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太祖の肖像画

金第1代

太祖完顔阿骨打

在位 1115–1123年(8年234日)1115年1月28日 〜 1123年9月19日

日本は平安時代

女直の諸部を率いて遼に背き、1115年に金を建て、のちに遼の上京と燕京を落とした金の初代皇帝である。

太祖の人物データ

生年
1068年8月1日
在位
  • 1115年1月28日〜1123年9月19日
8年234日長い順143位/365人48歳で即位(数え年)
没年
1123年9月19日56歳(数え年)長生き順同率51位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
(経緯記載なし)
先代
  • 完顔烏雅束太祖は完顔烏雅束の弟
次代
  • 太宗金太宗は太祖の弟
呼び名
漢名完顔旻女真名阿骨打呼び名の見方
目立つ記録

出典

在位
金史 本紀二 太祖(巻2)
死因
金史 巻二(太祖本紀)
即位経路
金史 巻二(太祖本紀)

生涯

即位まで

世祖の第二子である。戦で傷ついた世祖は幼い阿骨打を膝に座らせ、この子が大きくなれば何の心配もないと言った。兄の康宗の時、凶作で盗みが増えると重い法に反対して弁償を軽くし、妻子を売って借りを返す民には取り立てを3年止めた。1112年、遼ので酋長たちが順に舞わされたとき、阿骨打だけが断り続けた。1113年に康宗が没すると、位を継いでとなった。1114年、寧江州で遼軍を破ると皇帝を称するよう勧められたが、一戦の勝ちで大号を称すれば浅く見られると退けた。1115年、群臣がを奉るとその日に即位し、遼の号の賓鉄はいずれ壊れるが金は変わらないと言って、国号を大金とした。即位後も、奏事で跪いた一族の撒改らを泣いて止め、古い習わしを急には改めないと言った。

史料について

頭魚宴の話は遼史にあり、金史には無い。遼史は即位を1117年に置いて元号を天輔とするが、金史では、1117年の初めに大聖皇帝の尊号を受け、その年から天輔と改めている。

治世と最期

1115年のうちに達魯古城で遼軍を破り、黄龍府を落とした。遼の天祚帝が引き返すと、去るのを追うのを勇とするのかと諸将を恥じ入らせて奮い立たせ、護歩答岡で追いついてその軍を大破した。

1120年、自ら遼の上京の城下に臨んで督戦し、闍母の手勢が外城を破ると、留守は城をあげて降った。1123年の初めに燕京に入ると、罪を請う遼のをすべて赦した。

同じ年に病となって弟の呉乞買を召し、部堵濼の西ので没した。

史料について

宋側の節要は、降った者を身内のように扱って疑わずに用いた一方、遼への反乱の策を唱えた者には略奪をほしいままにさせたと書く。金史の太祖本紀は病名を記さず、遼史の天祚帝紀はその死を翌1124年の条に置く。金史の賛は、謀に優れ度量が広く、人をよく見て任せたと評する。

太祖とつながる皇帝

宋・遼・金・西夏の勢力図(1115年)

勢力図

宋・遼・金・西夏の勢力図で見る

1115–1123年の地図に、太祖が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱9・親征5・改元2・大赦1
  1. 改元1115年1月28日元号を「収国」とする
  2. 1115年2月〜1115年3月遼・黄龍府方面(達魯古城の戦い、益州攻撃を含む)
  3. 1115年9月〜1115年10月遼・黄龍府(攻略)
  4. 1115年12月〜1116年1月( 1115年12月)遼主親征軍(護歩答岡の戦い)
  5. 改元1117年元号を「天輔」とする
  6. 反乱1117年開州の叛乱
  7. 反乱1119年川州寇の叛乱
  8. 反乱1119年東京人質永吉等の叛乱
  9. 反乱1119–1120年実里古達(燭隈水部)の乱
  10. 1120年遼・上京
  11. 反乱1122年西京の再叛乱
  12. 1122年7月〜1123年9月遼・燕京および遼主追討(帰還途上で崩御)
  13. 1123年
  14. 反乱1123年黄龍府の再叛乱
  15. 反乱1123年1月( 1122年12月)蔚州の叛乱
  16. 反乱1123年3月興中・宜州の再叛乱
  17. 反乱1123年6月〜1123年7月張覚の乱

金の歴代皇帝

歴代10人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

金が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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