中国皇帝統計

章宗

金|在位 1189–1208年

諱(本名)
完顔璟
在位
1189–1208年
在位期間
19年348日365名中57位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
22歳(数え年)172名中・若い順83位タイ
没年齢
41歳(数え年)269名中・長寿順128位タイ
改元
3332名中45位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

大定29年、世宗崩御を受け皇太孫として柩前で即位。大定26年に既に皇太孫に冊立済み。

出典: 金史 巻九(章宗本紀一)

死因の経緯

持病の「嗽疾」(咳の病)が悪化しての病死。他殺の記述なし。

出典: 金史 巻十三(衛紹王本紀・冒頭部)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位中に明昌・承安・泰和の3元号を使用した。即位年(大定二十九年)は世宗の元号「大定」をそのまま継続使用し改元しなかったためカウントに含めない。

大赦回数

全国規模の「大赦」と明記された事例のみを4件計上した。地域限定・部分的な恩赦(「曲赦西北路」明昌五年、「赦死罪已下」泰和五年・山東路限定、「赦凤、成、西和、阶、山五州」泰和七年、「赦唐、邓、颍、蔡、宿、泗六州」泰和六年、および即位前・世宗在位中の「赦中外」大定二十七年)は対象外とした。

立后回数

在位中、生前に正式冊立された皇后は存在しない。『金史』列伝(后妃下)に「自钦怀皇后没世,中宫虚位久」と明記されている。正妃の蒲察氏(後の钦怀皇后)は章宗がまだ金源郡王であった大定二十三年前後に妃となったが、即位前に死去(「后进封妃,崩」)。即位後に「帝即位,遂加追册」とあるのは没後の追贈(追册)であり、生前の正式冊立ではないため計上しない(本プロジェクトの他レコードでも没後追封は不計上とする先例あり)。寵妃・元妃李氏(李师儿)についても、章宗自身は皇后に立てようとしたが「大臣固执不从,台谏以为言,帝不得已,进封为元妃,而势位熏赫,与皇后侔矣」とあり、実際には皇后に冊立されずに終わった。

皇太子廃立回数

在位中、皇太子(皇太弟・皇太孫等を含む)は一度も立てられていない。唯一の皇子・忒邻(葛王、泰和二年八月生)は満2歳で夭折し(『金史』巻十一「生凡二岁而薨」)、立太子される前に死去した。本紀末尾の史臣賛にも「冢嗣未立」と明記されており、廃立の対象となる皇太子自体が存在しないため0回とした。

親征回数

在位19年間(1189-1208)を通じ、章宗自身が軍を率いて出征した記述は原文キャッシュ中に見当たらない。承安〜泰和年間の対宋戦争(開禧の役、1206-1208年)も含め、全ての軍事行動は完颜襄・仆散揆・完颜匡・纥石烈子仁ら将帥に委ねられ、章宗自身は中都に留まり衍庆宫での告廟・戦勝報告の受理・論功行賞を行うのみ(例:「上以宋叛盟出师,告于天地太庙社稷。丁亥,亲告于衍庆宫」=親征ではなく出師の告廟)。春水・秋山は恒例の巡幸・狩猟であり親征ではない。

反乱鎮圧回数

rebellionSufferedCountと同一の2件を計上(食い違いなし)。判断根拠・除外事案(郑王永蹈・镐王永中・张汝弼妻高陀斡の謀反/謀逆事案は兵力行使を伴わないため除外)はrebellionSufferedCountのnote参照。

被反乱回数

西北路阻卜の乱は服属部族の反乱か独立勢力との対外戦争かの境界事例だが、金の西北路招讨司・群牧司の管轄下にある部族であったことから服属民反乱として計上した。郑王永蹈(明昌三年「以谋反,伏诛」)・镐王永中(承安元年「以罪赐死」)・张汝弼妻高陀斡(明昌五年「以谋逆,伏诛」)は、いずれも兵力行使を伴わない告発・処刑のみの事案であり(永中・永蹈は泰和七年に爵位を追復されており冤罪の可能性が高い)、規定により鎮圧・被反乱いずれにも含めなかった。対宋戦争(承安〜泰和の開禧の役)は対等勢力間の対外戦争のため対象外。

遷都回数

金史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(上京→中都は海陵王期、中都→南京は宣宗期の出来事として各々計上済み。哀宗期の帰徳・蔡州への移動は滅亡直前の戦時避難で恒久的遷都と認められず対象外)。

即位時年齢・没年齢

生年は『金史』巻九(章宗本紀一)冒頭「大定八年,世宗幸金莲川,秋七月丙戌,次冰井,上生」による(大定八年七月丙戌=西暦1168年8月31日、干支から換算。この換算方法は本データセット既存レコードの即位日換算値(大定二十九年正月癸巳=1189-01-20)と照合し一致することを確認済み)。没年齢は巻十二(章宗本紀四)末尾「上不豫。丙辰,崩于福安殿,年四十一」に直接記載(数え年)。崩御日(泰和八年十一月丙辰)も同様に換算すると1208-12-29となり、既存データのendDateと一致。即位時年齢は原文に直接記載がないため空欄とした(生没年から逆算すると数え年22歳)。

在位中の出来事(11件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦1189年6月2日世宗の祔廟礼成に伴う大赦。

世宗の祔廟礼成に伴う大赦。原文:「(大定二十九年)五月庚寅朔…丙午,以祔庙礼成,大赦」

出典: 金史 巻九(章宗本紀一)

改元1190年2月7日即位(大定二十九年正月)の翌年に建元。

即位(大定二十九年正月)の翌年に建元。大定二十九年中は世宗の元号「大定」を改元せず継続使用し、明昌元年正月丙辰朔に新元号「明昌」を制定。原文:「明昌元年春正月丙辰朔,改元」

出典: 金史 巻九(章宗本紀一)

大赦1193年9月3日岁星・太白昼见の後の大赦。

岁星・太白昼见の後の大赦。原文:「(明昌四年)八月己亥朔…是日,岁星、太白昼见。庚子,大赦」

出典: 金史 巻十(章宗本紀二)

反乱鎮圧1194年〜1198年西北路阻卜(広吉剌部等)の乱

首謀者: 広吉剌部の兵(阻卜系諸部)

結果: 完颜襄・仆散揆らの継続的な征討により最終的に鎮圧・平定(承安三年「边事定」)

詳細はrebellionSufferedCountの同名イベントを参照。将帥(完颜襄・仆散揆ら)による鎮圧であり章宗自身の親征ではない。

被反乱1194年〜1198年西北路阻卜(広吉剌部等)の乱

首謀者: 広吉剌部の兵(阻卜系諸部)

結果: 当初は敗北(大盐泺群牧使移剌睹ら戦死)したが、後に完颜襄・仆散揆らの継続的な征討により平定(承安三年に「边事定」と詔される)

明昌五年冬「命上京等九路并诸抹及糺等处选军三万...仍命诸路并北阻棨以六年夏会兵临潢」に始まり、明昌六年五-六月夹谷清臣の献捷、同年十二月「右丞相襄率驸马都尉仆散揆等进军大盐泺,分兵攻取诸营」、承安元年正月「大盐泺群牧使移剌睹等为广吉剌部兵所取败,死之」と続き、承安三年十一月「枢密使兼平章政事襄至自军...以边事定,诏中外,减死罪」で終結。阻卜諸部は金の西北路招讨司・糺軍体制下の服属部族であり、対等勢力(宋・西夏・遼系)との対外戦争とは区別し服属民反乱として計上。将帥による鎮圧であり章宗自身の親征ではない。

反乱鎮圧1195年特满群牧契丹陀锁・徳寿の乱

首謀者: 陀锁・徳寿(契丹の特满群牧)

結果: 泰州軍により鎮圧

明昌六年十一月庚寅「特满群牧契丹陀锁、德寿反,泰州军击败之」。

被反乱1195年特满群牧契丹陀锁・徳寿の乱

首謀者: 陀锁・徳寿(契丹の特满群牧)

結果: 泰州軍により即座に撃破された

明昌六年十一月庚寅「特满群牧契丹陀锁、德寿反,泰州军击败之」。金国内の特满群牧(契丹系牧民集団)による反乱で服属民の反乱に該当。

改元1195年12月20日明昌から承安に改元。

明昌から承安に改元。原文:「(明昌六年)十一月…戊戌,有事于南郊,大赦,改元」(新元号「承安」は翌承安元年正月辛巳朔から施行)

出典: 金史 巻十(章宗本紀二)

大赦1195年12月20日南郊祭祀(有事于南郊)に伴う大赦。

南郊祭祀(有事于南郊)に伴う大赦。明昌から承安への改元と同日。原文:「(明昌六年)十一月…戊戌,有事于南郊,大赦,改元」

出典: 金史 巻十(章宗本紀二)

改元1201年1月7日承安から泰和に改元。

承安から泰和に改元。承安五年十二月癸未朔に「诏改明年为泰和元年」と改元の詔を発し、翌泰和元年正月壬子朔(1201年2月5日)から新元号「泰和」施行。原文:「(承安五年)十二月癸未朔…诏改明年为泰和元年」「泰和元年正月壬子朔,宋、高丽、夏遣使来贺」

出典: 金史 巻十一(章宗本紀三)

大赦1203年6月29日律令制定・土徳確定・鳳凰出現・皇嗣(皇子忒邻=葛王)誕生を機とする大赦。

律令制定・土徳確定・鳳凰出現・皇嗣(皇子忒邻=葛王)誕生を機とする大赦。原文:「(泰和三年)五月壬申朔…丙戌,以定律令、正土德、凤凰来、皇嗣建,大赦」

出典: 金史 巻十一(章宗本紀三)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。