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金第2代

太宗完顔晟

在位 1123–1135年(11年135日)1123年9月27日 〜 1135年2月9日

日本は平安時代

兄の太祖のあとを継いで遼を滅ぼして宋を伐ち、宮室を増やさなかったと賛に評された金の皇帝である。

太宗の人物データ

生年
1075年
在位
  • 1123年9月27日〜1135年2月9日
11年135日長い順119位/365人即位の年齢は不詳
没年
1135年2月9日61歳(数え年)長生き順同率33位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 太祖完顔阿骨打金太宗は太祖の弟
次代
  • 熙宗金熙宗は太宗の同族(遠縁)
呼び名
女真名呉乞買呼び名の見方

出典

在位
金史 本紀三 太宗
死因
金史 巻三(太宗本紀)
即位経路
金史 巻二・巻三

生涯

即位まで

本名は呉乞買といい、世祖の第四子で、太祖の同母の弟である。初め穆宗の養子となり、1115年にに任じられ、太祖の征伐中はいつも留守を守った。1121年、太祖は詔で、汝は朕の同母弟で義は一体だとして、国政の副とした。1123年、病んだ太祖に召されて出迎えたときは、太祖の病が重くなるのを恐れて習不失の死を隠した。太祖は渾河の北で呉乞買と会ったのちに没した。葬のあと、の請いを二度退けたが、宗幹らがを身にかけてを懐に置き、翌日に即位した。

史料について

金史の太祖本紀に、位を継がせるの記述は無い。

治世と最期

即位すると、宗翰に空名の任命書を与えて便宜に従えと詔し、献じられたは退けた。1124年、宗翰らが山西のを宋に割かないよう請うと、先帝の命に違うとして退けたが、のちに宗翰の言で取りやめた。1125年には婁室が遼の天祚帝を捕らえ、天祚帝は都で海浜王に降された。

1127年の初めに宋の都が陥ちると、趙氏を再び立てよという劉彦宗の請いを聴かず、徽宗と欽宗をに降して、張邦昌を大楚皇帝に立てた。1132年、後継を決めかねていたところへ宗翰らが太祖のの熙宗を立てるよう再三請い、太宗はこれに従った。1133年、が禄から銭を出して軍を助けたいと言うと、官に府庫があるのに臣下から取るのは何の理かと退けた。

1135年に明徳宮で没した。死後、海陵王が太宗の子孫七十余人を殺し、太宗の後は絶えた。

史料について

後継を、金史の宗翰伝は太宗に熙宗を立てる意は無かったとし、神麓記は宗磐・宗幹・宗翰が位を主張し、完顔勖の奏で熙宗に決まったとする。大金国志は、功臣たちが制し難く、太宗は位にあって黙っていただけだと評する。金史は病名を書かない。建炎以来繫年要録の注は神麓記の中風説を採り、注が引く張匯の節要と大金国志は、喪を伏せたとする。

太宗とつながる皇帝

宋・遼・金・西夏の勢力図(1123年)

勢力図

宋・遼・金・西夏の勢力図で見る

1123–1135年の地図に、太宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱5・改元1・大赦2
  1. 反乱1123年9月〜1124年6月張覚・張敦固の乱(南京/平州叛乱)
  2. 改元1123年10月7日元号を「天会」とする
  3. 1123年10月7日
  4. 反乱1124年烏虎部及び諸営の叛乱
  5. 反乱1126年夔里本の叛乱(鉄勒部)
  6. 反乱1128年真定の賊、元帥を自称した蜂起
  7. 1132年
  8. 反乱1132年耶律余睹の謀反

金の歴代皇帝

歴代10人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

金が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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