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侯景の肖像画

漢・侯漢(南北朝)第1代

侯景

在位 551–552年(146日)552年1月1日 〜 552年5月26日 ( 551年11月19日から)

日本は古墳時代

東魏から梁に降った侯景は、548年に反乱を起こして翌年に梁の都を落とし、551年に帝位を奪ったが、翌年に殺された。

侯景の人物データ

生年
不詳
在位
  • 552年1月1日〜552年5月26日 551年11月19日から
146日長い順同率329位/365人即位の年齢は不詳
没年
552年5月26日年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
(易姓)
先代
  • 廃帝梁・南北朝侯景と廃帝に血縁はない
次代
—
呼び名
姓侯諱景字万景幼名狗子呼び名の見方

出典

在位
資治通鑑 巻一百六十四(太宗簡文皇帝下 大宝二年・承聖元年)/梁書 巻四 簡文帝紀/南史 巻八 梁本紀下
死因
梁書 列伝第三十三(羊侃子鵾伝)
即位経路
梁書 侯景伝/南史 侯景伝

生涯

どんな皇帝か

梁書のは小者と呼び、その害は王莽・董卓らよりひどいと評する。

即位まで

勇猛で、残忍だが統率は厳しく、奪った財宝は将兵に分けた。東魏の高歓が重い病に伏すと、書状で召された侯景は禍を恐れ、547年に梁へ降った。梁の武帝は反対を退けて受け入れ、河南王に封じた。王氏・謝氏との縁組を武帝に断られ、呉の者の娘を奴隷に配してやると怒った。548年、梁が東魏と和すと聞いて恐れ、朝廷を恨む蕭正徳と結んで挙兵し、これを帝に立てた。549年に台城を落として武帝に拝謁したが、問われても答えられず、退出後に今日は身がすくんだと言った。

史料について

騎射を、梁書は得意としたとし、南史は右足が短く弓馬は不得手で知略で事をなしたとする。召した書状を、南史と資治通鑑は高澄の偽りとする。縁組の話は梁書に無い。

治世と最期

武帝が憂憤のうちに没すると簡文帝を立てたが、551年に巴陵で敗れると、王偉の言に従って簡文帝を廃して蕭棟を立て、まもなく簡文帝を殺させた。同じ年、蕭棟に位を譲らせて即位し、太始とした。

を立てようと祖先の名を問われ、父の名しか覚えていないと答えて、ひそかに笑われた。疑い深く残忍で、処刑する者の手足を先に斬ることもあった。即位後は王偉に出歩くのを許されず、鬱々とした。552年、自ら水戦を命じた侯子鑑が王僧弁に大敗すると、布団をかぶって寝込み、誤ってこのおれを殺したと嘆いた。

王偉に諫められると、天が自分を滅ぼすのかもしれない、城を守れ、もう一度決戦すると言い、ためらった末に二人の子を連れて東へ逃れた。松江で敗れて海へ出る途中で子を水に突き落とし、船を京口へ向けさせた羊鵾に殺された。

史料について

の発端を、資治通鑑は、溧陽公主の讒言を恐れた王偉が簡文帝を除くよう説いたことに置く。

侯景とつながる皇帝

南北朝の勢力図(551年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

551年の地図に、侯景が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱3・改元1・大赦1
  1. 反乱551年張彪の会稽挙兵
  2. 反乱551年11月〜552年2月劉神茂(東道行台)の離反
  3. 反乱551年11月〜552年5月王僧辯・陳霸先による討伐(侯景政権の最終崩壊)
  4. 改元552年1月1日( 551年11月19日)元号を「太始」とする
  5. 552年1月1日( 551年11月19日)

年表

南北朝の時代を年表で見る

漢・侯漢が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「受禅(易姓)」の18名をデータベースで見る

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