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司馬倫の肖像画

西晋第3代

司馬倫

在位 301年(116日)301年2月3日 〜 301年5月30日

日本は古墳時代

司馬懿の第九子で、兄の孫にあたる恵帝から帝位を奪ったが、同じ年のうちにに敗れて死を賜った西晋のである。

司馬倫の人物データ

生年
不詳
在位
  • 301年2月3日〜301年5月30日
116日長い順334位/365人即位の年齢は不詳
没年
301年6月5日年齢不詳
死因
同じ死因15人/365人
即位経路
先代
  • 恵帝西晋司馬倫は恵帝の同族(遠縁)
次代
  • 恵帝西晋復位による継承
呼び名
姓司馬諱倫字子彝呼び名の見方
目立つ記録
  • 皇太子を廃した 1回多い順同率4位

出典

在位
晋書 巻四 恵帝紀(趙王倫簒位記事)
死因
晉書 卷五十九 列傳第二十九 趙王倫
即位経路
晋書 巻五十九 列伝第二十九 趙王倫

生涯

どんな皇帝か

晋書の伝は、学が無く書を知らず、智略も無く、孫秀に操られたと書く。

即位まで

武帝の代に、配下に盗品の天子の皮衣を買い取らせた罪に問われ、劉毅は同罪であって、親族やとして罪を減じることはできても不問にはできないと論じたが、武帝は身内だとして赦した。元康の初めに関中を任されると、賞罰が当を失って氐・羌の反乱を招き、都へ呼び戻された。愍懐太子が廃されると、孫秀は、事を遅らせれば賈后は必ず太子を殺すから、そのあとで后を廃して仇を討てば功になると説き、司馬倫はこれに従った。300年、詔を偽って夜に宮中に入り、賈后を廃し、張華・裴頠らを殿前で殺した。孫秀とともに巫鬼を信じ、孫秀は人に司馬懿の神のお告げを装わせて、早く西宮に入って帝位に就くよう促した。孫秀らはの詔を偽作して恵帝からを奪わせ、301年、司馬倫は即位して建始とした。

史料について

賈后の廃位を、恵帝紀は梁王司馬肜との連名とし、司馬倫の伝は司馬肜の名を出さない。

治世と最期

即位後はを濫りに与え、冠を飾る貂の尾が足りず犬の尾で継ぐと嘲られた。詔令は孫秀がしばしば書き改め、朝に出して夕に改めることもあった。張林が孫秀の専権を訴える書を太子の司馬荂に送ると、司馬倫はそれを孫秀に見せ、勧められるまま張林を殺してを誅した。同じ年、斉王司馬冏が挙兵して諸王が応じ、六十余日の戦いで死者は十万人近くに上った。王輿が兵を率いて宮中に入り、孫秀らが斬られると、司馬倫は恵帝の復位を求める詔を書かされ、恵帝はその日のうちに復位した。

司馬倫は死を賜って金屑の苦酒を飲まされ、顔を巾で覆って、孫秀に誤られたと繰り返した。子の4人も獄で死に、司馬馥は死に臨んで司馬虔に、お前のせいで家が破れたと言った。

史料について

毒酒を賜った死なので、このサイトでは死因を自害としている。恵帝紀は趙王倫を誅したとだけ書く。晋書のは、孫秀に欺かれて帝位をうかがい、淫祀に頼って天寿を得ようとしたのは凶暗の極みだと評した。

司馬倫とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(301年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

301年の地図に、司馬倫が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・皇太子1・改元1・大赦1
  1. 改元301年2月3日元号を「建始」とする
  2. 301年2月3日趙王司馬倫が惠帝を廃して自ら皇帝に即位した当日、大赦を実施。
  3. 皇太子301年2月4日皇太子を廃する
  4. 反乱301年3月〜301年4月斉王冏・成都王穎・河間王顒・常山王乂ら宗室連合による挙兵(趙王倫討伐)

西晋の歴代皇帝

歴代5人の一覧

年表

晋の時代を年表で見る

西晋が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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