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懐帝の肖像画

西晋第5代()

懐帝司馬熾

在位 306–311年(4年183日)307年1月11日 〜 311年7月13日 ( 306年11月21日から)

日本は古墳時代

武帝の第二十五子で、兄の恵帝の後を継いだが、洛陽を陥とされて平陽へ連れ去られ、その地で殺された西晋の皇帝である。

懐帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 307年1月11日〜311年7月13日 306年11月21日から
4年183日長い順194位/365人即位の年齢は不詳311年に在位を終え、2年後の313年に没
没年
313年3月14日30歳(数え年)長生き順同率186位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 恵帝西晋懐帝は恵帝の弟
次代
  • 愍帝西晋愍帝は懐帝の甥
呼び名
姓司馬諱熾字豊度呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻五 孝懐帝紀
死因
晉書 帝紀第五 孝懷帝
即位経路
晉書 帝紀第五 孝懷帝

生涯

どんな皇帝か

秘書監の荀崧は、太平の世なら守文の良主たり得たが、乱の後を継ぎ東海王が専政したため、暴君の罪も無く流亡の禍に遭ったと評した。

即位まで

が争った恵帝の代には、門を閉じて賓客との交遊を絶ち、史籍に打ち込んで評判を得た。304年にに立てられたが、もと皇太子の清河王司馬覃がいたため恐れて辞退しかけ、の修肅に勧められて受けた。恵帝が没すると、羊皇后は太后になれないので司馬覃を呼び寄せたが、尚書閣まで来たところで、の華混らが急いで司馬熾を召した。

治世と最期

即位後は太極殿に臨み、宴のたびに群官と政務や経籍を論じ、傅宣は今日また武帝の世を見ると嘆じた。政治は東海王司馬越に委ねたが、やがて自らに心を配り、司馬越はこれを喜ばず許昌へ出た。309年、司馬越は兵を宮中に入れて腹心の繆播らを懐帝の目の前で捕らえ、懐帝は彼らの手を取って泣いたが、繆播らは殺された。

311年には苟晞に司馬越を討つを下したが、司馬越はその年のうちに死に、石勒が晋軍を破って、王衍ら十余万人が死んだ。飢えた洛陽から逃れようと徒歩で宮門を出たものの、盗賊に掠められて引き返した。同じ年に洛陽が陥ちて懐帝は平陽へ送られ、会稽公とされた。

劉聡が宴で、晋の一族はなぜ骨肉で争ったのかと問うと、懐帝は漢が天命を受けるための天意だと答えた。313年の宴で劉聡は懐帝に青衣を着せて酒を注がせ、庾珉ら旧晋臣が号泣したのを憎み、その後懐帝は殺された。

史料について

封号を、は会稽公とし、資治通鑑は初め平阿公、のち会稽とする。劉聡との問答は劉聡による。殺されたわけを、載記と資治通鑑は庾珉らが劉琨に呼応しようと謀ったという密告とし、魏書は謀議そのものとする。毒殺と書くのは載記だけである。晋書の曰が引く干宝の論は、懐帝は乱を承けて位を得たが強臣に縛られたと評する。

懐帝とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(306年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

306–311年の地図に、懐帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱13・皇后1・改元1・大赦6
  1. 反乱307年建寧郡夷の反乱
  2. 307年1月11日( 306年11月21日)皇帝即位と同日に大赦。
  3. 皇后307年1月11日( 306年11月21日)即位と同日に妃梁氏を皇后に冊立。
  4. 反乱307年2月( 306年12月)〜308年5月王弥の乱
  5. 改元307年2月20日元号を「永嘉」とする
  6. 307年2月20日改元とあわせて大赦。
  7. 反乱307年3月陳敏の乱(終息)
  8. 反乱307年5月〜307年12月汲桑・石勒の乱
  9. 307年5月9日
  10. 308年
  11. 308年
  12. 反乱309年劉芒蕩・五斗叟・郝索の乱
  13. 310年
  14. 反乱310年銭璯の乱
  15. 反乱310年王如の乱
  16. 反乱310年楽仰の反乱
  17. 反乱310年周馥の乱(遷都上表を巡る抗争)
  18. 反乱310年流氐隗伯の反乱
  19. 反乱310年李洪の反乱
  20. 反乱311年杜弢の乱(湘州)
  21. 反乱311年汝班・蹇撫の反乱

西晋の歴代皇帝

歴代5人の一覧

年表

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西晋が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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