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金第3代

熙宗完顔亶

在位 1135–1149年(14年333日)1135年2月10日 〜 1150年1月9日 ( 1149年12月9日まで)

日本は平安時代

太祖のとして金の位を継ぎ、宋と和議を結び、孔子廟を自ら祭ってや論語を読んだが、末年は酒に溺れて人を殺し、海陵王(完顔亮)らに殺された皇帝である。

熙宗の人物データ

生年
1119年8月14日
在位
  • 1135年2月10日〜1150年1月9日 1149年12月9日まで
14年333日長い順87位/365人即位の年齢は不詳
没年
1150年1月9日( 1149年12月9日)31歳(数え年)長生き順同率181位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 太宗金熙宗は太宗の同族(遠縁)
次代
呼び名
女真名合剌呼び名の見方

出典

在位
金史 本紀四 熙宗
死因
金史 巻一百三十二(逆臣伝)
即位経路
金史 巻四(熙宗本紀)

生涯

即位まで

太祖の孫で、景宣皇帝宗峻の子である。1132年、宗翰らが太祖の嫡孫を後継にするよう太宗に請い、太宗が従った。1135年、太宗が没した翌日に即位した。

治世と最期

1139年には宗磐・宗雋、続いて撻懶を謀反として誅した。1140年には河南を再び取るよう命じ、同じ年に完顔希尹を讒言によって殺したが、のちに無実を知った。

1141年に孔子廟を親祭し、幼い頃に学ばなかったことを悔いると侍臣に語り、以後はを時に夜まで読んだ。1142年には皇子の済安が生まれて皇太子に立てたが、一年もたたずに没した。その前年から酒に溺れ、宰相が諫めると、明日には戒めると言ってまた飲んだ。後継が立たず、皇后の裴満氏に抑えつけられて、酒に荒れた。1145年には完顔勖の諫めで酒をやめ、それを廷臣に布告した。1147年の宴では酔って弟の常勝に剣で迫り、常勝と、呼び戻しに遣った宗憲がともに去ると、さらに怒って、そばの宗礼を自ら殺した。1148年には、州郡の長官に女真人を用いよという進言に、四海の内はみな朕の臣子だと答え、才で用いよと命じた。

1149年、皇弟を名乗る者が出ると常勝を疑い、完顔亮の言を容れて常勝と弟の査剌を殺し、亮を忠臣と思い込んだ。同じ年に皇后の裴満氏らも殺した。1150年の初め、完顔亮らが群臣の恐れに乗じて謀った。熙宗はいつも置いていた佩刀を求めたが、大興国が置き場所を変えており、忽土らに殺された。

史料について

金史の熙宗本紀は完顔亮も自ら刃を加えたとするが、海陵はそれを書かない。金史の礼志に載る世宗の詔は、宋との戦をやめたことを評価し、晩年は冤罪が弟と后に及んだが、虐政は民に及ばなかったとする。

熙宗とつながる皇帝

宋・遼・金・西夏の勢力図(1135年)

勢力図

宋・遼・金・西夏の勢力図で見る

1135–1149年の地図に、熙宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・皇后1・改元2・大赦5
  1. 改元1138年元号を「天眷」とする
  2. 1138年
  3. 改元1141年元号を「皇統」とする
  4. 1141年
  5. 1142年皇子済安の誕生を受けて中外に赦を下した。
  6. 1146年始祖以下十帝と太宗・徽宗に諡号を増し加えた後に赦を下した。
  7. 1149年
  8. 反乱1150年1月9日( 1149年12月9日)完顔亮(海陵王)による熙宗弑逆
  9. 皇后日付不詳皇后を立てる
  10. 反乱日付不詳呉十の乱

金の歴代皇帝

歴代10人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

金が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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