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西遼(遼・西夏・金)第5代

天禧皇帝耶律直魯古

在位 1177–1211年(34年8日)

日本は平安・鎌倉時代

仁宗の次子として天禧とし、乃蛮の屈出律に位を奪われた西遼の最後の皇帝である。

天禧皇帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1177年〜1211年
34年8日長い順18位/365人即位の年齢は不詳1211年に在位を終え、2年後の1213年に没
没年
1213年年齢不詳
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
(経緯記載なし)
先代
次代
—
呼び名
姓耶律諱直魯古呼び名の見方

出典

在位
遼史 本紀三十 天祚皇帝紀四附録(西遼・末主)
死因
新元史 巻一百十八 列伝第十五(古出魯克伝)
即位経路
遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)

生涯

即位まで

西遼の仁宗の次子である。仁宗の死後は子が幼かったので、仁宗の妹の普速完がした。普速完は夫の蕭朶魯不を罪に陥れて殺し、その父の斡里剌に射殺された。そののち直魯古が即位し、天禧と改元した。

史料について

遼史は即位の年を書かず、普速完の死に続けて即位を並べるだけだが、続資治通鑑と資治通鑑後編は1168年に斡里剌が直魯古を迎えて立てたとする。

治世と最期

1209年、畏兀児は西遼が置いたの官を殺し、モンゴルに付いた。

乃蛮の屈出律が身を寄せてくると、直魯古はやがて国事を屈出律に任せた。屈出律は直魯古を捕らえて位を奪い、直魯古をに尊んで、朝夕に起居を問うた。位を奪われたのちに直魯古は没し、遼は絶えた。

史料について

畏兀児が離れた理由を、新元史は僧の沙均の専横とし、元史はチンギス・カンの興起を聞いたためとする。捕らえた経緯を、遼史と続資治通鑑・資治通鑑後編は狩りに出たところを伏兵で、新元史はホラズムと示し合わせて攻めた末とする。その年を遼史は書かず、続資治通鑑と後編は1201年、新元史は1211年とする。没年も死因も遼史には無い。続資治通鑑と後編はほどなく死んだとし、新元史は位を奪われて2年後に憂いのうちに没したとして、このページの年と死因はこれによる。

天禧皇帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱1・改元1
  1. 改元1177年元号を「天禧」とする
  2. 反乱1211年屈出律(クチュルク)のクーデター

西遼の歴代皇帝

歴代5人の一覧
  1. 第2代蕭塔不煙皇帝を名乗っていない1143頃–1150年頃
  2. 第4代耶律普速完皇帝を名乗っていない1163頃–1177年頃

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

西遼が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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