章宗の人物データ
- 生年
- 1168年8月31日
- 在位
- 1189年1月20日〜1208年12月29日
- 没年
- 1208年12月29日41歳(数え年)長生き順同率126位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 女真名麻達葛呼び名の見方
出典
- 在位
- 金史 本紀九 章宗一(即位)/本紀十二 章宗四(崩御)
- 死因
- 金史 巻十三(衛紹王本紀・
冒頭部) - 即位経路
- 金史 巻九(章宗本紀一)
生涯
どんな皇帝か
本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分の賛は、一代の治規を成したと称えつつ、寵愛した婢が朝政を擅にし、伝えるべきでない者に位を伝えたと評する。
即位まで
世宗の皇太子だった顕宗の嫡子で、母は孝懿皇后の徒単氏である。1186年に皇太孫位を継ぐ者と定められた皇帝の孫に立てられ、1189年に世宗が没すると柩の前で即位した。
治世と最期
即位したころは詩文を好み、猛安謀克金で女真の人々を兵と村の単位にまとめた組織が文芸に傾いて武備を忘れるのは国の不利だと徒単克寧に説かれると、もっともだと答えた。
宮教の張建の言で見出した李師児を寵愛し、皇后に立てようとしたが大臣が従わず、元妃とした。李氏の兄弟は要職に引き上げられ、胥持国は李氏に頼って宰相となった。1193年には、讖記未来を予言する言葉を記した書を信じて謀ったとされた叔父の鄭王永蹈の取り調べが長引くと、夾谷清臣の進言で、永蹈と妃や子らに自尽自分で命を絶つことを命じた。1195年には叔父の鎬王永中について、言葉だけの罪で永蹈とは違うと言ったが、馬琪が罪は同じだと答え、百官朝廷のすべての役人の議も盧利用を除いて律どおりを求めて、死を賜った。二人の叔父を誅してから宗室を疎み忌んだが、のちに悔い、1207年に王爵を戻した。
1205年には長い和好を思って自ら兵を起こさなかったが、1206年に宋が盟約を破ると宋を伐たせた。子はみな幼くして死んだ。危篤になると元妃李氏・李新喜・完顔匡が策を定め、1208年に没すると、柔弱ゆえに愛した叔父の衛王が立った。遺詔皇帝が死に際に残した命令は、身ごもった宮人宮中に仕え暮らした女性たちに男子が生まれれば跡継ぎとするよう命じていた。
史料について
胥持国伝は、李妃と持国が朝政を握り、叔父たちの誅殺もそこから起こったとする。孫即康伝は、当時の論が永中の死を冤罪としたと書く。翌年の詔は、李氏と李新喜が遺旨に背き、完顔匡が遺旨どおりに大事を定めたとし、李氏は懐妊を偽らせた罪などで死を賜った。后妃伝は、完顔匡に事務を総べさせる敕旨は無かったとし、匡が罪を作ったという説も載せる。
章宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1189–1208年の地図に、章宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・改元3・大赦4
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1189年6月2日世宗の祔廟礼成に伴う大赦。
- 改元1190年元号を「明昌」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1193年歳星・太白昼見の後の大赦。
- 反乱1194–1198年西北路阻卜(広吉剌部等)の乱
- 改元1196年元号を「承安」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1196年南郊祭祀(有事于南郊)に伴う大赦。
- 反乱1196年特満群牧契丹陀鎖・
徳寿の乱 - 改元1201年元号を「泰和」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1203年律令制定・
土徳確定・ 鳳凰出現・ 皇嗣(皇子忒鄰=葛王)誕生を機とする大赦。
金の歴代皇帝
歴代10人の一覧年表
遼・
金が