中国皇帝統計

懐帝

西晋|在位 307–313年

懐帝の肖像
諱(本名)
司馬熾
在位
307–313年
在位期間
6年67日365名中169位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
30歳(数え年)269名中・長寿順188位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
6267名中67位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
7225名中58位タイ
被反乱
15289名中29位タイ
遷都
145名中12位タイ

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:懐帝

即位の経緯

恵帝の異母弟として、恵帝の崩御(東海王司馬越による毒殺の噂あり)後、司馬越に擁立され即位。

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

死因の経緯

永嘉の乱で洛陽陥落後、漢趙の劉聡の捕虜となり平陽へ連行され会稽公に封じられた。捕囚生活の後、建興元年(313年)正月、宴席で酌をさせられ旧臣たちが泣いたことに劉聡が怒り、まもなく毒殺された(享年30)。埋葬地は不明。同一政権内(勝者側)の実権者による毒殺のため暗殺に分類。

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

『晋書』帝紀第五(孝懐帝紀)を通読。「改元」と明記されるのは永嘉元年正月の1回のみ。光熙元年十一月癸酉の即位時点では恵帝の元号「光熙」がそのまま用いられ続けており、翌年正月に至って初めて自らの元号「永嘉」への改元が行われている。即位に伴う最初の建元としてこの1回を算入した。在位中(永嘉七年=建興元年2月1日まで)、他に改元の記述はない。

大赦回数

『晋書』帝紀第五(孝懐帝紀)を通読し「大赦」と明記された全国規模の恩赦のみを算入した。「曲赦」(永嘉元年八月の幽・并・司・冀・兗・豫六州、永嘉三年三月の河南郡)は地域限定のため除外。永嘉三年・五年・六年・七年(永嘉五年六月の洛陽陥落・帝の平陽連行以降は実質的に劉聡の捕囚下)には大赦の記述が見当たらない。

立后回数

在位を通じて皇后梁氏1名の冊立のみ確認できる。廃后・再冊立の記述はない。

皇太子廃立回数

永嘉元年三月庚午、豫章王詮を皇太子に立てた記述はあるが(立太子そのものはカウント対象外)、その後この詮に対する廃立の記述は帝紀に見当たらない。永嘉五年、東海王越が出征し朝廷が窮迫するなか、大将軍苟晞が別に豫章王端を擁立して皇太子とした記事があるが(「豫章王端東奔苟晞,晞立爲皇太子」)、これは反東海王越派による対抗的な擁立であり、懐帝自身が既存の皇太子(詮)を廃した行為ではないため、本カウントには含めない。

親征回数

『晋书』帝紀第五・懐帝紀(司馬熾、光熙元年11月即位~永嘉七年正月遇弑)を通読したが、「帝自将」「親征」等、皇帝本人が軍を率いて出征した記述は見当たらない。汲桑・王弥・石勒・劉聡らへの対応はすべて東海王越・苟晞・王衍・南陽王模ら臣下への派遣・詔命によるもの。唯一皇帝本人の移動を伴う記述は永嘉五年(311年)、大将軍苟晞の遷都仓垣の上表に従い長安への避難を試みて西掖門を徒歩で出た際、盗賊に遮られて宮に引き返した一件のみだが、これは敵に対する軍事行動ではなく避難(逃亡未遂)であり親征に該当しない。よって該当記事なしと判定。

反乱鎮圧回数

永嘉の乱期(307~313年)は西晋の統治機構が急速に崩壊し、各地で流民・在地有力者・元官吏らによる蜂起が同時多発的に発生した特異な時期。匈奴漢(劉元海・劉聡、漢趙)および成漢(李雄)はいずれも独立政権として既に自立していたため、これらとの戦争(洛陽攻防戦を含む)は対外戦争として反乱鎮圧・被反乱いずれからも除外した。王弥・石勒のように当初は服属民の反乱として蜂起しながら後に匈奴漢へ投降し外部勢力の一員となった者は、投降前の蜂起のみを反乱として計上し、投降後の軍事行動は対外戦争として除外した。また、懐帝自身が苟晞に密詔して摂政・東海王越を討たせようとした一件(永嘉五年)は、皇帝側が先制して権臣を武力打倒しようとした事例(相手はまだ反乱を起こしていない)に該当するため、基準の例外3に従い鎮圧・被反乱いずれからも除外した。同様に、王浚が愍帝擁立前に独自に皇太子を仮立して百官を置いた一件も、晋朝への忠誠を標榜した政治的行動であり武力反乱とは性格が異なるため除外した。

被反乱回数

反乱鎮圧回数と対称に計上することを原則とし、鎮圧側で成功・失敗いずれかの対応記録がある7件は両方に計上、政権側の対応記録がなく在位終了時点まで未解決だった8件(建寧郡夷・楽仰・隗伯・李洪・杜弢・汝班蹇抚・胡亢・董冲)は理由2(未鎮圧のまま在位終了)に基づき被反乱のみに計上した。永嘉五年六月(311年)の洛陽陥落・懐帝捕縛は劉曜・王弥・石勒ら匈奴漢(既に独立国家として自立していた漢趙)による対外戦争の帰結であり、服属民の反乱には該当しないため計上していない(設問の指示通り対外戦争として扱った)。

遷都回数

在位中に遷都1回(0313年 洛陽→長安)。

即位時年齢・没年齢

崩御時年齢30歳は本紀に「時年三十」と直接記載(永嘉七年正月丁未、平陽にて弑逆)。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。なお本紀原文の当該記事は「七年春正月」の条にあり、本データセット既存のreigns.endDate(永嘉7年2月1日=0313-03-14)と月がずれている可能性がある(要確認、deathDateは追加せず保留)。

在位中の出来事(31件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元307年永嘉元年正月癸丑朔、大赦とあわせて改元。

永嘉元年正月癸丑朔、大赦とあわせて改元。原文:「永嘉元年春正月癸丑朔,大赦,改元,除三族刑。」即位翌年に自身の元号「永嘉」を初めて建てた記事であり、即位に伴う最初の建元として1回に算入。

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

大赦307年光熙元年(307年)十一月癸酉、皇帝即位と同日に大赦。

光熙元年(307年)十一月癸酉、皇帝即位と同日に大赦。原文:「癸酉,即皇帝位,大赦,尊皇后羊氏爲惠皇后,居弘訓宮,追尊所生太妃王氏爲皇太后,立妃梁氏爲皇后。」

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

大赦307年永嘉元年正月癸丑朔、改元とあわせて大赦。

永嘉元年正月癸丑朔、改元とあわせて大赦。原文:「永嘉元年春正月癸丑朔,大赦,改元,除三族刑。」

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

大赦307年永嘉元年三月辛未、大赦。

永嘉元年三月辛未、大赦。原文:「庚午,立豫章王詮爲皇太子。辛未,大赦。」

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

立后307年光熙元年十一月癸酉、即位と同日に妃梁氏を皇后に冊立。

光熙元年十一月癸酉、即位と同日に妃梁氏を皇后に冊立。原文:「癸酉,即皇帝位,大赦,尊皇后羊氏爲惠皇后,居弘訓宮,追尊所生太妃王氏爲皇太后,立妃梁氏爲皇后。」

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

被反乱307年建寧郡夷の反乱

首謀者: 建寧郡夷(首謀者名不詳)

結果: 永嘉元年、建寧郡の夷(少数民族)が寧州を攻陥し死者三千余人。鎮圧の記録なく在位中未解決。

属国・辺境の統治下異民族による蜂起として計上。原文には具体的な月の記載がなく、永嘉元年五月の汲桑の乱の記事の直後に置かれていることから同年中の出来事と推定(datePrecisionはyear)。理由2(未鎮圧のまま在位終了)に該当し被反乱のみに計上。

反乱鎮圧307年2月〜308年5月王弥の乱

首謀者: 王弥

結果: 永嘉元年二月、東莱人王弥が起兵し青・徐二州を侵寇。翌年五月に洛陽を攻めるも司徒王衍が率いる軍に撃退され退却。その後まもなく匈奴漢(劉元海)に帰順し漢の将として活動するようになったため、以後の軍事行動は対外戦争(漢趙との戦争)として除外した。

王弥は当初、晋朝に服属する民(東莱の在地有力者)としての独立蜂起であったため反乱に計上。永嘉三年(309年)以降は劉元海配下の将として劉聡らと共に洛陽攻略戦(永嘉五年)に参加しており、その時点以降は独立政権・漢趙側の対外戦争とみなし反乱扱いから除外した。

被反乱307年2月〜308年5月王弥の乱

首謀者: 王弥

結果: 青・徐二州を侵寇、洛陽で撃退されるも捕縛には至らず、その後匈奴漢に帰順し対外戦争の主体に転じた。

鎮圧回数と対称に計上。

反乱鎮圧307年3月陳敏の乱(終息)

首謀者: 陳敏

結果: 平東将軍周馥が陳敏を斬り首級を送る。鎮圧成功。

本紀第五・懐帝紀では永嘉元年三月に討伐完了の記述のみで、挙兵の経緯は記載なし(一般に恵帝期の永寧年間頃に広陵で起兵し楚公・楚王を号したとされる反乱で、懐帝即位前から継続していたとみられる)。懐帝在位期間中に鎮圧が完了した事案として計上したが、蜂起自体は先代の出来事である点に留意。中確信度。

被反乱307年3月陳敏の乱(終息)

首謀者: 陳敏

結果: 平東将軍周馥が陳敏を斬り鎮圧。

鎮圧回数と対称に計上。蜂起自体は懐帝即位前(恵帝期)に始まっていたとみられる点に留意。中確信度。

反乱鎮圧307年5月〜307年12月汲桑・石勒の乱

首謀者: 汲桑

結果: 永嘉元年五月、馬牧帥汲桑(石勒も配下として参加)が挙兵し鄴城を陥落、新蔡王司馬騰を殺害。八・九月に抚軍将軍苟晞が撃破し九塁を陥落、十二月に并州人田蘭・薄盛らが汲桑を楽陵で斬首し鎮圧成功。石勒は逃走して劉元海(匈奴漢)に投降し、以後は漢の将として活動(対外戦争へ移行)。

石勒はこの反乱の当初段階では汲桑配下として服属民の反乱に含まれるが、汲桑死後(307年末)は独立して匈奴漢に帰順したため、以後の石勒の軍事行動は対外戦争として別枠扱いとした。

被反乱307年5月〜307年12月汲桑・石勒の乱

首謀者: 汲桑

結果: 鄴城陥落・新蔡王殺害を経て最終的に汲桑は斬首され鎮圧された。

鎮圧回数と対称に計上。

大赦308年永嘉二年正月丁未、大赦。

永嘉二年正月丁未、大赦。原文:「二年春正月丙子朔,日有蝕之,日有蝕之。丁未,大赦。」

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

大赦308年永嘉二年十二月辛未朔、大赦。

永嘉二年十二月辛未朔、大赦。原文:「十二月辛未朔,大赦。立長沙王乂子碩爲長沙王,鮮爲臨淮王。」

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

反乱鎮圧309年7月劉芒蕩・五斗叟・郝索の乱

首謀者: 劉芒蕩

結果: 永嘉三年七月、平陽人劉芒蕩が馬蘭山で自ら「漢後」を称し僭帝号、羌戎を誘って支胡五斗叟・郝索の勢力(新豊に屯集)と合流。征西大将軍南陽王模配下の淳于定がこれを撃破し斬殺、鎮圧成功。

劉芒蕩は匈奴漢(劉元海政権)の一員ではなく、平陽の一民が独自に漢室後裔を僭称して蜂起したもので、服属民の反乱として計上。

被反乱309年7月劉芒蕩・五斗叟・郝索の乱

首謀者: 劉芒蕩

結果: 淳于定に撃破され斬殺、鎮圧成功。

鎮圧回数と対称に計上。

大赦310年永嘉四年正月乙丑朔、大赦。

永嘉四年正月乙丑朔、大赦。原文:「四年春正月乙丑朔,大赦。」

出典: 晉書 帝紀第五 孝懷帝

反乱鎮圧310年2月〜310年3月銭璯の乱

首謀者: 銭璯

結果: 永嘉四年二月、呉興人銭璯が反乱し自ら平西将軍を号す。三月に丞相倉曹属周が郷人を率いて討伐し斬殺、鎮圧成功。

短期間で完全に鎮圧された明確な事例。

被反乱310年2月〜310年3月銭璯の乱

首謀者: 銭璯

結果: 討伐され斬首、鎮圧成功。

鎮圧回数と対称に計上。

反乱鎮圧310年9月王如の乱

首謀者: 王如

結果: 永嘉四年九月、雍州人王如が宛で挙兵し大将軍・司雍二州牧を自称、漢沔一帯を掠奪。新平の龐寔・馮翊の厳嶷・京兆の侯脱らも呼応。征南将軍山簡・荊州刺史王澄・南中郎将杜蕤らが救援に赴くも宛で大敗し鎮圧失敗。以後懐帝紀に続報なく、在位中は未解決のまま経過した模様。

鎮圧が試みられたが失敗した事例として計上(基準上、失敗でも試行があれば鎮圧回数に含める)。史実としては王如の乱は愍帝期の建興年間に至りようやく収束したとされるが、本紀第五(懐帝部分)にはその後の記載がない。

被反乱310年9月王如の乱

首謀者: 王如

結果: 宛を拠点に大将軍・司雍二州牧を自称、討伐軍は大敗。以後未解決のまま経過。

理由2(未鎮圧のまま在位終了)に該当。鎮圧回数とも対称に計上(試行あり)。

被反乱310年9月楽仰の反乱

首謀者: 楽仰

結果: 河内太守裴整を捕らえて反乱を起こし石勒(当時既に匈奴漢の将)に投降。鎮圧記録なし。

地方官を武力で拘束した服属民の反乱として計上したが、鎮圧側の対応記録がないため鎮圧回数には含めず被反乱のみ計上(理由2)。

反乱鎮圧310年11月周馥の乱(遷都上表を巡る抗争)

首謀者: 周馥

結果: 永嘉四年十一月、鎮東将軍周馥が大駕(皇帝)を寿陽に迎え遷都させることを上表。摂政の東海王越がこれを危険視し裴碩を派遣して討伐させたが、裴碩は周馥に敗北。周馥は東城に拠り琅邪王睿に救援を要請した。以後、懐帝紀に続報なし。

境界事例:周馥の行動は皇帝への反逆というより摂政・東海王越との中央権力を巡る抗争という性格が強く、反乱と統一戦争的な内紛の境界にある。ただし原文は「討」の語を用いて東海王越側(政権側)が討伐主体となっており、周馥は武力でこれを撃退した将軍の離反に該当すると判断し中確信度で計上した。

被反乱310年11月周馥の乱(遷都上表を巡る抗争)

首謀者: 周馥

結果: 東海王越の討伐軍(裴碩)を撃退。以後続報なし。

鎮圧回数と対称に計上(試行あり)。境界事例で中確信度。

被反乱310年11月流氐隗伯の反乱

首謀者: 隗伯

結果: 宜都を襲撃し太守嵇晞は建鄴へ逃亡。鎮圧記録なし。

氐族という辺境異民族による蜂起として計上。理由2に該当し被反乱のみ計上。

被反乱310年12月李洪の反乱

首謀者: 李洪

結果: 流民を率い定陵に乱入し騒乱を起こす。鎮圧記録なし。

理由2に該当し被反乱のみ計上。

被反乱311年1月杜弢の乱(湘州)

首謀者: 杜弢

結果: 長沙を占拠し自立。懐帝在位終了(永嘉七年=313年、平陽で遇弑)まで鎮圧されず未解決。後の愍帝紀によれば建興三年(315年)に荊州刺史陶侃らにより最終的に平定されたが、これは懐帝の在位期間外の出来事。

理由2(未鎮圧のまま在位終了)の典型例として計上。

被反乱311年5月汝班・蹇抚の反乱

首謀者: 汝班・蹇抚

結果: 湘州刺史苟眺を捕虜とし零陵・桂陽等の諸郡を攻略、武昌まで掠奪。鎮圧記録なし。

理由2に該当し被反乱のみ計上。

被反乱312年1月胡亢の反乱

首謀者: 胡亢

結果: 元鎮南府牙門将の胡亢が荊土で挙兵し自ら楚公を号す。鎮圧記録なし。

永嘉六年(312年)、懐帝が平陽で匈奴漢の捕虜となっていた期間(帝在平陽)の出来事だが、本紀第五は懐帝の崩御(永嘉七年正月)までを懐帝紀として記述しているため、在位期間内の出来事として計上した(researchNote参照)。理由2に該当。

被反乱312年8月董冲の反乱

首謀者: 董冲

結果: 陰平都尉董冲が太守王鑑を追放し、郡ごと成漢の李雄に投降。鎮圧記録なし。

郡県官による離反として計上。捕囚中の懐帝紀内の出来事(胡亢と同様の理由で在位期間内とみなした)。理由2に該当。

遷都313年洛陽 → 長安

永嘉五年(311)六月、劉曜・王弥・石勒が洛陽に侵入し焚掠、懐帝は平陽に連行され洛陽は事実上壊滅(『晋書』帝紀五:「曜等遂焚焼宮廟…帝蒙塵於平陽」)。秦王司馬鄴(後の愍帝)は雍州刺史賈疋に迎えられて長安に入り、永嘉六年(312)九月辛巳「奉秦王鄴為皇太子於長安…登壇告類、建宗廟社稷、大赦」と、長安に宗廟社稷を新たに建てて正式な帝都機能を再興した。建興元年(313)四月壬申、長安で即皇帝位・改元し、以後建興四年(316)十一月に劉曜に降伏するまで長安が西晋最後の首都として機能した。洛陽が焼失・奪還不能となった上で宗廟を新設した恒久的な遷都と判断し、即位による長安定都の確立時点(313年)を代表日とした(宗廟建立は312年9月)。永嘉五年時点で洛陽陥落直後に出た「迁都寿陽」「迁都仓垣」等の遷都上表は実現せず(『晋書』帝紀五)、カウント対象外。(出典: 晋書 卷五 孝懐帝紀・愍帝紀)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。