衛紹王
金|在位 1208–1213年
- 諱(本名)
- 完顔永済
- 在位
- 1208–1213年
- 在位期間
- 4年257日365名中195位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
章宗に嫡子なく、元妃李氏・宦官李新喜・平章政事完顔匡が定策し衛王を後継に選定、章宗崩御後に柩前で即位。血統上の後継指名というより宮廷有力者による擁立の性格が強い。
出典: 金史 巻十三(衛紹王本紀)
死因の経緯
至寧元年8月、右副元帥胡沙虎(紇石烈執中)がクーデターを起こし宮中に乱入、幽閉ののち宦官李思中に命じて弑殺。史臣論賛「金九主,遇弑者三…衛紹王之弑曰胡沙虎」。
出典: 金史 巻十三(衛紹王本紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
衛紹王は即位当初から皇帝を称しており、王としての在位期間中に別途改元した2段階即位パターンには該当しないため、各eventに【皇帝即位前】等のタグは付していない。総括として本紀の紀年区分に対応する泰和→大安→崇慶→至寧の3回の改元(うち最初の大安改元を即位に伴う建元として含む)をカウントした。
大赦回数
本紀を通読し「大赦」と明記された記事を2件確認。除外した記事:(1)大安二年六月「曲赦西京、太原两路杂犯,死罪减一等,徒以下免」は地域限定の曲赦のため除外。(2)崇慶元年正月己酉朔「改元,赦」は改元と同時の恩赦だが「大赦」ではなく単に「赦」とのみ記載され全国規模と明記されていないため除外(他の2件が明確に「大赦」と書き分けられていることから、本紀の記述は「大赦」と「赦」を区別している可能性が高いと判断)。(3)崇慶元年十月「曲赦西京、辽东、北京」も地域限定の曲赦のため除外。
立后回数
衛紹王在位中の立后は徒単氏の1回のみ。廃后・再冊立の記事は本紀・后妃伝いずれにも見当たらない。
皇太子廃立回数
本紀に立太子の記事はある(大安二年八月乙丑「立子胙王从恪为皇太子」)が、衛紹王在位中に皇太子从恪が廃されたとの記事は見当たらない。至寧元年八月に衛紹王が胡沙虎に弑殺された後、宣宗の即位に伴い「至宁末,胡沙虎杀卫王,从恪兄弟皆废居中都」とあるが、これは衛紹王の崩御後・宣宗朝における処遇変更であり、衛紹王自身による皇太子廃立には当たらないためカウントしない。
親征回数
在位中(大安〜至寧、1209〜1213年)、モンゴル(大元)・西夏の侵攻に対する軍事行動は全て千家奴・胡沙・完顔匡・完顔元奴ら将帥に委任されており、皇帝自身が軍を率いて出征した記述は原文中に一切ない。「上巡撫諸軍」(崇慶元年)は近郊での軍の視察・慰撫にとどまり親征ではない。
反乱鎮圧回数
至寧元年二月「知大名府事烏古論誼謀不軌,伏誅」は実際の兵力行使を伴った形跡が原文になく、密告・摘発のみで終わった謀反計画とみなし対象外(プロンプト規定の除外パターンに合致)。至寧元年五月の咸平路契丹部人の蜂起(下記sufferedに計上)についても原文には「詔諭」(説諭の詔)とあるのみで、鎮圧に成功した記述がなく、衛紹王在位終了(8月の弑殺)まで未解決のまま終わったため鎮圧回数には計上しない(例外パターン(2)未鎮圧のまま在位終了に該当)。モンゴル・西夏との戦争は対外戦争としてルール上そもそも対象外。
被反乱回数
モンゴル(大元)・西夏の侵攻は対等勢力(外国)による対外戦争としてルール上sufferedには含めない。契丹部人の蜂起は服属民の地方反乱として計上したが、原文の記述が「詔諭」のみと簡潔であり規模・経緯の詳細が乏しいためconfidenceはmedium。胡沙虎のクーデター・弑逆はdeathCauseNoteと整合し高確度。
遷都回数
金史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(上京→中都は海陵王期、中都→南京は宣宗期の出来事として各々計上済み。哀宗期の帰徳・蔡州への移動は滅亡直前の戦時避難で恒久的遷都と認められず対象外)。
即位時年齢・没年齢
原文(金史巻十三 衛紹王本紀)に生年・即位時年齢・崩御時年齢の記載なし。「世宗第七子」であることのみ判明し、他兄弟の生年からの逆算材料も原文中に見当たらない。既存のdeathCauseNote/accessionRouteNoteにも年齢情報なし。調査済みだが不明として確定。
在位中の出来事(8件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1209年1月即位に伴う最初の建元。
即位に伴う最初の建元。泰和8年11月の即位後は泰和の元号を年末まで継続使用し、翌年(大安元年)正月壬戌に大安と改元。原文「大安元年正月辛丑…壬戌,改元,大赦」。
出典: 金史 巻十三(衛紹王本紀)
大赦1209年1月大安元年正月壬戌、改元と同日に大赦。
大安元年正月壬戌、改元と同日に大赦。原文「大安元年正月辛丑,飞星如火…壬戌,改元,大赦。立元妃徒单氏为皇后」。
出典: 金史 巻十三(衛紹王本紀)
立后1209年1月元妃徒単氏を皇后に冊立。
元妃徒単氏を皇后に冊立。原文(本紀)「大安元年正月…壬戌,改元,大赦。立元妃徒单氏为皇后」。后妃伝にも「卫绍王后徒单氏,大安元年,立为皇后」と整合する記載あり。至寧元年八月の胡沙虎の変後、宣宗即位に伴い皇后号を削られたが(「徒单氏削皇后号」)、これは衛紹王没後の出来事であり衛紹王在位中の立后回数には影響しない。再冊立の記録はない。
出典: 金史 巻十三(衛紹王本紀)/金史 巻六十四(后妃伝下)
大赦1209年3月大安元年三月甲辰、道陵(章宗陵)の造営完了(礼成)を機に大赦。
大安元年三月甲辰、道陵(章宗陵)の造営完了(礼成)を機に大赦。原文「三月甲辰,道陵礼成,大赦」。
出典: 金史 巻十三(衛紹王本紀)
改元1212年1月大安→崇慶に改元。
大安→崇慶に改元。原文「崇庆元年正月己酉朔,改元,赦」。
出典: 金史 巻十三(衛紹王本紀)
改元1213年5月崇慶→至寧に改元。
崇慶→至寧に改元。原文「至宁元年…五月,改元」。同年八月癸巳(原文年表では8月)に胡沙虎の変により殺害されたため、至寧が衛紹王最後の元号となった。
出典: 金史 巻十三(衛紹王本紀)
被反乱1213年5月咸平路契丹部人の蜂起
首謀者: 不明(原文に指導者名の記載なし。咸平路の契丹部人が「嘯聚」=徒党を組んで蜂起)
結果: 未鎮圧のまま衛紹王の死去(同年8月の弑逆)を迎え、原文上は解決の記述なし
至寧元年五月「詔諭咸平路契丹部人之嘯聚者」。金の版図内(遼東方面)の服属民(契丹人)による地方蜂起であり、同時期のモンゴル対外戦争とは別事象として計上。史実上は耶律留哥の乱として知られるが、本紀原文には固有名の記載がないため指導者は「不明」とした。
被反乱1213年8月胡沙虎(紇石烈執中)のクーデター・弑逆
首謀者: 胡沙虎(紇石烈執中)、右副元帥
結果: 宮中に乱入し衛紹王を幽閉、宦官李思中に命じて弑殺(deathCauseと同一事件)
至寧元年八月、胡沙虎が兵を率いて通玄門・広陽門から宮中に侵入し知大興府徒単南平らを殺害、衛紹王を幽閉の上、後日弑殺した。朝廷内部の権力者による兵力を伴うクーデター・弑逆であり、プロンプト規定の例外パターン(4)によりrebellionSufferedCountに計上(suppressionには計上しない)。既存のdeathCause.noteと同一事件を指す。