漢
梁・簒奪・漢(南北朝)|在位 551–552年

- 諱(本名)
- 侯景
- 在位
- 551–552年
- 在位期間
- 238日365名中314位
- 即位経路
- 禅譲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 3回289名中146位タイ
- 遷都
- 0回
関連動画
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
蕭棟の詔を偽って(矯蕭棟詔)自らへの禅位とした完全な簒奪。南郊で登壇受禅の儀を行い国号「漢」・元号「太始」を建てた。儀式中に剣が落ちる・白虹貫日等の凶兆が記され、正史が暗に不祥・簒奪と位置づけている。
出典: 梁書 侯景伝/南史 侯景伝
死因の経緯
建康陥落後の敗走中、自ら信任し庫真都督に取り立てた側近・羊鵾(羊侃の子)の裏切りにより殺害された。昼寝中に船を京口方面へ誘導され、目覚めて水中へ逃れようとしたところを斬りつけられ、船室に逃げ込んだところを槊で刺殺された。同一政権(漢)内部者による謀殺のため暗殺。
出典: 梁書 列伝第三十三(羊侃子鵾伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
梁書列傳(侯景傳)を通読した限り、太始元年建元(即位に伴う最初の建元)以降、侯景死去(太始二年、0552-05-26頃、羊鯤に殺され建康にて曝屍)までの間に改元の記事は他に見当たらない。
大赦回数
対象は簡文帝弑殺後・侯景が自ら漢帝と称した太始元年(0551-10-01頃)~太始二年(0552-05-26)の期間のみ。この間、原文中に確認できる全国規模の「大赦」は禅位・改元時の1回のみで、以降(太始二年正月朔の臨軒朝会等)に大赦の記載はない。
立后回数
侯景が漢帝を称した太始元年~二年の期間中、皇后を冊立した記事は原文に見当たらない。なお蕭棟即位時に張氏を皇后としたとの記事があるが、これは侯景の傀儡である蕭棟(梁)の治世下の出来事であり、侯景自身の漢帝在位期間には含めていない。
皇太子廃立回数
侯景が漢帝を称した期間中、皇太子を立てた記事も廃した記事も原文に見当たらない(太子太師・太子太保等の官職任命の記事はあるが、皇太子冊立そのものの記事はなく、廃立の対象も存在しない)。
親征回数
巴陵の戦いは侯景が攻撃主体の親征であり、相手(湘東王蕭繹配下の徐文盛・王僧辯)は侯景に服属した臣下ではなく対立する正統側の独立勢力であるため、被反乱には計上していない(親征のみに計上)。
反乱鎮圧回数
劉神茂は侯景配下の司空・東道行台であり、離反・挙兵に対し侯景側が軍を派遣し鎮圧に成功した事例。rebellionSufferedCountと対称に計上。
被反乱回数
巴陵の戦い(551年、侯景自身が攻撃主体の親征で敗走)は、相手が侯景に服属していた臣下ではなく対等な独立勢力(湘東王蕭繹側)であるため、被反乱には計上していない。張彪の挙兵は開始時期が侯景の皇帝僭称(551年11月)よりわずかに前だが、依頼文で指定された551年~552年の活動期間を通じ継続・未解決だったため計上した(confidence medium)。
遷都回数
梁書本紀・南史を通読。建康定都(建国時の定都)から侯景の乱期を含め遷都の記録なし(承聖元年の江陵遷都は元帝の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
梁書列伝第五十(侯景伝)の該当キャッシュ(_corpus_cache/liang-houjing.txt、即位前の経歴記事から羊鯤に殺害され曝屍されるまで)を通読したが、侯景本人の生年・即位時年齢・没年齢に関する直接記載(「時年」「享年」「年◯◯」等)は見当たらなかった。人物描写として「景長不満七尺、而眉目疏秀」等の記事はあるが年齢情報ではない。既存のdeathCause.note/accessionRoute.note/reigns[].noteにも年齢記載はなく、逆算に足る年号年ラベルの直接記載も存在しないためaccessionAge/deathAgeともnullとした。deathDateのみ既存reigns[0].endDate(0552-05-26、南史・zh版インフォボックス由来)を再利用した。調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。
在位中の出来事(7件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱550年12月張彪の会稽挙兵
首謀者: 張彪
結果: 田迁らが551年正月に張彪の別働隊を一時撃破したが、張彪はその後も諸曁・永興・永嘉等を攻略して勢力を拡大し、本伝には以後の鎮圧記述がないまま侯景敗死(552年4月)に至った。未鎮圧のまま終わった
梁書列伝第五十(侯景伝)に「是月(大宝元年十二月)、張彪起義於會稽、攻破上虞、景太守蔡台樂討之、不能禁。至是、彪又破諸曁、永興等諸縣、景遣儀同田遷、趙伯超、謝答仁等東伐彪」「(大宝)二年正月、彪遣別將寇錢塘、富春、田遷進軍與戰、破之」「(天正元年十月頃)張彪攻永嘉、永嘉太守秦遠降彪」とあり、以後張彪に関する記述は本伝中に現れない。侯景の支配地域(会稽方面)の郡県官による離反・蜂起にあたる。挙兵開始(550年12月)は依頼文が定める侯景の皇帝僭称(551年11月頃)より前だが、反乱自体は551年を通じて継続し侯景敗死(552年4月)まで未解決だったため、活動期間中の被反乱として計上した(未鎮圧のまま在位終了=基準の例外2に該当。鎮圧回数には含めない)。
親征551年3月〜551年5月荆州刺史湘东王萧绎(後の梁元帝)配下の徐文盛・王僧辯の軍(巴陵の戦い)
対象: 荆州刺史湘东王萧绎(後の梁元帝)配下の徐文盛・王僧辯の軍(巴陵の戦い)
結果: 西陽で徐文盛を破るも、巴陵で王僧辯の防衛と疫病により大敗し、任約も陸法和に捕らえられたため夜間に撤退した(敗北)
梁書列伝第五十(侯景伝)に「三月、景自率衆二萬、西上援約。四月、景次西陽、徐文盛率水軍邀戦、大破之」「(巴陵で)景設長圍、築土山、晝夜攻擊、不克。軍中疾疫、死傷太半」「(任約が)大破之、生擒約。景聞之、夜遁」とあり、侯景自身が率いた親征と明記される。撤退の正確な月日は本文に明記されないため終了日は概算(簡文帝廃立=8月以前と推定)。
反乱鎮圧551年10月〜552年1月劉神茂(東道行台)の離反
首謀者: 劉神茂
結果: 侯景側の討伐(謝答仁らが指揮)により鎮圧に成功。配下の元頵・李占は捕らえられ手足を切られ処刑され、劉神茂本人も配下とともに謝答仁に降伏した
梁書列伝第五十(侯景伝)に「是月(天正元年十月)、景司空東道行台劉神茂、儀同尹思合、劉歸義、王曄、雲麾將軍桑乾王元頵等據東陽歸順」「十一月、景以趙伯超為東道行臺、鎮錢塘、遣儀同田遷、謝答仁等將兵東征神茂」「十二月、謝答仁、李慶等至建德、攻元頵、李占柵、大破之、執頵、占送景。景截其手足徇之」「景二年正月朔…時謝答仁攻劉神茂、神茂別將王華、麗通並據外營降答仁。劉歸義、尹思合等懼、各棄城走。神茂孤危、復降答仁」とあり、侯景配下の高官(司空・東道行台)が離反して東陽で挙兵し、侯景側の討伐によって鎮圧・降伏に追い込まれた。
被反乱551年10月〜552年1月劉神茂(東道行台)の離反
首謀者: 劉神茂
結果: 侯景側の討伐(謝答仁ら)により鎮圧に成功し、劉神茂は降伏した
rebellionSuppressionCountと同一事件。侯景配下の高官による離反・挙兵であり、集計単位(首謀者単位)が鎮圧側・被害側で一致するため対称に計上。
被反乱551年11月〜552年4月王僧辯・陳霸先による討伐(侯景政権の最終崩壊)
首謀者: 王僧辯・陳霸先(湘東王蕭繹=後の梁元帝の命による討伐軍)
結果: 侯景軍は石頭城で大敗し、侯景は建康を放棄して逃亡、沪瀆から海に出て壺豆洲で部下の羊鯤に殺害され、首級は建康にさらされた。侯景の「漢」政権は崩壊した
梁書列伝第五十(侯景伝)に「王僧辯進軍、次張公洲…景大恐、自率侯子鑑…於石頭東北立柵拒守…僧辯率衆軍奮擊、大破之、侯子鑑、史安和、王僧貴各棄柵走、盧暉略、紇奚斤並以城降」「景既退敗…與其儀同田遷、范希榮等百餘騎東奔」「王僧辯遣侯瑱率軍追景…景與腹心數十人單舸走、推墮二子於水、自滬瀆入海。至壺豆洲、前太子舍人羊鯤殺之、送尸於王僧辯、傳首西臺」とある。侯景は対立政権(国号「漢」)の首謀者自身にあたるため、正統側(湘東王蕭繹配下の王僧辯・陳霸先)による鎮圧・敗死は被反乱にのみ計上し、鎮圧回数には計上しない(依頼文のルールに基づく)。開始日(551年11月頃、王僧辯・陳霸先が白茅洲で会盟し進軍開始)は列伝第三十九(王僧辯伝)の記述順からの推定で、正確な月日は本文に明記されていない。
改元日付不詳侯景は蕭棟に禅位を強要し自ら即位、南郊にて受禅の儀を行い、太極前殿に昇って「大赦」するとともに「改元して太始元年と為す」。
侯景は蕭棟に禅位を強要し自ら即位、南郊にて受禅の儀を行い、太極前殿に昇って「大赦」するとともに「改元して太始元年と為す」。これが侯景が漢帝を称してから死去(太始二年)までの間で確認できる唯一の建元・改元であり、即位に伴う最初の建元として1回に計上した。日付は「十一月」の範囲内としか原文に明記されず、具体的な日は不明。
出典: 梁書 列傳第五十 侯景
大赦日付不詳萬景(侯景)が蕭棟を廃して自ら受禅し漢帝を称した直後、太極前殿にて「大赦」を実施。
萬景(侯景)が蕭棟を廃して自ら受禅し漢帝を称した直後、太極前殿にて「大赦」を実施。改元(太始元年)と同時の記事。日付は「十一月」の範囲内としか原文に明記されず、具体的な日は不明。
出典: 梁書 列傳第五十 侯景