中国皇帝統計

太祖

金|在位 1115–1123年

太祖の肖像
諱(本名)
完顔阿骨打
在位
1115–1123年
在位期間
8年236日365名中144位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
48歳(数え年)172名中・若い順155位タイ
没年齢
56歳(数え年)269名中・長寿順51位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
5112名中12位タイ
反乱鎮圧
8225名中50位タイ
被反乱
9289名中55位タイ
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

収国元年、諸将の勧進を経て即位・建国。

出典: 金史 巻二(太祖本紀)

死因の経緯

天輔7年6月に発病、8月戊申に崩御。他殺を示す記述なし。

出典: 金史 巻二(太祖本紀)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

太祖朝の元号は収国(1115-1116)→天輔(1117-1123、太祖崩御の天輔七年八月まで継続)の2つで、即位に伴う建元1回と在位中の改元1回、計2回。天輔七年八月の崩御後、天輔の元号は太宗即位後も一定期間継続使用され、太祖在位中に3度目の改元は行われていない。

大赦回数

本紀全体で「赦」字を検索し、「無赦」「不赦」(否定表現)、「赦其罪」(燕京降官個別赦免)、「赦上京官民」(上京限定)、「曲赦平州」(平州限定)を除外した結果、全国規模の大赦は天輔七年二月癸丑の1回のみ確認。

立后回数

太祖本紀中に「立皇后」等、在位中の皇后冊立を示す記事は存在しない。金史列伝(后妃上)の記述によれば、太祖の四后(圣穆皇后・光懿皇后・钦宪皇后・宣献皇后)はいずれも太祖の生前ではなく没後(熙宗朝以降、天会十三年)に追謚・追祔されたものであり、生前の正式冊立ではない。また同列伝総説に「国初諸妃皆無位号,熙宗始有貴妃、賢妃、德妃之号」とあり、建国当初(太祖朝)はそもそも正式な妃嬪位号・皇后冊立制度自体が未整備だったことも確認できる。よって太祖在位中の皇后冊立は0回。

皇太子廃立回数

太祖朝では「皇太子」制度は未確立で、皇位継承予定者は「諳班勃極烈」の称号で表された(収国元年七月戊辰、弟吳乞買を諳班勃極烈とする)。本紀中に諳班勃極烈やその他の法定推定継承者を廃した記事はなく、太祖崩御後そのまま吳乞買(太宗)が即位している。よって皇太子(相当職含む)廃立は0回。

親征回数

即位(収国元年正月1115-01-28)後に太祖自身が「上自将」「上亲征」と明記される親征のみを計上。即位前(都勃極烈時代)の乌春・麻産・萧海里・留可討伐や、対遼開戦の端緒となった寧江州攻略・出河店の戦い等は建国前の挙兵としてaccessionRoute領域のため対象外(五代十国ブロックの先例踏襲)。黄龍府方面は収国元年正月-二月に達魯古城で遼援軍を撃破したが本城攻略に至らず一旦師還、同年八月に改めて「上亲征黄龙府」して九月に攻略しており、帰還を挟んだ別個の軍事行動として2件に分けた。同年十一月-十二月の護歩答岡の戦い(遼主自ら率いた70万の大軍への迎撃・追撃)も黄龍府攻略後に一旦帰還してからの新規動員のため別件とした。天輔4年(1120)の上京攻略、天輔6年(1122)六月出発-天輔7年(1123)の燕京攻略~崩御に至る親征(帰還前に発病・崩御のため終期を崩御日とした)を合わせ計5件。対等勢力(遼)との戦争は本ブロック特有ルールによりrebellionSuppressionCount/rebellionSufferedCountには一切計上していない。

反乱鎮圧回数

本ブロック特有ルールに従い、遼(対等勢力・外国)との戦争は一切計上せず、既に金に服属・降伏した後に離反した「服属民の反乱」のみを計上した。除外例:即位前の対遼開戦(accessionRoute領域)、高永昌(大渤海、遼から自立した別政権の征服=統一戦争として除外)、回離保(遼奚王の僭称帝、金への服属実績のない遼残存勢力として除外)、耶律捏里の来伐・遼将による奪還戦等(金vs遼の対外戦争)。興中・宜州の再叛乱(天輔7年二月「兴中、宜州复叛」)は原文キャッシュの範囲内で崩御(天輔7年八月)までに再鎮圧の記載が見当たらず、鎮圧未達成のまま在位終了と判断しsuppressionには含めない(sufferedのみ計上、共通ルール例外(2))。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同じ8件の服属民反乱に加え、崩御までに再鎮圧の記載が見当たらない興中・宜州の再叛乱(例外(2):未鎮圧のまま在位終了)を追加した計9件。遼(対等勢力)との一連の対外戦争(即位前の対遼開戦・高永昌・耶律捏里来伐・回離保等)は本ブロック特有ルールにより一切含めていない。朝廷内部の権力者による弑逆・クーデター(本人物には該当事例なし)も生じていない。

遷都回数

金史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(上京→中都は海陵王期、中都→南京は宣宗期の出来事として各々計上済み。哀宗期の帰徳・蔡州への移動は滅亡直前の戦時避難で恒久的遷都と認められず対象外)。

即位時年齢・没年齢

金史巻二太祖本紀冒頭に「咸雍四年戊申七月一日,太祖生」とあり生年月日(遼咸雍四年=1068年、戊申年七月一日)が明記される。原文の暦日をそのまま記載しており西暦への厳密な換算は未実施(既存reignsのstartDate/endDateは別途換算済み)。崩御記事に「上崩於部堵濼西行宮,年五十六」とあり享年(数え年)56歳と直接記載。即位時年齢は原文に直接の記載なし(accessionAgeはnull)。deathDateは既存データのendDate(1123-09-19)と一致。

在位中の出来事(25件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1115年1月28日収国元年正月壬申朔、群臣が上尊号し、即日皇帝に即位。

収国元年正月壬申朔、群臣が上尊号し、即日皇帝に即位。国号を大金と定め、元号を「収国」と改元(即位に伴う最初の建元)。原文:「收國元年正月壬申朔,羣臣奉上尊號。是日,即皇帝位…於是國號大金,改元收國。」

出典: 金史 巻二(太祖本紀)

親征1115年2月〜1115年3月遼・黄龍府方面(達魯古城の戦い、益州攻撃を含む)

対象: 遼・黄龍府方面(達魯古城の戦い、益州攻撃を含む)

結果: 達魯古城で遼の大規模援軍(騎二十万・歩卒七万)を撃破。黄龍府本城の攻略には至らず師還。

収国元年正月丙子「上自将攻黄龙府,进临益州」。二月「师还」。

親征1115年9月〜1115年10月遼・黄龍府(攻略)

対象: 遼・黄龍府(攻略)

結果: 黄龍府を攻略・占領。

収国元年八月戊戌「上亲征黄龙府」。九月「克黄龙府」。丁丑「至自黄龙府」で帰還。

親征1115年12月〜1116年1月遼主親征軍(護歩答岡の戦い)

対象: 遼主親征軍(護歩答岡の戦い)

結果: 遼主自ら率いた70万の大軍の迎撃に出陣し、護歩答岡で追撃・大破。

収国元年十一月「辽主…自将七十万至驼门…上自将御之」。十二月「追及辽主于护步答冈…辽师败绩,死者相属百余里」。

改元1117年1月収国二年(1116年)十二月庚申朔、諳班勃極烈吳乞買及び群臣が太祖に「大聖皇帝」と尊号を上り、翌年を天輔元年と改元することが定められた。

収国二年(1116年)十二月庚申朔、諳班勃極烈吳乞買及び群臣が太祖に「大聖皇帝」と尊号を上り、翌年を天輔元年と改元することが定められた。原文:「十二月庚申朔,諳班勃極烈吳乞買及羣臣上尊號曰大聖皇帝,改明年為天輔元年。」以降、本紀の記事は「天輔元年正月」から新元号で記される。国号変更ではなく元号(収国→天輔)の変更のためeraChangeCountに算入。

出典: 金史 巻二(太祖本紀)

反乱鎮圧1117年1月開州の叛乱

首謀者: 不詳

結果: 鎮圧

天辅元年正月「开州叛,加古撒喝等讨平之」。前年末(収国二年十二月)に金軍(来谷撒喝)が攻略した開州が離反したもの。

被反乱1117年1月開州の叛乱

首謀者: 不詳

結果: 鎮圧

天辅元年正月「开州叛,加古撒喝等讨平之」。

反乱鎮圧1118年12月川州寇の叛乱

首謀者: 不詳

結果: 鎮圧

天輔2年十二月甲辰「川州寇二万已降复叛,纥古烈照里击破之」。既に降伏していた川州の反乱者2万が再叛。

被反乱1118年12月川州寇の叛乱

首謀者: 不詳

結果: 鎮圧

天輔2年十二月甲辰「川州寇二万已降复叛,纥古烈照里击破之」。

反乱鎮圧1119年1月東京人質永吉等の叛乱

首謀者: 永吉等5名

結果: 鎮圧(首謀者誅殺)

天輔3年正月甲寅「东京人为质者永吉等五人结众叛。事觉,诛其首恶,余皆杖百」。

被反乱1119年1月東京人質永吉等の叛乱

首謀者: 永吉等5名

結果: 鎮圧(首謀者誅殺)

天輔3年正月甲寅「东京人为质者永吉等五人结众叛。事觉,诛其首恶」。

反乱鎮圧1119年9月〜1120年1月実里古達(燭隈水部)の乱

首謀者: 実里古達

結果: 鎮圧

天輔3年九月「烛隈水部实里古达等杀孛堇酬斡、仆忽得以叛」。天輔5年(原文の「五年」は前後関係から天輔5年正月と解される)春正月「斡鲁败实里古达于合挞剌山,诛首恶四人,余悉抚定」。※原文の年次表記(「五年」)をそのまま反映。

被反乱1119年9月〜1120年1月実里古達(燭隈水部)の乱

首謀者: 実里古達

結果: 鎮圧

天輔3年九月「烛隈水部实里古达等杀孛堇酬斡、仆忽得以叛」。天輔5年春正月「斡鲁败实里古达于合挞剌山,诛首恶四人,余悉抚定」。

親征1120年5月〜1120年8月遼・上京

対象: 遼・上京

結果: 上京を攻略、留守挞不野の降伏を得て班師。

天輔4年四月乙未「上自将伐辽」。五月「至上京…甲寅,亟命进攻…以城降」。七月「上至自伐辽」。

反乱鎮圧1122年3月〜1122年4月西京の再叛乱

首謀者: 不詳

結果: 奪還・鎮圧

天輔6年三月「壬申,西京降…乙亥,西京复叛」。四月辛卯「复取西京」。

被反乱1122年3月〜1122年4月西京の再叛乱

首謀者: 不詳

結果: 奪還・鎮圧

天輔6年三月「壬申,西京降…乙亥,西京复叛」。四月辛卯「复取西京」。

親征1122年7月〜1123年9月遼・燕京および遼主追討(帰還途上で崩御)

対象: 遼・燕京および遼主追討(帰還途上で崩御)

結果: 燕京を攻略したが遼主本人の捕獲には至らず、帰還途上で発病し崩御。

天輔6年六月戊子朔「上亲征辽,发自上京」。十二月「上伐燕京,入自南门」で攻略。天輔7年五月以降南京(平州)で張覚が叛くなど戦後処理が続く中、六月「上不豫,将还上京」、八月戊申「上崩于部堵泺西行宫」で崩御(帰還完了前)。一連の遠征として区切らず1件とした。

反乱鎮圧1123年黄龍府の再叛乱

首謀者: 不詳

結果: 鎮圧

天輔7年「黄龙府叛,宗辅讨平之」(燕京攻略記事の末尾に付記)。

被反乱1123年黄龍府の再叛乱

首謀者: 不詳

結果: 鎮圧

天輔7年「黄龙府叛,宗辅讨平之」。

反乱鎮圧1123年1月蔚州の叛乱

首謀者: 翟昭産・田庆

結果: 再降伏

天輔7年(原文「十月」条内、金が任命した知州事を殺害)「蔚州翟昭产、田庆杀知州事萧观宁等以叛。丙午,复降」。既に金へ降伏し金が刺史を任命した直後の離反。

被反乱1123年1月蔚州の叛乱

首謀者: 翟昭産・田庆

結果: 再降伏

「蔚州翟昭产、田庆杀知州事萧观宁等以叛。丙午,复降」。

大赦1123年2月天輔七年二月癸丑、大赦。

天輔七年二月癸丑、大赦。原文:「癸丑,大赦。」全国規模の「大赦」と明記される唯一の記事。なお同年正月「詔曲赦平州」は平州限定の恩赦(曲赦)、天輔五年六月「是日,赦上京官民」は上京城内に限定された恩赦であり、いずれも全国規模ではないため大赦としてカウントしない。

出典: 金史 巻二(太祖本紀)

被反乱1123年2月興中・宜州の再叛乱

首謀者: 不詳

結果: 崩御(1123-09)までに再鎮圧の記載なし・未解決のまま在位終了

天輔7年二月「兴中、宜州复叛」。原文キャッシュの範囲内では以後の再鎮圧記事が見当たらず、共通ルール例外(2)としてsufferedのみ計上しsuppressionには含めない。

反乱鎮圧1123年6月〜1123年7月張覚の乱

首謀者: 張覚

結果: 営州で撃破

天輔7年五月甲寅「南京留守张觉据城叛」(張覚は元遼の平州節度使で金に降り南京留守に任命されていた)。六月壬午朔「阇母败张觉于营州」。

被反乱1123年6月〜1123年7月張覚の乱

首謀者: 張覚

結果: 営州で撃破

天輔7年五月甲寅「南京留守张觉据城叛」。六月壬午朔「阇母败张觉于营州」。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。