侯景政権・正平
梁・南北朝|在位 548–549年
- 諱(本名)
- 蕭正徳
- 在位
- 548–549年
- 在位期間
- 226日365名中316位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
侯景に内応し渡江を支援、台城陥落後に「景推正德為天子,改年為正平元年」(梁書卷55)で即位。反乱軍首魁・侯景の実力による一方的擁立。
出典: 梁書/卷55 臨賀王正德傳;南史/卷80 賊臣傳補記: 梁書卷55
死因の経緯
台城陥落後に大司馬へ降格、侯景の裏切りを怨み挙兵を企てたが密書が侯景に押収され「景遮得其書,癸丑,縊殺正德」(資治通鑑卷162)で絞殺された。擁立した侯景政権内部での粛清のため暗殺に分類。
出典: 資治通鑑 卷162 梁紀十八;梁書/卷55 臨賀王正德傳補記: 資治通鑑を第一根拠
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
台城陥落後(太清三年三月)、侯景が「復太清之號,降正德為大司馬」(梁書卷五十五臨賀王正德傳)としており、これは正德自身が主導した改元ではなく、武帝(太清)権威の回復・正德の廃位に伴うものであるため、正德の在位中の改元としてはカウントしなかった(固有注意事項『武帝在位中の出来事』に対応)。
大赦回数
台城陥落時(太清三年三月)に侯景が『矫诏大赦天下』(梁書卷五十六侯景傳)『矫诏大赦』(南史卷八十)を発したが、南史の記述順(帝=武帝が景と対面し実権回復→矫诏大赦→矫诏征鎮牧守各復本位→正德を侍中・大司馬に降格)から、この赦令は武帝(太清)権威回復後に発せられたものと判断し、正德の在位(太清二年十一月〜三年三月の擬帝期間)には帰属させなかった。正德自身が『皇帝』として大赦を発した記録は原典に見当たらない。
立后回数
原典に正德在位中の皇后冊立の記載はなし。『正德以女妻之』(自身の娘を侯景に嫁がせた)という記述はあるが、これは立后とは無関係。
皇太子廃立回数
南史卷八十に「正德乃以長子見理為太子」とあり、正德は在位中に長子見理を皇太子に立てたが、これを廃した記載は原典になし(正德は太清三年三月に大司馬へ降格・六月に誅殺され在位を終えており、見理はその後も東府城守備等で活動)。立太子自体は本項目のカウント対象外。
親征回数
梁書列伝・本紀に明記された、正徳自身の軍勢を率いての帝位簒奪行動を1回とした。
反乱鎮圧回数
正徳は侯景の傀儡皇帝であり、在位期間(548年11月即位〜549年3月台城陥落による廃位)を通じて実際の軍事的実権は侯景側にあった。正徳自身(またはその政権)が主体となって反乱を鎮圧した記録は梁書列伝・本紀のいずれにも見当たらない。該当記事なし。
被反乱回数
台城陥落による廃位から永福省での殺害までを、侯景による一連の政変(例外4)として1件に計上した。
遷都回数
梁書本紀・南史を通読。建康定都(建国時の定都)から侯景の乱期を含め遷都の記録なし(承聖元年の江陵遷都は元帝の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
調査したが原典(梁書卷55臨賀王正德傳、南史卷80賊臣傳)に生年月日・享年(「時年」「享年」等)の直接記載が見当たらなかった。父は臨川靖惠王蕭宏(梁武帝の弟)で「第三子」と記されるのみで生年不詳。既存レコードのreignData(在位548年11月〜549年6月、太清二年〜三年)・deathCause・accessionRoute等のnoteにも年齢記載は含まれない。_corpus_cache/liang-xiaozhengde.txt(梁書卷55該当箇所全文キャッシュ済み)を確認したが同様に年齢記載なし。侯景の傀儡皇帝として短期間で殺害された人物であり、生年不明は五胡十六国・南北朝の類例と同様の妥当な調査結果と判断。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征548年10月〜548年11月建康台城(自らの帝位簒奪のため侯景軍と合流・進軍)
対象: 建康台城(自らの帝位簒奪のため侯景軍と合流・進軍)
結果: 侯景に擁立され仪贤堂で即位、年号を「正平」と改元
梁書 列伝第四十九 臨賀王正德傳: 太清二年、侯景の誘いに応じ、先んじて大船数十艘を用意し「載荻」と偽って侯景軍を長江対岸へ渡す手引きをした(正德先遣大船数十艘、伪称载荻、实装济景)。梁書本紀(巻3)にも「戊申、以新除光禄大夫临贺王正德为平北将军、都督京师诸军、屯丹阳郡…辛亥、景师至京、临贺王正德率众附贼」とあり、十月に丹阳郡で自ら率いた部隊を率いて侯景軍に合流したことが確認できる(列伝も「萧正德先屯丹阳郡、至是、率所部与景合」と同内容)。十一月、侯景により仪贤堂で皇帝に擁立され、年号を「正平」と改元した(景立萧正德为帝、即伪位于仪贤堂、改年曰正平)。自身の兵を率いて侯景に合流し、自らの帝位簒奪という軍事行動の目的を達成した一連の行動として1回に計上した。
被反乱549年3月〜549年6月侯景による正徳政権の廃位・粛清
首謀者: 侯景
結果: 太清三年三月の台城陥落後、侯景の矫诏により侍中・大司馬に格下げされ帝位を追われた。その後正徳が怨言を漏らしたことを侯景が知り、謀反を恐れて六月に永福省で殺害した。
梁書 列伝第四十九 臨賀王正德傳: 「台城没、复太清之号、降正德为大司马。正德有怨言、景闻之、虑其为变、矫诏杀之」。梁書 列伝第五十 侯景傳: 「景矫诏曰:日者、奸臣擅命…征镇牧守可各复本任。降萧正德为侍中、大司马、百官皆复其职」(台城陥落直後、太清三年三月)、および「至是、景杀萧正德于永福省」(太清三年六月、高祖崩御・簡文帝即位後の記事に続く)。正徳は自ら兵権を持たない状態で、権臣(実質的な軍事的実権者)侯景の兵力を背景にした矫诏によって廃位され、後日殺害された。設問文で例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当するとの指示があり、これに従い被反乱1件として計上。廃位(549年3月)と殺害(549年6月)は同一の政変(侯景による正徳排除)の一連の帰結とみなし、1件として集計した(廃位時点で正徳側の武力抵抗や独立した挙兵は記録されていないため、鎮圧回数には計上しない)。
改元日付不詳太清二年十一月、侯景が儀賢堂で蕭正德を帝位に就け、「改年曰正平」(梁書卷五十六侯景傳)。
太清二年十一月、侯景が儀賢堂で蕭正德を帝位に就け、「改年曰正平」(梁書卷五十六侯景傳)。南史では「十一月戊午朔…己未,景立蕭正德為天子於南闕前…改元正平」(南史卷八十)とあり、十一月戊午朔の翌日(己未)の擁立に伴う建元。即位に伴う最初の改元として1回とカウント。
出典: 梁書/卷56 侯景傳;南史/卷80 賊臣傳