仁宗の次子として天禧と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることし、乃蛮の屈出律に位を奪われた西遼の最後の皇帝である。
天禧皇帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 1177年〜1211年
- 没年
- 1213年年齢不詳
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 継承同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰が決めたかを史書が書いていない即位。(経緯記載なし)
- 先代
- 仁宗正徳皇帝西遼天禧皇帝は仁宗正徳皇帝の子
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓耶律諱直魯古呼び名の見方
出典
- 在位
- 遼史 本紀三十 天祚皇帝紀四附録(西遼・
末主) - 死因
- 新元史 巻一百十八 列伝第十五(古出魯克伝)
- 即位経路
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
生涯
即位まで
西遼の仁宗の次子である。仁宗の死後は子が幼かったので、仁宗の妹の普速完が称制位につかないまま君主として命令を出すことした。普速完は夫の蕭朶魯不を罪に陥れて殺し、その父の斡里剌に射殺された。そののち直魯古が即位し、天禧と改元した。
史料について
遼史は即位の年を書かず、普速完の死に続けて即位を並べるだけだが、続資治通鑑と資治通鑑後編は1168年に斡里剌が直魯古を迎えて立てたとする。
治世と最期
1209年、畏兀児は西遼が置いた監国君主に代わって、または見張り役として国の政治を預かることの官を殺し、モンゴルに付いた。
乃蛮の屈出律が身を寄せてくると、直魯古はやがて国事を屈出律に任せた。屈出律は直魯古を捕らえて位を奪い、直魯古を太上皇位を退いた(退かされた)前の皇帝の呼び名に尊んで、朝夕に起居を問うた。位を奪われたのちに直魯古は没し、遼は絶えた。
史料について
畏兀児が離れた理由を、新元史は僧の沙均の専横とし、元史はチンギス・カンの興起を聞いたためとする。捕らえた経緯を、遼史と続資治通鑑・資治通鑑後編は狩りに出たところを伏兵で、新元史はホラズムと示し合わせて攻めた末とする。その年を遼史は書かず、続資治通鑑と後編は1201年、新元史は1211年とする。没年も死因も遼史には無い。続資治通鑑と後編はほどなく死んだとし、新元史は位を奪われて2年後に憂いのうちに没したとして、このページの年と死因はこれによる。
天禧皇帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・改元1
- 改元1177年元号を「天禧」とする
- 反乱1211年屈出律(クチュルク)のクーデター
西遼の歴代皇帝
歴代5人の一覧- 第1代徳宗天祐皇帝耶律大石1132–1143年不詳
- 第2代蕭塔不煙皇帝を名乗っていない1143頃–1150年頃
- 第3代仁宗正徳皇帝1150–1163年不詳
- 第4代耶律普速完皇帝を名乗っていない1163頃–1177年頃
- 第5代天禧皇帝1177–1211年病死
年表
遼・
西遼が