元天德と同日に大赦。
- 皇后1150年10月13日惠妃徒単氏を皇后に冊立。
- 改元1153年元号を「貞元」とする
- 遷都1153年上京会寧府 → 中都(燕京)
- 改元1156年元号を「正隆」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1156年改元正隆と同日に大赦。
- 反乱1158年東海県 張旺・徐元の乱
- 反乱1161年6月契丹諸部の反乱
- 反乱1161年8月24日単州 杜奎の反乱
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1161年10月〜1161年12月南宋(伐宋・
南征、江淮方面) - 反乱1161年10月大名府 王九の反乱
- 反乱1161年12月15日完顔元宜の兵変(南征軍反乱・
弑逆)
金の歴代皇帝
歴代10人の一覧年表
遼・
金が