中国皇帝統計

熙宗

金|在位 1135–1150年

諱(本名)
完顔亶
在位
1135–1150年
在位期間
14年337日365名中86位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
31歳(数え年)269名中・長寿順183位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
3267名中121位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

太宗により「諳班勃極烈」(皇太子格)に定められ、太宗崩御を受け柩前で即位。正式に指名された太祖嫡孫としての継承。

出典: 金史 巻四(熙宗本紀)

死因の経緯

皇統9年12月9日夜、従兄弟の海陵(完顔亮)らが寝殿に侵入し弑逆。「阿里出虎先进刃,忽土次之,熙宗顿仆,海陵复刃之」。史臣論賛でも「熙宗之弑」と明記される。

出典: 金史 巻一百三十二(逆臣伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

熙宗は即位前、太宗天会10年4月に太祖の嫡孫として「諳班勃極烈」(皇太子格の地位。都元帥ではない)に定められたが、この期間も太宗の元号「天会」がそのまま用いられ、熙宗自身が独自の元号を建てた事実はない(本紀に別段の年号記載なし)。天会13年正月の即位時も前代の元号「天会」を継続使用しただけで新規建元はなく(改元回数に不算入)、その後在位中に確認できる実際の改元は天眷(天会15年12月)・皇統(皇統元年正月)の2回のみ。国号(金国号自体に変更はない)との混同はない。

大赦回数

『金史』本紀四に明記された「大赦」の語を用いた記事のみを計上(計3回)。同巻には他に「赦中外」(皇統2年2月、皇子誕生に伴う)、「肆赦」(皇統9年5月、天変に伴う)、「曲赦上京囚」(同、上京限定)、単独の「赦」(皇統5年12月)等の恩赦関連記事も見られるが、「大赦」の明記がない、または「曲赦」等の地域限定を示す語であるため対象外とした(先行調査ブロックの運用方針=「大赦」「大赦天下」等の明記のみを計上、に準拠)。

立后回数

皇統9年11月「杀皇后裴满氏」で処刑されるまで皇后は裴満氏のみで、在位中の立后は1回。廃后後の再冊立の記載はない(熙宗自身が同年12月に弑逆されているため後継の立后機会もなし)。

皇太子廃立回数

皇統2年3月「立子济安为皇太子」で皇太子済安を立てたが、同年12月「皇太子济安薨」で死去(廃立ではなく薨去)。以後、熙宗在位中に新たな皇太子が立てられた記事はなく、廃立された皇太子も確認できない。よってcrownPrinceDepositionCount=0。

親征回数

在位中(天会13年~皇統9年)の対宋・対陝西河南方面の軍事行動(河南・陝西平定、渡淮南征等)はいずれも都元帅宗弼、右副元帅宗輔、監軍撒離合ら将帥が皇帝の詔を受けて統率しており、熙宗自身が親征した記述は本紀中に一切見当たらない。宋・遼・西夏等との対外戦争は本ルールにより親征があった場合のみ計上する方針だが、熙宗は一度も自ら出征していないため0件。

反乱鎮圧回数

なお天眷二年七月~八月にかけての宗磐(宋国王)・宗隽(衮国王)・沂王晕・撻懶(行台左丞相)ら宗室・重臣グループの「謀反,伏誅」事件は、原文に実際の挙兵・戦闘を示す記述がなく、密告・摘発による粛清と判断されるため、ルールの「実際の兵力行使に至らず密告・摘発のみで終わった謀反計画」の例外に該当するとみなし、鎮圧・被反乱いずれにも計上しなかった。

被反乱回数

宗磐・宗隽ら宗室粛清事件(前掲)は密告・摘発型の謀反として鎮圧・被反乱いずれにも含めていない。海陵王の弑逆は正史本紀に詳細な経過(護衛の抵抗を実力で排除する場面を含む)が記録されており高確信度。

遷都回数

金史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(上京→中都は海陵王期、中都→南京は宣宗期の出来事として各々計上済み。哀宗期の帰徳・蔡州への移動は滅亡直前の戦時避難で恒久的遷都と認められず対象外)。

即位時年齢・没年齢

『金史』巻四(熙宗本紀)冒頭に「天辅三年己亥岁生」(天輔3年=1119年生)とあり、また同巻十四年正月条に「上本七月七日生,以同皇考忌日,改用正月十七日」と誕生日が七月七日(旧暦)であったことが明記される(万寿節を本来の誕生日ではなく正月十七日に変更した理由として言及)。両記述を合わせ生年月日を天輔三年七月七日(旧暦)と特定し、天文暦算(sxtwlライブラリ)によりグレゴリオ暦1119-08-14に変換した(当時公式に用いられた暦法との厳密な一致は未検証のため近似値)。没年齢は本紀末尾「帝崩,时年三十一」に直接記載(数え年31歳、皇統九年十二月九日)。即位時年齢の直接記載(「時年◯◯」等)は本紀中に見当たらず、生年から逆算すれば数え年17歳頃だが、原文に直接の記載がないためaccessionAgeはnullとした。

在位中の出来事(9件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

被反乱1150年1月9日完顔亮(海陵王)による熙宗弑逆

首謀者: 完顔亮(海陵王)

結果: 熙宗弑逆・崩御

皇統九年十二月九日夜、平章政事完顔亮が駙馬唐括辯・寝殿小底大興国・護衛忽土・阿里出虎らと共謀し兵刃を用いて寝殿に侵入、衛士を刃で威嚇・突破したうえで熙宗を弑逆した(「衛士覚,抽刃劫之,莫敢動」「忽土、阿里出虎遂進弑帝,亮復前手刃之」)。朝廷内部の権力者による兵力を伴うクーデター・弑逆に該当するため、被反乱のみに計上し鎮圧側には計上しない。

改元日付不詳【皇帝在位中】天会十五年(1137年)十二月癸未、「诏改明年为天眷元年。

【皇帝在位中】天会十五年(1137年)十二月癸未、「诏改明年为天眷元年。」翌年(1138年)を天眷元年とする改元の詔(天会→天眷)。天会13年正月の即位から天会15年末までは太宗代の元号「天会」をそのまま継続使用しており(即位に伴う建元は行われていない)、この改元が在位中最初の元号切替。

出典: 金史 巻四(熙宗本紀)

改元日付不詳【皇帝在位中】皇統元年(1141年)正月癸丑、「谢太庙。

【皇帝在位中】皇統元年(1141年)正月癸丑、「谢太庙。大赦。改元。」天眷から皇統への改元。

出典: 金史 巻四(熙宗本紀)

大赦日付不詳【皇帝在位中】天会十五年(1137年)十二月癸未、「诏改明年为天眷元年。

【皇帝在位中】天会十五年(1137年)十二月癸未、「诏改明年为天眷元年。大赦。」年号改元(天会→天眷)の詔と同日に大赦を実施。

出典: 金史 巻四(熙宗本紀)

大赦日付不詳【皇帝在位中】皇統元年(1141年)正月癸丑、「谢太庙。

【皇帝在位中】皇統元年(1141年)正月癸丑、「谢太庙。大赦。改元。」尊号奉呈・改元(天眷→皇統)と同日に大赦を実施。

出典: 金史 巻四(熙宗本紀)

大赦日付不詳皇統九年(1149年)十月乙丑、胙王元らを誅殺した記事に続けて「大赦。

皇統九年(1149年)十月乙丑、胙王元らを誅殺した記事に続けて「大赦。」と明記。改元とは無関係の単独の大赦。

出典: 金史 巻四(熙宗本紀)

立后日付不詳天眷元年(1138年)十二月丁丑、「立贵妃裴满氏为皇后。

天眷元年(1138年)十二月丁丑、「立贵妃裴满氏为皇后。」貴妃裴満氏を皇后に正式冊立(これが悼后、後の逆臣伝にいう「悼后」)。同年四月に一度「立裴满氏为贵妃」と貴妃に封じられており、貴妃→皇后への昇格。

出典: 金史 巻四(熙宗本紀)

反乱鎮圧日付不詳呉十の乱

首謀者: 呉十

結果: 伏誅(鎮圧)

天眷二年六月辛亥(1139年)「呉十謀反,伏誅」。官職・爵位を持たない人物名の記載形式から民間・地方の蜂起と判断し、服属民の反乱として鎮圧に計上した。原文が極めて簡略なため詳細な経過は不明。

被反乱日付不詳呉十の乱

首謀者: 呉十

結果: 伏誅(鎮圧)

天眷二年六月辛亥(1139年)「呉十謀反,伏誅」。国内の地方蜂起として鎮圧・被反乱の両方に計上。

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