恵帝
西晋|在位 290–301年 / 301–307年

- 諱(本名)
- 司馬衷
- 在位
- 290–301年 / 301–307年
- 在位期間
- 16年152日365名中75位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 諸説あり
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 48歳(数え年)269名中・長寿順89位タイ
- 改元
- 11回332名中3位タイ
- 大赦
- 23回267名中3位
- 立后
- 5回204名中2位タイ
- 皇太子廃立
- 4回29名中1位
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 6回225名中68位タイ
- 被反乱
- 11回289名中43位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:恵帝
即位の経緯
武帝の嫡次子として即位。知的障害があったとされ、実権は皇后賈南風や外戚・宗室諸王が握った。
出典: 晉書 帝紀第四 孝惠帝
死因の経緯
光熙元年(307年)十一月、長安顕陽殿で餅を食べ中毒死したとされる(享年48)。実力者の東海王司馬越による毒殺という伝聞が広く伝わるが、正史に確定的な直接記述はなく、病死・毒殺の両説が併存する。
出典: 晉書 帝紀第四 孝惠帝
復位の経緯
301–307年|八王の乱の中、司馬倫排斥後に復位。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う最初の建元(永熙)を含め、恵帝在位期間中に行われた改元を全て計上。太熙元年即位~永寧元年正月の趙王倫簒位直前までを前半在位、永寧元年四月の復位(4月7日)~光熙元年十一月崩御までを後半在位とし合算。倫が皇帝を称していた永寧元年正月9日~4月7日の間の改元(倫独自の建元があった可能性)は本紀に記載がなく、恵帝側には計上していない。一部の改元は日付が「月」までしか特定できない(永寧元年十二月・永興元年正月)。
大赦回数
「大赦」と明記された事例のみを計上(「曲赦洛陽」「赦五歳刑」「赦司冀兗豫四州」「赦諸州之遭地災者」等の地域・部分的恩赦は除外)。太熙元年即位~永寧元年正月の趙王倫簒位直前までを前半在位、永寧元年四月の復位~光熙元年十一月崩御までを後半在位とし、両者を合算。倫が皇帝を称していた永寧元年正月9日~4月7日の間に該当する大赦は原文中に見当たらず(該当区間中の記述に「大赦」の語なし)。永康元年四月甲午の「倫矯詔大赦」は倫の簒位(永寧元年正月)以前・恵帝在位下の出来事のため恵帝側に計上した。
立后回数
皇后として正式に冊立・復位した事例を計上(廃后後の再冊立も別カウント)。永興二年十一月の「立節將軍周權詐被檄……復皇后羊氏」は偽の詔を騙った将軍による僭称行為で、即座に討たれ「復廢皇后」となっているため正式な冊立とは認めず除外した。日付が「月」までしか特定できない事例が一部ある。
皇太子廃立回数
立てられていた皇太子・皇太孫・皇太弟が廃された事例のみ計上(立太子そのものは除外)。永寧元年正月丙寅の「廢皇太孫臧爲濮陽王」は趙王倫簒位中(正月9日~4月7日)の出来事であり、指示に従い倫側に帰属させ恵帝側には含めていない。永興元年十二月丁亥の成都王穎の儲貳(皇太弟)解任は「其以王還第」との表現で明示的に「廢」の語は用いられていないが、実質的な皇太弟廃立に相当すると判断(medium confidence)。永興元年八月の皇太子覃再廃位は正確な日付干支が示されていない。
親征回数
『晋書』帝紀第四に「帝自將」「親征」の定型句は見られないが、蕩陰の戦いで恵帝が矢を受け負傷したという明確な戦場臨席の証拠があるため1回のみ計上した。それ以外の軍事行動(元康年間の氐羌討伐、太安二年の長沙王乂を大都督とした防衛戦等)はいずれも将軍(周處・孟觀・司馬乂等)が「帥軍」「討」の主体であり、恵帝本人の出陣を示す記述がないため親征に含めなかった。
反乱鎮圧回数
八王の乱における諸王同士の権力闘争(斉王冏誅殺〈太安元年、長沙王乂による先制攻撃で冏は挙兵しておらず基準3により除外〉、河間王顒・成都王穎による長沙王乂討伐〈太安二年、諸王間の政争として除外〉、劉喬vs范陽王虓等の代理戦争)は、恵帝自身への反乱ではなく摂政・実権を巡る宗室間抗争と判断し除外した。淮南王允の趙王倫討伐(永康元年八月)も、倫が未だ簒位前で允の標的が倫個人の権力であり恵帝政権への反乱と断定しがたいため除外した(medium confidence、判断が割れる可能性あり)。永寧元年1月9日〜4月7日(趙王倫簒奪期間、倫誅殺による恵帝復位を含む)はjin-simalun側集計のため完全に除外した。公師籓の乱(成都王穎配下の将による永興二年七月頃の蜂起、陽平・汲郡太守殺害後、九月にも平原・清河太守を殺害)は初戦で趙驤に「撃破之」とあるが最終的鎮圧の記載が本紀になく未鎮圧と判断し被反乱のみに計上した。
被反乱回数
反乱鎮圧回数(6)と被反乱回数(11)の差(5件)は、赵廞・李特/李雄・劉元海・陳敏・公師籓がいずれも恵帝在位終了までに(本紀の記述範囲内で)政府側による鎮圧が確認できないため(基準2、および赵廞についてはその趣旨の準用)である。八王の乱の宗室間権力闘争(斉王冏・河間王顒・成都王穎・長沙王乂・東海王越らの抗争のうち、恵帝個人の身柄拘束に直結しないもの)は反乱に該当しないと判断し除外した。趙王倫の簒奪・打倒(永寧元年1月9日〜4月7日)は指示に従いjin-simalun側集計として完全に除外した。
遷都回数
晋書帝紀を通読。西晋建国(洛陽定都、建国時の定都)から永嘉の乱(311年)まで洛陽が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢48歳は本紀末尾に「時年四十八」と直接記載(光熙元年十一月庚午)。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし(泰始三年立太子時の「時年九歳」はあるが即位時ではない)。
在位中の出来事(61件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧294年5月〜294年8月郝散の乱
首謀者: 郝散
結果: 鎮圧成功
元康四年夏五月、匈奴部民郝散が上党を攻め長吏を殺害(服属異民族の反乱)。八月、郝散は衆を率いて投降したが冯翊都尉に殺害され事実上鎮圧された。
被反乱294年5月〜294年8月郝散の乱
首謀者: 郝散
結果: 郝散降伏後、殺害され乱終息
反乱鎮圧側と同一事件(対称計上)。
反乱鎮圧296年5月〜299年1月元康氐羌の乱(度元・斉万年の乱)
首謀者: 度元(のち氐帥斉万年)
結果: 鎮圧成功(数年を要した)
元康六年五月、郝散の弟度元が馬蘭羌・廬水胡を率いて北地を攻め太守張損を殺害。同年八月には秦雍の氐羌が悉く叛し氐帥斉万年を推戴して皇帝を僭称、涇陽を囲んだ。冯翊太守欧陽建・雍州刺史解系が相次いで敗れ、元康七年正月には周處が六陌の戦いで敗死するなど朝廷側は苦戦したが、元康九年正月に左積弩将軍孟観が中亭で大破し斉万年を捕獲して鎮圧完了。度元単独の蜂起(296年五月)と秦雍氐羌の大反乱(同年八月以降、斉万年擁立)は時期的に連続しており同一の乱の展開と判断し1件とした。
被反乱296年5月〜299年1月元康氐羌の乱(度元・斉万年の乱)
首謀者: 度元(のち斉万年)
結果: 斉万年捕獲により終息
反乱鎮圧側と同一事件(対称計上)。
反乱鎮圧299年4月鄴の妖言蜂起(張承基の乱)
首謀者: 張承基
結果: 鎮圧成功
元康九年夏四月、鄴の張承基等が「妖言署置」(偽の官職名号を称し)数千人を集めて党を組んだが、郡県により逮捕され全員処刑された。規模・記述はごく簡略だが官職僭称を伴う組織的蜂起として計上した(medium confidence)。
被反乱299年4月鄴の妖言蜂起
首謀者: 張承基
結果: 郡県により逮捕・処刑
反乱鎮圧側と同一事件(対称計上)。
被反乱300年〜301年趙廞の反乱
首謀者: 趙廞(益州刺史)
結果: 同じく反乱者の李特に殺害され終息(政府による鎮圧ではない)
永康元年十二月、益州刺史趙廞(晋の任命官)が配下の李庠と共に成都内史耿勝ら晋の官吏を殺害し成都に拠って自立。これを討ったのは朝廷軍ではなく、同じく流民を率いる李特(後に自ら反乱)であり、政府側の鎮圧行動ではないため反乱鎮圧回数には含めず被反乱のみに計上した(4つの非対称理由のいずれにも完全には合致しないが、政府が実際に鎮圧に至らなかった点で基準2の趣旨に準じると判断、medium confidence)。趙廞誅殺自体は永寧元年(301年)正月〜二月頃(趙王倫簒奪期間内)に発生した可能性が高いが、蜂起自体は伦の簒奪劇と無関係な益州の独立事案であるため除外対象とはしなかった。
被反乱301年10月李特・李雄の蜀反乱(成漢建国)
首謀者: 李特(のち子の李雄)
結果: 未鎮圧のまま恵帝在位終了。李特は303年3月に宋岱に斬殺されたが子の李雄が継承し305年6月成都で皇帝を自称(国号「蜀」=成漢)
永寧元年冬十月、流民帥李特が蜀で挙兵。太安元年(302年)河間王顒配下の衙博が討伐に失敗、太安二年(303年)三月荊州刺史宋岱が李特を斬るも同年四月に子の李雄が益州を回復、光熙元年前の永興二年(305年)六月に李雄が皇帝を自称し独立政権化。恵帝崩御(306年11月)まで鎮圧に成功しておらず基準2により鎮圧回数には含めない。
反乱鎮圧303年5月〜304年3月張昌の乱
首謀者: 張昌(のち別帥石冰)
結果: 鎮圧成功
太安二年五月、義陽の蛮張昌が挙兵し丘沈を主に立てて偽号「漢」を称し、郡県を攻め破り南陽太守劉彬・平南将軍羊尹・鎮南大将軍新野王歆らを殺害。荊州刺史劉弘は初戦(六月)に敗れたが八月に張昌を清水で斬殺。別働隊の石冰は揚州へ侵攻し封雲も呼応したが、永興元年三月に広陵度支陳敏が石冰を斬り「揚・徐二州平」で完全鎮圧。張昌本人斬殺後も同一勢力(石冰)の抵抗が続いたため一連の乱として1件とした。
被反乱303年5月〜304年3月張昌の乱
首謀者: 張昌(のち石冰)
結果: 鎮圧成功(304年3月)
反乱鎮圧側と同一事件(対称計上)。
親征304年7月成都王穎(蕩陰の戦い)
対象: 成都王穎(蕩陰の戦い)
結果: 敗北・皇帝が捕捉される
永興元年七月、右衛將軍陳眕の勒兵に応じ司徒王戎・東海王越ら群臣が「奉帝北征」して成都王穎討伐に出陣。己未、六軍は蕩陰で石超に敗績し「矢及乘輿」「帝傷頰、中三矢、亡六璽」と原文にあり、恵帝本人が戦闘現場にいたことが明記されるため親征と認定(medium confidence。「帝自將」等の定型句はないが、皇帝が矢を受けるほど戦場に直接身を置いた記述は他に類例がなく信頼度は比較的高い)。この後恵帝は穎方に身柄を掌握され鄴へ移されるが、この捕捉は恵帝側(朝廷)が先に穎を攻撃した結果であるため反乱鎮圧・被反乱いずれにも計上しない(基準3該当)。
被反乱304年8月劉元海(前趙)の反乱
首謀者: 劉元海(劉淵)
結果: 未鎮圧のまま恵帝在位終了。離石で大単于を自称し自立、305年12月には漢王を僭称
永興元年八月、匈奴左賢王(晋朝が与えた属国首長の称号)劉元海が離石で反し大単于を自称。恵帝在位中に鎮圧記事はなく、のち前趙(漢)建国、西晋滅亡(316年)の直接的要因となった。服属異民族の首長による離反であり反乱として計上したが、鎮圧未達のため鎮圧回数には含めない(基準2)。
被反乱304年11月〜306年6月恵帝長安拉致・幽閉事件
首謀者: 張方(河間王顒配下の将)
結果: 東海王越の派遣軍により顒方が敗れ306年6月洛陽へ帰還
永興元年十一月、張方が「帝謁廟」を口実に恵帝を強制的に車に乗せ長安へ連行(原文「方逼帝升車」「帝馳避後園竹中」と抵抗の記述あり)。以後河間王顒が恵帝を擁して長安に置いた。宗室権力者による兵力を伴うクーデター的身柄拘束(基準4該当)として被反乱に計上。なお同年七月の蕩陰の戦い後に恵帝が成都王穎方に身柄を掌握された期間(7〜11月)は、恵帝側が先に穎を攻撃した結果の捕捉であり基準3により被反乱に含めず(親征としてのみ計上)、明確な「権力者による武力拘束」が確認できる11月の張方の行動を起点とした。
被反乱305年7月公師籓の乱
首謀者: 公師籓(成都王穎配下の将)
結果: 初戦で趙驤に撃破されるも9月にも太守を殺害しており最終的鎮圧の記載なし
永興二年七月頃、成都王穎配下の将公師籓が衆を集め郡県を攻め陽平太守李志・汲郡太守張延らを殺害、鄴へ転攻。平昌公模配下の趙驤が「撃破之」と一度は破ったが、九月には公師籓が平原太守王景・清河太守馮熊を殺害しており活動継続が確認でき、以後の帰趨が本紀に記載されないため未鎮圧と判断し鎮圧回数には含めなかった(medium〜low confidence、成都王穎配下という記述から諸王権力闘争の一環である可能性もあるが、地方太守殺害を伴う略奪的挙兵の性格が強いため服属武将の離反として計上)。
被反乱305年12月陳敏の反乱
首謀者: 陳敏(右将軍)
結果: 未鎮圧のまま恵帝在位終了(帝紀内に鎮圧記事なし)
永興二年十二月、右将軍陳敏が挙兵し楚公を自称、揚州刺史劉機・丹楊太守王曠を追放。恵帝紀の記述範囲(〜306年11月崩御)内に鎮圧の記事が見当たらないため未鎮圧として計上し、鎮圧回数には含めない(基準2。史実としては306年中に顧栄らにより討たれたとされるが、本紀原文の記述範囲内では確認できず)。
反乱鎮圧306年1月〜306年6月東海王越による恵帝奪還戦(河間王顒方討伐)
首謀者: 河間王顒・張方
結果: 鎮圧成功・恵帝奪還
永興元年十一月に張方が恵帝を武力で長安へ拉致し河間王顒の擁立下に置いた事態(被反乱側に別途計上)に対応する鎮圧行動。光熙元年正月、東海王越が祁弘・宋胄・司馬纂らを派遣し恵帝を迎えようとし、五月に弘等が刁默を大破、顒・穎は南山へ敗走。六月、弘等が恵帝を奉じて洛陽へ帰還させ鎮圧完了とみなした。
反乱鎮圧306年3月劉柏根の乱
首謀者: 劉柏根
結果: 鎮圧成功
光熙元年三月、東莱の惤令劉柏根が反し惤公を自称して臨淄を襲撃、高密王簡は聊城へ逃走。王濬が派遣した軍が柏根を斬殺し鎮圧。
被反乱306年3月劉柏根の乱
首謀者: 劉柏根
結果: 鎮圧成功
反乱鎮圧側と同一事件(対称計上)。
改元太熙元年四月己酉武帝崩御当日、皇太子即位に伴い建元(永熙)。
出典: 晋書帝紀第四
改元永平元年正月乙酉朔詔により「永熙二年」を「永平元年」と改称。
出典: 晋書帝紀第四
改元永平元年三月壬辰太傅楊駿誅殺後、改元(元康に改元)。
太傅楊駿誅殺後、改元(元康に改元)。大赦を伴う。
出典: 晋書帝紀第四
改元永康元年正月癸亥朔改元して永康元年とする。
改元して永康元年とする。大赦を伴う。
出典: 晋書帝紀第四
改元永寧元年四月癸亥趙王倫簒位を齊王冏らが討ち、恵帝が復位(辛酉/4月7日)した直後に改元(永寧に改元)。
趙王倫簒位を齊王冏らが討ち、恵帝が復位(辛酉/4月7日)した直後に改元(永寧に改元)。大赦を伴う。倫在位中の出来事ではないため恵帝側に帰属。
出典: 晋書帝紀第四
改元永寧元年十二月齊王冏誅殺後、改元(太安に改元)。
齊王冏誅殺後、改元(太安に改元)。大赦を伴う。日付干支は明記されず。
出典: 晋書帝紀第四
改元永興元年正月成都王穎の進言により改元(永安に改元)。
成都王穎の進言により改元(永安に改元)。大赦を伴う。日付干支は明記されず。
出典: 晋書帝紀第四
改元永興元年七月庚申蕩陰の戦い後、鄴到着直後に改元(建武に改元)。
蕩陰の戦い後、鄴到着直後に改元(建武に改元)。大赦を伴う。
出典: 晋書帝紀第四
改元永興元年十一月丙午帝が張方により長安へ連行される中、洛陽に残された留台が改元(永安に復す)。
帝が張方により長安へ連行される中、洛陽に残された留台が改元(永安に復す)。大赦を伴う。
出典: 晋書帝紀第四
改元永興元年十二月丁亥詔により改元(永興に改元)。
詔により改元(永興に改元)。大赦を伴う。
出典: 晋書帝紀第四
改元光熙元年六月辛未長安から洛陽に帰還後、改元(光熙に改元)。
長安から洛陽に帰還後、改元(光熙に改元)。大赦を伴う。
出典: 晋書帝紀第四
大赦太熙元年四月己酉武帝崩御当日、皇太子即位に伴い大赦(改元も同時)。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永平元年三月壬辰太傅楊駿誅殺後、大赦(改元も同時、元康に改元)。
出典: 晋書帝紀第四
大赦元康二年八月壬子大赦。
出典: 晋書帝紀第四
大赦元康六年正月「六年春正月、大赦」。
「六年春正月、大赦」。日付干支の記載なし。
出典: 晋書帝紀第四
大赦元康八年三月壬戌大赦。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永康元年正月癸亥朔大赦(改元も同時、永康に改元)。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永康元年四月甲午趙王倫が矯詔(偽の詔)により大赦を行い自ら相国となる。
趙王倫が矯詔(偽の詔)により大赦を行い自ら相国となる。倫の簒位(翌年正月)以前の出来事で恵帝在位下に含まれる。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永康元年十一月甲子皇后羊氏冊立に伴い大赦、大酺三日。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永寧元年四月癸亥趙王倫簒位を齊王冏らが討ち恵帝復位(辛酉/4月7日)の直後に大赦(改元も同時、永寧に改元)。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永寧元年六月戊辰大赦、吏位を二等進める。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永寧元年八月「八月、大赦」。
「八月、大赦」。日付干支の記載なし。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永寧元年十二月齊王冏誅殺後に大赦(改元も同時、太安に改元)。
齊王冏誅殺後に大赦(改元も同時、太安に改元)。日付干支の記載なし。
出典: 晋書帝紀第四
大赦太安二年九月丙申牽秀を撃破し進軍した際に大赦。
出典: 晋書帝紀第四
大赦太安二年十一月甲子東海王越が長沙王乂を捕える直後に大赦。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永興元年正月成都王穎の進言により大赦(改元も同時、永安に改元)。
成都王穎の進言により大赦(改元も同時、永安に改元)。日付干支の記載なし。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永興元年三月戊申成都王穎を皇太弟とする詔に伴い大赦、鰥寡高年に帛を賜う。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永興元年七月戊戌大赦、皇后羊氏及び皇太子覃を復位。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永興元年七月庚申蕩陰の戦い後、鄴到着直後に大赦(改元も同時、建武に改元)。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永興元年十一月辛巳張方に迎えられた際に大赦、従者に恩賞。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永興元年十一月丙午洛陽の留台による大赦(改元も同時、永安に復す)。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永興元年十二月丁亥詔により大赦(改元も同時、永興に改元)。
出典: 晋書帝紀第四
大赦永興二年八月辛丑大赦。
出典: 晋書帝紀第四
大赦光熙元年六月辛未長安から洛陽に帰還後、大赦(改元も同時、光熙に改元)。
出典: 晋書帝紀第四
立后太熙元年四月己酉武帝崩御・恵帝即位と同日に、妃賈氏を皇后に冊立。
出典: 晋書帝紀第四
立后永康元年十一月甲子賈皇后が同年4月に廃后・誅殺された後、羊氏を皇后に冊立。
出典: 晋書帝紀第四
立后永興元年七月戊戌同年2月に廃后されていた羊皇后を復位(再冊立)。
出典: 晋書帝紀第四
立后永興元年十一月留台による大赦・改元(丙午)の後、辛丑に羊皇后を再度復位(再冊立)。
出典: 晋書帝紀第四
立后光熙元年六月長安から洛陽帰還後、羊皇后を復位(再冊立)。
長安から洛陽帰還後、羊皇后を復位(再冊立)。正確な日付干支は示されず(六月丙辰朔~辛未の間)。
出典: 晋書帝紀第四
皇太子廃立元康九年十二月壬戌皇太子遹(実子、広陵王として立てられていた)を廃して庶人とし、その三子も金墉城に幽閉。
出典: 晋書帝紀第四
皇太子廃立永興元年二月乙酉成都王穎の圧力下、皇太子覃(清河王遐の子)を廃し清河王に戻す。
成都王穎の圧力下、皇太子覃(清河王遐の子)を廃し清河王に戻す。皇后羊氏も同時に廃后。
出典: 晋書帝紀第四
皇太子廃立永興元年八月張方が洛陽に再入城し、7月に復位したばかりの皇太子覃を再度廃する。
張方が洛陽に再入城し、7月に復位したばかりの皇太子覃を再度廃する。皇后羊氏も同時再廃后。日付干支は明記されず。
出典: 晋書帝紀第四
皇太子廃立永興元年十二月丁亥皇太弟成都王穎を「政績虧損、四海失望、不可承重」として儲貳の地位から解き、藩国(成都王)に戻す。
皇太弟成都王穎を「政績虧損、四海失望、不可承重」として儲貳の地位から解き、藩国(成都王)に戻す。豫章王炽を新たな皇太弟に立てる。
出典: 晋書帝紀第四