蕭正徳の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 548年12月〜549年4月27日
- 没年
- 549年8月8日年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓蕭諱正徳字公和別称臨賀王呼び名の見方
出典
- 在位
- 梁書 巻五十六 侯景伝/資治通鑑 巻百六十一・
百六十二 - 死因
- 資治通鑑 卷162 梁紀十八;梁書/卷55 臨賀王正德傳
- 即位経路
- 梁書/卷55 臨賀王正德傳;南史/卷80 賊臣傳
生涯
どんな皇帝か
梁書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は悖逆猖狂と評し、南史の論は、賊の踏み台となって国を敗り身を滅ぼしたと嘆く。
即位まで
臨川王蕭宏の第3子で、まだ男子の無かった武帝の養子となった。昭明太子が皇太子に立てられると、恨みを抱いて謀反の心を持った。北魏へ逃げて廃された太子と名乗ったが冷遇され、梁へ逃げ帰ると、武帝は泣いて教えさとし、封爵を戻した。帰国後も略奪をやめず、弟の蕭正則らと合わせて民を害する四凶に数えられた。525年には北伐の軍を勝手に捨て、官爵官職と爵位を奪われて臨海郡へ流されたが、着く前に赦された。532年に朱異の口添えで臨賀郡王に封じられたが、任地を荒らし、恨みを募らせて死士を養った。侯景から、本来皇太子となるべき大王が廃されたと誘われると、天の助けと喜んだ。548年、侯景が長江に来ると、荻を迎えると偽った空の船で侯景軍を渡した。宮城に向かって三度拝し、すすり泣いて賊を宣陽門に引き入れた。
史料について
出奔を、梁書の本伝は525年の任官の後に置き、南史と資治通鑑は522年の任官の後に置く。四凶の話は南史の列伝にあり、梁書と資治通鑑には見えない。
治世と最期
侯景に皇帝に立てられて正平と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることし、娘を侯景に嫁がせた。宮城を落とした日には武帝と皇太子を生かしておかないと侯景と約したが、宮城が開くと侯景の手勢に門を固められて入れなかった。
549年、侯景は年号を戻して蕭正徳を大司馬軍事をつかさどる、最高位の大臣の一つに降した。蕭正徳が泣いて武帝に拝謁すると、武帝は泣いても嘆いても及ばないと言った。同じ年、侯景に殺された。
史料について
侯景の官を、蕭正徳の伝と資治通鑑は丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職とし、梁書の侯景伝は自ら相国臣下として政治を取りまとめる最高の位になったとする。即位の場所を、梁書の侯景伝と資治通鑑は儀賢堂、南史の武帝紀は南闕の前とする。殺された理由を、梁書の本伝は恨み言のためとし、南史の列伝と資治通鑑は、鄱陽王蕭範に兵を率いて入るよう求めた密書を押さえられたためとする。
蕭正徳とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・親征1・改元1
- 改元548年12月元号を「正平」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。548年12月建康台城(自らの帝位簒奪のため侯景軍と合流・
進軍) - 反乱549年4月〜549年7月侯景による正徳政権の廃位・
粛清
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