衛紹王の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 1208年12月29日〜1213年9月11日
- 没年
- 1213年年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 女真名興勝諡号紹呼び名の見方
出典
- 在位
- 金史 本紀十三 衛紹王(即位の記事)/本紀十二 章宗四(章宗崩御日=即位日の確定に使用)
- 死因
- 金史 巻十三(衛紹王本紀)
- 即位経路
- 金史 巻十三(衛紹王本紀)
生涯
即位まで
世宗の第七子で、母は元妃李氏である。背が高く美しいひげをたくわえ、生まれつき倹約だった。柔弱で知謀に乏しかったため、宗室君主と同じ一族の人々を疑う章宗にかえって愛された。跡継ぎのない章宗は衛王を立てたいと考え、衛王が朝廷を辞去する日には、叔王は主人になりたくないのかと言った。1208年に章宗が危篤になると、章宗の元妃李氏・宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の李新喜・完顔匡が策を定め、衛王は遺詔皇帝が死に際に残した命令によって柩の前で即位した。
史料について
元史の太祖紀は、チンギス・カンが新帝は衛王だと聞いて南に唾を吐き、凡庸で臆病な者でも皇帝になるのかと言ったと記すが、この話は金史に無い。
治世と最期
1209年には、章宗の元妃李氏が懐妊を偽らせたなどとして、李氏と宮人宮中に仕え暮らした女性たちの賈氏に自尽自分で命を絶つことを命じた。
1211年にチンギス・カンが攻めてくると講和を求めたが、金軍は会河堡で大敗し、居庸関を失って中都は戒厳となった。徒単鎰が三州の民を内地へ移すよう請うとこれを責め、三州を失ってから、丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職の言に従っていればと大いに悔やんだ。西京を棄てて逃げ帰った胡沙虎を、朝廷は不問にし、右副元帥金で軍の総大将を補佐した高い地位の一つに任じた。
1213年、胡沙虎に再び兵を預けたが、使者に責められた胡沙虎は詔を偽って挙兵し、宮中に入って衛紹王を旧邸に閉じ込め、宦官に殺させた。宣宗の即位後、胡沙虎が庶人官位や身分を持たない、ふつうの民に落とすよう言い張ったため東海郡侯に降され、1216年に衛王に戻されて紹と諡された。
史料について
李氏の罪を、后妃伝は完顔匡が定策の功を奪うために仕立てたという説として載せ、完顔匡伝はそう断じる。のちに事跡を編む際、衛王に仕えた賈益謙は、衛王は勤勉で倹約だったと述べ、私の言葉で罪を作るなら命は惜しまないと言った。金史の賛は、内に政が乱れ外に兵が敗れたと評し、殺されて記録が失われたと述べる。
衛紹王とつながる皇帝

勢力図
宋・
1208–1213年の地図に、衛紹王が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・皇后1・改元3・大赦2
- 改元1209年元号を「大安」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1209年改元と同日に大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1209年道陵(章宗陵)の造営完了(礼成)を機に大赦。
- 皇后1209年元妃徒単氏を皇后に冊立。
- 改元1212年元号を「崇慶」とする
- 改元1213年6月元号を「至寧」とする
- 反乱1213年6月咸平路契丹部人の蜂起
- 反乱1213年9月胡沙虎(紇石烈執中)のクーデター・
弑逆
金の歴代皇帝
歴代10人の一覧年表
遼・
金が