司馬倫
西晋|在位 301年

- 諱(本名)
- 司馬倫
- 在位
- 301年
- 在位期間
- 88日365名中346位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
八王の乱の中、恵帝の皇后賈南風を廃し誅殺した後、恵帝を廃して太上皇に祭り上げ自ら皇帝に即位。宗室(武帝の父司馬懿の子)による武力簒奪。
出典: 晉書 列傳第九 宗室 趙王倫
死因の経緯
斉王司馬冏ら三王連合に打倒され金墉城に幽閉された後、梁王司馬肜が罪状を上奏し、尚書袁敞が持節して金屑苦酒(毒酒)を賜い毒殺させた。形式は「賜死」だが、政敵の主導による強制的な処断のため暗殺に分類。臨終に「孫秀誤我」(孫秀が私を誤らせた)と嘆いたと伝わる。
出典: 晉書 列傳第九 宗室 趙王倫
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
司馬倫の簒奪在位(約3ヶ月)中に確認できる改元は、即位に伴う建元(建始)の1回のみ。恵帝紀本文の年次見出し「永寧元年」は恵帝復位後に遡って用いられた紀年表記であり、王舆らによる誅討・恵帝反正後の「於是大赦,改元」(帝紀第四)が実際の「永寧」改元にあたるため、これは恵帝側の在位に帰属し、司馬倫の在位には計上しない。
大赦回数
司馬倫の簒奪在位(永寧元年正月乙丑~四月辛酉、約3ヶ月)中に確認できる全国規模の大赦(「大赦」明記)は即位時のこの1回のみ。恵帝紀本文・列傳のいずれにも、この後4月の廃位(王舆による誅討・惠帝反正)までの間に追加の大赦の記述はない。なお反正後の「於是大赦,改元」(帝紀第四)は惠帝復位後の出来事であり惠帝側に帰属するためここには含めない。
立后回数
司馬倫の簒奪在位期間(永寧元年正月乙丑~四月辛酉、約3ヶ月)中に、帝紀第四(恵帝紀)・列傳第二十九(趙王倫傳)のいずれにも立后(皇后冊立)の記述は見当たらない。前皇后賈氏はすでに司馬倫の即位前(永康元年、伦・肜の矯詔により廃庶人化の上、金墉城で誅殺)に廃されており、司馬倫は簒奪在位中に新たな皇后を立てていない。
皇太子廃立回数
司馬倫は即位後、自身の世子司馬荂を皇太子に立てているが(『晋書』列傳第二十九:「以世子荂为太子」)、これは立太子であり本項目(廃立)の対象外。司馬倫の在位中に確認できる皇太子(皇太孫を含む法定推定継承者)の廃立は、即位直後に恵帝の皇太孫臧を濮陽王へ格下げしたこの1件のみである。
親征回数
『晋書』帝紀第四・永寧元年条には、斉王冏らの挙兵に対し倫が「遣其将閭和出伊闕、張泓・孫輔出堮坂以距冏、孫会・士猗・許超出黄橋以距穎」と記されており、いずれも配下の将軍を派遣したのみで、倫自身が「自将」「親征」した記述は見られない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
倫政権にとって斉王冏らは名目上は西晋朝廷の藩王・将軍(平東将軍・征北大将軍等の官位を帯びた宗室)であり、既存の官職体系内にあった者の離反・挙兵という点で「服属していた者の反乱」の枠組みに該当すると判断したが、同時にこれは恵帝復位を目指す正統性回復運動でもあり、対等勢力間の抗争とみるべきか一方的な服属者の反乱とみるべきか解釈に幅があるためconfidenceをmediumとした。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと対称に1件計上。ただし本件は最終的に倫政権打倒(簒奪皇帝の廃位・誅殺)に至った成功例であり、鎮圧側の視点(rebellionSuppressionCount)でも同一件数としている。
遷都回数
晋書帝紀を通読。西晋建国(洛陽定都、建国時の定都)から永嘉の乱(311年)まで洛陽が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
調査したが原典(『晋書』帝紀第四〈恵帝紀〉・列傳第二十九〈宗室・趙王倫傳〉)に司馬倫の生年月日・享年(「時年」等)の直接記載は見当たらなかった。列傳では廃位後に梁王肜の上奏により尚書袁敞が持節して金屑苦酒(毒酒)を賜死させた経緯が記されるが、この処刑自体の具体的な日付も明記されていない。既存の reigns[0].note にある「廃位後4月13日に自害」という記述は個人ページ(二次資料)由来であり、原典(一次史料)では裏付けが取れなかったため、deathDateはこの二次資料の値を暫定採用しつつconfidenceをlowとした。accessionAge/deathAgeは生年不明のため算出不能(宗室出身で武帝の年少の叔父にあたるという系譜情報のみ判明、具体的年齢記載なし)。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元301年1月9日永寧元年正月乙丑、趙王司馬倫の即位に伴い元号を「建始」に改元。
永寧元年正月乙丑、趙王司馬倫の即位に伴い元号を「建始」に改元。『晋書』列傳第二十九(宗室傳・趙王倫傳):「乃僭即帝位,大赦,改元建始。」恵帝紀本文(帝紀第四)は当該期間を「永寧元年」の年次表記のまま記述しており、元号「建始」への言及がないため、司馬倫自身の伝(列傳)の記述で補完した。
出典: 晋書列傳第二十九(趙王倫傳)
大赦301年1月9日永寧元年正月乙丑、趙王司馬倫が惠帝を廃して自ら皇帝に即位した当日、大赦を実施。
永寧元年正月乙丑、趙王司馬倫が惠帝を廃して自ら皇帝に即位した当日、大赦を実施。『晋書』列傳第二十九(宗室傳・趙王倫傳):「伦从兵五千人,入自端门,登太极殿,满奋、崔随、乐广进玺绶于伦,乃僭即帝位,大赦,改元建始。」恵帝紀本文(帝紀第四)はこの期間を「永寧元年春正月乙丑,赵王伦篡帝位」等と簡略に記すのみで大赦の明記はなく、詳細は列傳の記述で補完した。
出典: 晋書列傳第二十九(趙王倫傳)
皇太子廃立301年1月10日永寧元年正月丙寅(趙王倫即位の翌日)、惠帝の皇太孫であった司馬臧(永康元年五月己巳に「立皇孫臧為皇太孫」により法定推定継承者となっていた)を廃して濮陽王とした。
永寧元年正月丙寅(趙王倫即位の翌日)、惠帝の皇太孫であった司馬臧(永康元年五月己巳に「立皇孫臧為皇太孫」により法定推定継承者となっていた)を廃して濮陽王とした。『晋書』帝紀第四(惠帝紀):「丙寅,迁帝于金墉城,号曰太上皇,改金墉曰永昌宫。废皇太孙臧为濮阳王。」この直後の癸酉には司馬倫が濮陽王臧を殺害している(「癸酉,伦害濮阳王臧」)。
出典: 晋書帝紀第四(惠帝紀)
反乱鎮圧301年3月〜301年4月斉王冏・成都王穎・河間王顒・常山王乂ら宗室連合の挙兵(趙王倫討伐)鎮圧の試み
首謀者: 斉王司馬冏(成都王司馬穎・河間王司馬顒・常山王司馬乂ら連合)
結果: 鎮圧失敗。倫は将の閭和・張泓・孫輔・孫会・士猗・許超らを各方面に派遣して迎撃させたが、穎将の趙驤・石超に溴水で大敗し、冏将の何勖にも陽翟で敗れた。さらに宮中では左衛将軍王輿・淮陵王漼が兵を率いて入宮し倫党の孫秀・孫会・許超・士猗・駱休らを斬り、倫を邸第に逐って恵帝を復位(反正)させ、倫自身も後に誅殺された。
『晋書』帝紀第四・永寧元年三月〜四月条による。正月乙丑の簒位から4月7日(辛酉)の恵帝復位までが倫の在位期間であり、三月起兵〜四月の一連の反攻を単一の反乱事件として1件と数えた。基準に従い、鎮圧を試みて失敗し王朝(簒奪政権)崩壊に至った事例としてカウントした。永寧元年十二月条の流人李特による益州刺史趙廞殺害(正月条内に記載)は、趙廞の反乱自体が倫の簒位以前(永康2年12月)に発生し、李特による討伐も朝廷(倫)側の命令による鎮圧行動とは読めないため、本件からは除外した。
被反乱301年3月〜301年4月斉王冏・成都王穎・河間王顒・常山王乂ら宗室連合による挙兵(趙王倫討伐)
首謀者: 斉王司馬冏(成都王司馬穎・河間王司馬顒・常山王司馬乂ら連合、宮中では左衛将軍王輿・淮陵王漼も呼応)
結果: 反乱側が勝利。倫の派遣した諸将(閭和・張泓・孫輔・孫会・士猗・許超)は各地で撃破され、宮中でも王輿・漼が兵を率いて倫党の孫秀ら腹心を誅殺、倫は邸第に逐われて恵帝が復位(反正)した。その後倫本人も誅殺され、簒奪政権は約3ヶ月で崩壊した。
rebellionSuppressionCountと同一の反乱群を被反乱側の視点から計上したもの。倫の敗死・廃位(簒奪政権崩壊)に直結した事件であり、宮中クーデター(王輿らの入宮・倫党粛清)の要素も含むが、外部の斉王冏らの挙兵と一体の連続した事件と判断し1件とした。