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金第6代

章宗完顔璟

在位 1189–1208年(19年344日)1189年1月20日 〜 1208年12月29日

日本は鎌倉時代

祖父の世宗から位を継いで文辞を好み、礼楽や官制を整えたが、を忌み、跡継ぎを残せなかった金の皇帝である。

章宗の人物データ

生年
1168年8月31日
在位
  • 1189年1月20日〜1208年12月29日
19年344日長い順57位/365人22歳で即位(数え年)
没年
1208年12月29日41歳(数え年)長生き順同率126位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 世宗金章宗は世宗の孫
次代
呼び名
女真名麻達葛呼び名の見方

出典

在位
金史 本紀九 章宗一(即位)/本紀十二 章宗四(崩御)
死因
金史 巻十三(衛紹王本紀・冒頭部)
即位経路
金史 巻九(章宗本紀一)

生涯

どんな皇帝か

の賛は、一代の治規を成したと称えつつ、寵愛した婢が朝政を擅にし、伝えるべきでない者に位を伝えたと評する。

即位まで

世宗の皇太子だった顕宗の嫡子で、母は孝懿皇后の徒単氏である。1186年にに立てられ、1189年に世宗が没すると柩の前で即位した。

治世と最期

即位したころは詩文を好み、が文芸に傾いて武備を忘れるのは国の不利だと徒単克寧に説かれると、もっともだと答えた。

宮教の張建の言で見出した李師児を寵愛し、皇后に立てようとしたが大臣が従わず、元妃とした。李氏の兄弟は要職に引き上げられ、胥持国は李氏に頼って宰相となった。1193年には、を信じて謀ったとされた叔父の鄭王永蹈の取り調べが長引くと、夾谷清臣の進言で、永蹈と妃や子らにを命じた。1195年には叔父の鎬王永中について、言葉だけの罪で永蹈とは違うと言ったが、馬琪が罪は同じだと答え、の議も盧利用を除いて律どおりを求めて、死を賜った。二人の叔父を誅してから宗室を疎み忌んだが、のちに悔い、1207年に王爵を戻した。

1205年には長い和好を思って自ら兵を起こさなかったが、1206年に宋が盟約を破ると宋を伐たせた。子はみな幼くして死んだ。危篤になると元妃李氏・李新喜・完顔匡が策を定め、1208年に没すると、柔弱ゆえに愛した叔父の衛王が立った。は、身ごもったに男子が生まれれば跡継ぎとするよう命じていた。

史料について

胥持国伝は、李妃と持国が朝政を握り、叔父たちの誅殺もそこから起こったとする。孫即康伝は、当時の論が永中の死を冤罪としたと書く。翌年の詔は、李氏と李新喜が遺旨に背き、完顔匡が遺旨どおりに大事を定めたとし、李氏は懐妊を偽らせた罪などで死を賜った。后妃伝は、完顔匡に事務を総べさせる敕旨は無かったとし、匡が罪を作ったという説も載せる。

章宗とつながる皇帝

宋・遼・金・西夏の勢力図(1189年)

勢力図

宋・遼・金・西夏の勢力図で見る

1189–1208年の地図に、章宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・改元3・大赦4
  1. 1189年6月2日世宗の祔廟礼成に伴う大赦。
  2. 改元1190年元号を「明昌」とする
  3. 1193年歳星・太白昼見の後の大赦。
  4. 反乱1194–1198年西北路阻卜(広吉剌部等)の乱
  5. 改元1196年元号を「承安」とする
  6. 1196年南郊祭祀(有事于南郊)に伴う大赦。
  7. 反乱1196年特満群牧契丹陀鎖・徳寿の乱
  8. 改元1201年元号を「泰和」とする
  9. 1203年律令制定・土徳確定・鳳凰出現・皇嗣(皇子忒鄰=葛王)誕生を機とする大赦。

金の歴代皇帝

歴代10人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

金が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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