中国皇帝統計

益州政権・天正

梁・南北朝|在位 552–553年

諱(本名)
蕭紀
在位
552–553年
在位期間
1年96日365名中284位
即位経路
簒奪
死因
処刑
即位時年齢
不詳
没年齢
46歳(数え年)269名中・長寿順99位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

「高祖崩後,紀乃僭號於蜀,改年曰天正」(梁書卷55)。武帝崩御後、兄・蕭繹(後の元帝)と対立する形で益州で自立・即位。史書が「僭號」「僭位」と否定的に記すため簒奪に分類。

出典: 梁書 卷55/南史 卷八 梁本紀下補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

益州で挙兵し江陵の元帝と対立、敗走後に捕縛。「將軍樊猛獲紀及其第三子圓滿,俱殺之於硤口」(梁書卷55)。『資治通鑑』卷165は元帝の密勅を受け樊猛が黄金による助命嘆願を拒絶し斬殺したと記す。捕獲後の勝者(実兄・元帝)の密命による処断のため処刑に分類。

出典: 梁書 卷55 列傳49/資治通鑑 卷165 梁紀21補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

梁書・南史とも蕭紀(武陵王紀)の即位=建元は「天正」の一回のみで、以後の改元記事はない。

大赦回数

梁書卷五十五列傳第四十九(豫章王綜 武陵王紀 臨賀王正德 河東王譽)の蕭紀(武陵王紀)伝、および南史卷五十三列傳第四十三(梁武帝諸子)の並行記事を通読したが、「大赦」またはそれに類する語は見当たらなかった。天正政権(益州)に関する記事はごく簡略であり、記載漏れの可能性を排除できないためconfidenceはmediumとする。

立后回数

梁書・南史の蕭紀(武陵王紀)伝ともに皇太子冊立(圓照)の記事はあるが、皇后(正妃)を皇后として冊立したとする記事は見当たらない。天正政権の記録がごく簡略なため記載漏れの可能性を考慮しmediumとする。

皇太子廃立回数

紀は天正元年(即位時)に子の圓照を皇太子に立てた(「立子圓照為皇太子」)が、在位中にこれを廃した記事はない。圓照は紀の敗死(承聖二年/太清六年頃)後に捕らえられ、その後元帝方で弟の圓正との軋轢の末に獄死しているが、これは紀自身による廃立ではなく紀の死後の出来事であるため該当しない。

親征回数

梁書本紀(元帝紀)・梁書卷55武陵王紀伝・南史卷53いずれも蕭紀本人が終始軍を率いて東下・西陵進駐・攻城戦を行ったと明記しており、皇帝本人出陣の要件を満たす。

反乱鎮圧回数

梁書卷55武陵王紀伝・南史卷53(武陵王紀伝)を通読したが、天正政権(成都、552年4月~553年8月の約1年4ヶ月)の統治下で蕭紀自身が武力鎮圧に動いた反乱・蜂起の記事は見当たらない。関連する事象は以下の通りいずれも該当しない:(1)司馬王僧略・直兵參軍徐怦が即位に固諫し「貳於己」とみなされ誅殺された件は、両名の武装蜂起を伴わない諫言に対する粛清であり反乱ではない。(2)潼州刺史楊乾運・沙州刺史楊法深が不満から西魏に密使を送り開城・投降した件は、蕭紀に対する武装反乱ではなく西魏(対等な独立政権)への寝返り・投降であり、蕭紀側はこれを鎮圧できず成都陥落に直結した(鎮圧の主体になり得ていない)。よって該当記事なしと判定。

被反乱回数

西魏の成都侵攻(尉遲迥)は対等勢力間の対外戦争として除外し、元帝側による東下軍鎮圧・蕭紀討死のみを被反乱1件として計上した。

遷都回数

武陵王蕭紀。益州(成都)を拠点とした対立皇帝で、承聖元年に成都で即位。建康・江陵への遷都に該当する記録はない。

即位時年齢・没年齢

没年齢46歳は梁書に「時年四十六」と直接記載。生年・崩御日・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(3件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元552年5月16日益州刺史・太尉武陵王紀が蜀にて帝を自称し、建元して天正元年とした(即位に伴う最初かつ唯一の建元)。

益州刺史・太尉武陵王紀が蜀にて帝を自称し、建元して天正元年とした(即位に伴う最初かつ唯一の建元)。梁書は元帝紀部分で「四月乙巳,益州刺史、新除假黃鉞、太尉武陵王紀竊位於蜀,改號天正元年」と記し、これは直前の「大寶三年,世祖猶稱太清六年」の記述から太清六年(552年)四月の出来事と特定できる。南史(武陵王紀伝)も「紀乃僭號於蜀,改年曰天正」と記す。在位終了(承聖二年/553年、峽口での敗死)までの間に追加の改元は確認されない。

出典: 梁书卷五十五列传第四十九(武陵王纪)/南史卷五十三列传第四十三(梁武帝诸子)

親征552年8月〜553年8月元帝蕭繹(江陵政権)

対象: 元帝蕭繹(江陵政権)

結果: 敗死。西陵まで進出し陸法和の峽口二城(七勝城)と対峙・攻城したが、糧道尽き軍が崩壊、峽口にて元帝方の将・樊猛に討たれた(第三子圓満も同時に殺害)。

承聖元年(太清六年/552年)四月乙巳、成都で皇帝を自称し建元「天正」(既存データのeraChangeCountで0552-05-16と確定済み)。梁書本紀(元帝紀、卷五)は続けて「八月、蕭紀率巴・蜀大衆連舟東下」と記し、蕭紀自身が巴蜀の大軍を率いて長江を東下したことを明記する。以後も「丁丑、紀次於西陵」「六月、紀筑連城、攻絕鐵鏁」(梁書卷55武陵王紀伝)、南史も「五月己巳、紀次西陵、軍容甚盛」「紀之將發也…及登舟」等、蕭紀本人が終始軍中にあったことを示す記述が一貫する。目的地は表向き「以討侯景為名」だが実際は「將圖荆陝」=兄元帝の江陵政権打倒であり、552年8月の東下開始から553年7月(グレゴリオ暦8月20日、既存deathCauseの記載と同一日)の敗死まで、同一目標(元帝打倒・自らの帝位確立)に向けた一連の軍事行動として1回とカウントした。西魏の益州(成都)侵攻・尉遲迥による成都攻略は蕭紀本人が率いた東下作戦とは別主体(西魏軍)による背後急襲であり、蕭紀自身の親征行動そのものには含めない。

被反乱552年8月〜553年8月蕭紀(武陵王紀)挙兵に対する元帝側の鎮圧

首謀者: 元帝蕭繹方の諸将(護軍將軍陸法和・司徒王僧辯・晉安王司馬任約・步兵校尉謝答仁ら)、最終的に討ち取ったのは遊擊將軍樊猛

結果: 敗死。峽口にて樊猛に討たれ(第三子圓滿も同時死亡)、両岸十余城も元帝側に降伏。政権消滅。

本件は正統側(元帝)から見れば『対立政権の首謀者・蕭紀を鎮圧した』事象であり、ユーザー指定ルールに従い、蕭紀自身の記録では鎮圧回数ではなく被反乱回数に計上する(自らは鎮圧する側ではないため)。梁書元帝紀は蕭紀の東下開始(552年8月)に対応して元帝が「遣護軍陸法和屯巴峽以拒之」と即座に防衛体制を敷いたと記し、以後任約・謝答仁の派遣、陸法和による峽口二城(七勝城)築城、王琳合流等を経て553年7月(8月20日)に樊猛が蕭紀を討ち取るまで一連の軍事行動として1件とカウントした。なお同時期に西魏(尉遲迥)が蜀(成都)の背後を衝いて侵攻した件は、西魏が蕭紀(梁)に服属していない対等な独立政権であるため『反乱』には該当せず、対外戦争として本カウントから除外した(西魏軍は蕭紀を直接討ってもいない)。confidenceはmediumとする:このケースは通常の『皇帝が反乱に遭う』構図と逆(本人が僭称者側)であり、集計方針の適用がやや特殊なため。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。