世宗
金|在位 1161–1189年

- 諱(本名)
- 完顔雍(烏禄)
- 在位
- 1161–1189年
- 在位期間
- 27年92日365名中32位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 39歳(数え年)172名中・若い順133位タイ
- 没年齢
- 67歳(数え年)269名中・長寿順21位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 5回267名中82位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 4回289名中127位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
海陵の南征中、東京(遼陽)にて李石の献策により自立して即位。当時の皇帝は海陵であり、その存命中に別の都で挙兵・即位した王朝内クーデターのため簒奪。
出典: 金史 巻六十四(后妃伝下・貞懿皇后李氏伝)
死因の経緯
「二十九年正月壬辰朔,上大漸,不能視朝…癸巳,上崩于福安殿,壽六十七」。他殺の記述なし。
出典: 金史 巻八(世宗本紀下)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
金史巻六〜八(世宗本紀上・中・下)を大定元年(1161)から大定二十九年(1189)崩御まで通読したが、「改元」の語が現れるのはこの即位時の一件のみで、在位28年間を通じて元号「大定」が変更されることはなかった。
大赦回数
金史巻六〜八(世宗本紀上・中・下)を通読し、「大赦」と明記された全国規模の恩赦のみを計上した。大定二十一年以降(巻八該当期間)には大赦の記事は見当たらなかった。
立后回数
世宗は即位後、生前の正式な皇后冊立を行わなかった。金史巻六十四(后妃伝下)元妃李氏の項に「世宗即位,感念昭德皇后,不复立后。尝谓:朕所以不复立后者,今后宫无皇后之贤故也」と明記されている。正妃・乌林荅氏(後の昭德皇后)は世宗がまだ皇帝に即位する前、海陵王治下で済南尹在任中(正隆年間)に、海陵王の追及から世宗を守るため自ら命を絶っており、大定二年(1162)に「追册为昭德皇后,立别庙」として没後に追贈されたのみで、生前の正式冊立ではないため計上しない(本プロジェクトの他の皇帝項目における追封・追諡・追册の扱いと同一の判断基準)。同后妃伝には他に元妃張氏・元妃李氏(世宗の生母ではなく後宮の妃)の記載があるが、いずれも皇后には冊立されていない。
皇太子廃立回数
皇太子允迪(のち允恭と改名、諡号宣孝、追諡皇帝号は顕宗)は大定二年五月壬寅に立てられ(金史巻六「壬寅,立楚王允迪为皇太子,诏中外。」)、大定二十五年六月甲寅に薨去するまで在位を通じて一貫して皇太子の地位にあった(金史巻八「庚申,皇太子允恭薨。」)。廃立の記録は本紀に見当たらない。同年十一月己未には皇太孫として原王璟(のちの章宗)が立てられているが(金史巻八「立右丞相原王璟为皇太孙」)、これは皇太子の自然薨去による代替わりであり廃立ではない。
親征回数
金史巻六~巻八(世宗紀)を通読したが、即位(大定元年10月)以降、世宗自身が軍を率いて出征した記述は見当たらない。宋との戦争(隆興北伐への応戦等)・契丹窝斡の乱・乌底改の乱等はいずれも完颜谋衍・仆散忠义・纥石烈志宁・完颜思敬ら将帅に軍を委ねており、世宗自身は中都・上京巡幸や春水秋山(狩猟)に赴くのみで親征の事実はない。即位前(東京留守として括里の乱を討った件)は簒奪・即位前の軍事行動としてaccessionRoute領域の扱いとし、本カウントの対象外とした。
反乱鎮圧回数
rebellionSufferedCountのnoteで詳述した通り、洛陽県賊の事件(賊が宋へ逃亡し追討記録なし)と乌底改の叛乱(討伐軍が敵を破らず撤退し将官が処罰された旨のみ記載)は、原文キャッシュの範囲内で鎮圧完了を示す記述がないため本カウントには含めなかった。また十数件の「(某地某人)谋反/谋叛/乱言,伏诛」の記述は密告・摘発による処断のみで武力行使を伴わないと判断し除外した。この判断は解釈の余地があるためconfidenceをmediumとした。
被反乱回数
原文には他に「泰州民合住谋反,伏诛」「归德府民臧安儿谋反,伏诛」「北京曹贵等谋反,伏诛」「西北路纳合七斤等谋反,伏诛」「鄜州李方等谋反,伏诛」「同州民屈立等谋反,伏诛」「冀州王琼等谋反,伏诛」「德州防御使文以谋反,伏诛」「大名府僧李智究等谋反,伏诛」「献州人殷小二等谋反,伏诛」「密州民许通等谋反,伏诛」「济南民刘溪忠谋反,伏诛」「蒲速宛群牧老忽谋叛,伏诛」「大名府猛安人马和尚谋叛,伏诛」「西京留守寿王京谋反,狱成」「契丹外失剌等谋叛,伏诛」「冀州张和等反,伏诛」等、十数件の「(某地某人)谋反/谋叛,伏诛」の記述と「赵景元等以乱言伏诛」「辽州民朱忠等乱言伏诛」「恩州民邹明等乱言伏诛」「潞州涉县人陈圆乱言伏诛」等の「乱言,伏诛」の記述が存在するが、いずれも挙兵・交戦・攻城等の実際の武力行使を示す記述を伴わず、密告・摘発により発覚した謀反計画を処断したのみと判断されるため、鎮圧・被反乱いずれからも除外した(ルール『実際の兵力行使に至らず密告・摘発のみで終わった謀反計画は鎮圧・被反乱いずれにも含めない』に該当)。この判断は解釈の余地があるためconfidenceをmediumとした。なお高麗・西夏の内紛(趙位寵の叛、任得敬の専権)は金への外部国家の内政問題であり対象外。海陵在世中の即位(東京での簒奪即位)に至る過程(括里の乱の鎮圧・高存福の陰謀露見)は即位前の出来事のためaccessionRoute領域として本カウントから除外した。
遷都回数
金史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(上京→中都は海陵王期、中都→南京は宣宗期の出来事として各々計上済み。哀宗期の帰徳・蔡州への移動は滅亡直前の戦時避難で恒久的遷都と認められず対象外)。
即位時年齢・没年齢
金史巻六(世宗本紀上)冒頭に「天辅七年癸卯岁,生于上京」(1123年生)とあり、また金史巻六十四(后妃伝下・貞懿皇后李氏伝)に「天会十三年,睿宗薨,世宗时年十三」(1135年、父睿宗薨去時に世宗13歳=数え年で記載)とあり、生年と整合する。崩御については金史巻八(世宗本紀下)大定二十九年正月条に「癸巳,上崩于福安殿,寿六十七」と明記(数え年67歳)。即位時年齢(数え年39歳相当と算出可能)は原文中に「时年三十九」等の直接記載が見当たらないため、accessionAgeはnullとした。
在位中の出来事(12件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1161年10月正隆六年十月丁未(即位翌日)、大赦と同時に大定へ改元(即位に伴う建元)。
正隆六年十月丁未(即位翌日)、大赦と同時に大定へ改元(即位に伴う建元)。金史巻六「丙午,庆云见,官属诸军劝进…即皇帝位…丁未,大赦,改元大定。」海陵王討伐(遼陽での挙兵・自立)に続く即位に伴う唯一の建元。
出典: 金史 巻六(世宗本紀上)
大赦1161年10月正隆六年(元年)十月丁未、即位翌日(丙午即位)に大赦を実施、同日に大定へ改元。
正隆六年(元年)十月丁未、即位翌日(丙午即位)に大赦を実施、同日に大定へ改元。金史巻六「丁未,大赦,改元大定。」
出典: 金史 巻六(世宗本紀上)
反乱鎮圧1161年11月〜1162年9月契丹諸部(移剌窝斡)の乱
首謀者: 移剌窝斡(萧窝斡)
結果: suppressed
大定元年11月頃から契丹将帅を派遣して招討を開始し、翌大定二年(1162年)中に長泺・霿松河・花道・袅岭西陷泉等で連戦、九月に窝斡を捕らえ「余众悉平」(金史巻六)と鎮圧完了。指揮は完颜谋衍・仆散忠义・完颜思敬ら将帅で、世宗自身の親征ではない。
被反乱1161年11月〜1162年9月契丹諸部(移剌窝斡)の乱
首謀者: 移剌窝斡(萧窝斡)
結果: suppressed
海陵の南征に伴う契丹部族徴兵への反発に端を発し、世宗即位後も契丹・奚諸部が広範囲に呼応して蜂起。長泺・霿松河・花道・袅岭西陷泉等で交戦を繰り返し、大定二年九月「元帅右都监完颜思敬获契丹窝斡,余众悉平」で鎮圧完了。世宗自身は親征せず、鎮圧回数にも計上。
大赦1162年10月大定二年十月戊子、父・睿宗を景陵に葬るのに際し大赦。
大定二年十月戊子、父・睿宗を景陵に葬るのに際し大赦。金史巻六「戊子,葬睿宗皇帝于景陵,大赦。」
出典: 金史 巻六(世宗本紀上)
反乱鎮圧1163年2月東京僧法通の妖術による民衆煽動
首謀者: 法通(僧)
結果: suppressed
大定三年二月「东京僧法通以妖术乱众,都统府讨平之」(金史巻六)。都統府による武力鎮圧が明記されている。
被反乱1163年2月東京僧法通の妖術による民衆煽動
首謀者: 法通(僧)
結果: suppressed
大定三年二月「东京僧法通以妖术乱众,都统府讨平之」。都統府が武力を行使して鎮圧した明記があり、鎮圧回数にも計上。
大赦1167年1月大定七年正月癸丑、衮冕を服し大安殿にて尊号册宝礼を受けたのに伴い大赦。
大定七年正月癸丑、衮冕を服し大安殿にて尊号册宝礼を受けたのに伴い大赦。金史巻六「壬子,上服衮冕,御大安殿,受尊号册宝礼。癸丑,大赦。」
出典: 金史 巻六(世宗本紀上)
大赦1171年11月大定十一年十一月丁亥、圜丘における祭祀(有事于圜丘)に伴い大赦。
大定十一年十一月丁亥、圜丘における祭祀(有事于圜丘)に伴い大赦。金史巻六「丁亥,有事于圆丘,大赦。」
出典: 金史 巻六(世宗本紀上)
被反乱1173年2月洛陽県賊の盧氏県襲撃事件
首謀者: 不明(洛陽県賊、首魁名記載なし)
結果: unsuppressed
大定十三年閏正月「洛阳县贼聚众攻卢氏县,杀县令李庭才,亡入于宋」。県令を殺害する実際の武力行使を伴う蜂起だが、賊は宋領内へ逃亡し、原文にその後の追討・捕縛の記載がない(未鎮圧のまま在位終了に準ずる扱い)。鎮圧回数には含めず被反乱のみに計上。
大赦1179年11月大定十九年十一月壬戌、亡妻・昭德皇后(乌林荅氏)の改葬に伴い大赦。
大定十九年十一月壬戌、亡妻・昭德皇后(乌林荅氏)の改葬に伴い大赦。金史巻七「十一月壬戌,改葬昭德皇后,大赦。」
出典: 金史 巻七(世宗本紀中)
被反乱1186年9月乌底改の叛乱
首謀者: 不明(乌底改部、首魁名記載なし)
結果: suppression_failed
大定二十六年九月「乌底改叛亡,已遣人讨之」、十月「宁昌军节度使崇肃、行军都统忠道以讨乌底改,不待克敌而还,崇肃杖七十…忠道杖八十」と、討伐軍を派遣したが敵を破らずに撤退し両将が処罰された旨が明記され、その後の再討伐・鎮圧完了の記載が原文キャッシュ範囲内に見当たらない。鎮圧回数には含めず被反乱のみに計上。