天禧皇帝
西遼(宋・遼・西夏・金)|在位 1177–1213年
- 諱(本名)
- 耶律直魯古
- 在位
- 1177–1213年
- 在位期間
- 36年365名中16位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
承天太后・普速完(仁宗の妹、直魯古の叔母)が14年間摂政した後、密通発覚を機にクーデターで殺害され、その直後に仁宗次子直魯古が即位。血統上は正統な世襲継承だが直前の政変の経緯は詳述がない。
出典: 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
死因の経緯
遼史は「憤死」等の直接表現はなく、屈出律による厚遇(太上皇として終身奉養)を強調する。新元史(畏兀児伝)に「古儿罕以忧卒」(捕縛の2年後、憂いにより死去)とあり従来の「憤懣の中で死去」とする記録に近い内容だが、新元史は正史ではなく民国期編纂の私撰史書で確度は低い。
出典: 新元史 列伝(畏兀児・巴而術阿而忒的斤亦都護伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
遼史巻三十原文「仁宗次子直鲁古即位、改元天禧、在位三十四年」により即位と改元が明記されており改元回数=1回は確度が高い。ただし改元の月日は原文に記載がなくdate:nullとした。china-history/辽史(本紀第三十章-卷三十-原文.html)とdaizhigev20/史藏/正史/辽史.txt(該当行)の両コーパスで完全に一致する文言を確認し、内容が文言文であることも確認済み。新元史(列伝・畏兀児/巴而術阿而忒的斤亦都護伝)には「西辽主直鲁古使其太师僧沙均监其国」等の記述はあるが改元・大赦・立后・立太子廃立に関する具体的記事はない。34年間の治世の大部分は正史の記録が失われており、他に改元があった可能性も否定できないためconfidenceはmediumとした。
大赦回数
遼史巻三十の直魯古に関する記述はわずか数十字のみ(「仁宗次子直鲁古即位、改元天禧、在位三十四年。時秋出猎、乃蛮王屈出律以伏兵八千擒之、而据其位。遂袭辽衣冠、尊直鲁古为太上皇、皇后为皇太后、朝夕问起居、以侍终焉。直鲁古死、辽绝」)で、大赦への言及は一切ない。同巻の他の西遼皇帝(耶律淳の建福元年「大赦」等)とは異なり直魯古の即位・在位記事には大赦の記載がなく、34年間の治世詳細がほぼ失われているため、実際に行われたが記録が失われた可能性も排除できない。新元史(畏兀児伝)にも該当記述なし。china-history/辽史(本紀第三十章)とdaizhigev20/正史/辽史.txtの両コーパスで同一文言を確認済み。
立后回数
遼史巻三十には「皇后为皇太后」(屈出律のクーデター後、直魯古の皇后が皇太后に格上げされた)との記述があり皇后の存在自体は確認できるが、その皇后がいつ・どのような経緯で冊立されたかを示す記述は原文になく、立后の「回数」を特定する記事はない。新元史(畏兀児伝)にも該当記述なし。china-history/辽史とdaizhigev20/正史/辽史.txtの両コーパスで同一文言を確認済み。
皇太子廃立回数
遼史巻三十の直魯古関連記述には皇太子(皇太弟等)の立廃に関する言及が一切ない。史料自体が極めて簡略(数十字のみ)であり、皇太子の存否自体が不明。新元史(畏兀児伝)にも該当記述なし。
親征回数
遼史巻30付録の直魯古本人に関する記事は「即位」「改元」「秋出猎で屈出律に擒われる」「太上皇として死去」のみで、皇帝自身が軍を率いて出征した記事は一切ない。「時秋出猎」は狩猟であり軍事親征ではない。原文が極めて短いため抽出漏れの可能性は低い。
反乱鎮圧回数
原文には直魯古が反乱・蜂起を鎮圧した記事が一切ない。前代の摂政普速完が駙馬蕭朶魯不の弟との密通発覚に絡む政変(普速完自身が殺害された事件)を経験しているが、これは直魯古即位前の出来事であり本人のカウントに含めない(指示通り前代摂政の記事は対象外)。
被反乱回数
原文が極めて簡略なため事件の内実(屈出律がどの程度朝廷内部に組み込まれていたか)の詳細は確認できないが、指示に基づきexception4(朝廷内部の権力者による兵力を伴うクーデター)としてsufferedに1件計上した。rebellionSuppressionCountとは非対称(suppression=0, suffered=1)となるが、これはexception4のパターン(クーデターはsufferedのみ計上)に該当するため正当な食い違いである。
遷都回数
遼史(耶律大石伝)を通読。虎思斡耳朶定都(建国時の定都、1134年)から末代天禧皇帝の代まで一貫した都。
即位時年齢・没年齢
遼史巻30付録(西遼末尾記事)の該当箇所「仁宗次子直鲁古即位,改元天禧,在位三十四年。时秋出猎,乃蛮王屈出律以伏兵八千擒之,而据其位。遂袭辽衣冠,尊直鲁古为太上皇,皇后为皇太后,朝夕问起居,以侍终焉。直鲁古死,辽绝。」を確認したが、原文自体が極めて簡略で「時年」「年◯◯」等の生年・即位時年齢・没年齢に関する直接記載は一切ない。既存のdeathCause.note/accessionRoute.noteにも年齢記載はなく、王朝の摂政期(塔不烟・普速完)の記事にも直魯古本人の生年情報はない。没年(1213年)は既存reigns[].noteの記載(月日不詳)をdeathDateとして転記したが、享年自体は不明のため調査済み・判明せずとして確定する。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱1211年屈出律(クチュルク)のクーデター
首謀者: 屈出律(乃蛮王子、ナイマン部の亡命王子)
結果: 秋の狩猟中に屈出律の伏兵8000騎に捕らえられ実権を喪失、直魯古は名目上「太上皇」に祭り上げられ、屈出律が西遼の実権を掌握(1213年直魯古死去により西遼断絶)
原文「时秋出猎,乃蛮王屈出律以伏兵八千擒之,而据其位」。屈出律は乃蛮(ナイマン)滅亡後に西遼へ亡命し、直魯古の娘婿となって信任を得た上で国政に深く関与する客将的立場を築いた後に兵力(伏兵八千)で皇帝を捕縛し纂奪しており、単純な外国からの軍事侵攻というより朝廷内部に食い込んだ権力者による兵力を伴うクーデターに近い。設問の指示(exception4)に従い、朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデターとしてrebellionSufferedCountに計上した。ただし屈出律が正式に西遼の官職・朝廷機構に組み込まれていた記録までは原文(数百字規模の簡略な記事)からは確認できず、外国王族による征服・簒奪という側面も強いため位置づけには一定の解釈の幅がある。
改元日付不詳崇福14年(1177年)、プスワン(承天太后)殺害後に仁宗次子・直魯古が皇帝として即位すると同時に元号を「天禧」に改元(建元)。
崇福14年(1177年)、プスワン(承天太后)殺害後に仁宗次子・直魯古が皇帝として即位すると同時に元号を「天禧」に改元(建元)。以後在位三十四年(1211年に屈出律のクーデターで実権喪失するまで)天禧の元号を継続使用したとみられ、遼史原文にはこの他の改元記事は見当たらない。
出典: 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)