蕭紀の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 552年5月16日〜553年8月5日
- 没年
- 553年8月5日46歳(数え年)長生き順同率99位/266人
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓蕭諱紀字世詢別称武陵王呼び名の見方
出典
- 在位
- 梁書 本紀第五 元帝紀(世祖孝元皇帝紀、承聖元年~二年条)/照合資料: 梁書 列傳第四十九 武陵王紀傳(卷五十五)、資治通鑑 卷一六五 梁紀十一
- 死因
- 梁書 卷55 列傳49/資治通鑑 卷165 梁紀21
- 即位経路
- 梁書 卷55/南史 卷八 梁本紀下
生涯
どんな皇帝か
梁書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、勤王君主のために兵を出して助けることせず乱の平定後に兵を起こしたと責め、南史の論は、才が軽く志が大きかったと評する。
即位まで
武帝の第8子で、若いころ学問に励み、文章は華美を好まず骨気があった。寛和で、武帝に特に愛された。537年に益州へ任じられて固辞すると、武帝は天下はまもなく乱れるが益州だけは免れうると諭し、蕭紀はすすり泣いて退出してはまた戻った。侯景の乱では救援に赴かなかった。台城の陥落を聞くと、兄の湘東王蕭繹は文士だ、どうして乱を正せようかと言った。寝殿の柱に花が生じたのを自分の瑞祥良いことが起こる前ぶれとされたしるしとし、552年に蜀で帝位に即き、天正と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
史料について
救援を、梁書は赴かなかったとし、南史は子の円照に兵三万を付けて送ったが白帝に留められ、自ら発とうとしても書で止められたとする。柱の花を、梁書は凶兆とする。南史は即位を前年とする。
治世と最期
子の円照を皇太子に立て、諫めた王僧略・徐怦を殺した。同じ年、大軍で長江を東へ下った。円照の偽りの報告を信じて急いだが、侯景の平定を知って悔い、帝を称した以上は人の下に立てないと進んだ。翌年、留守の蜀には西魏が迫った。
蜀へ帰るよう許す元帝の書にも従わず、形勢が悪くなって和を求めると拒まれた。黄金を餅にして戦うたびに将士に見せたが賞とせず、勇士を募るよう請うた陳知祖の言も聴かず、人心は離れた。
553年、軍は大潰し、蕭紀は樊猛に捕らえられた。兄に一目会わせてくれと金を投げて頼んだが拒まれ、生かして還せば功としないという元帝の密命のもと、子の円満とともに殺された。死後、有司その仕事を受け持つ役人の奏請を元帝が許し、属籍皇族の一員として載る名簿を絶って饕餮氏の姓を与えた。
史料について
挙兵をすべて円照の謀とするのは、南史の円照伝と資治通鑑である。元帝の密命は南史と資治通鑑にあり、梁書には無い。金の場面との順序は両書で逆になる。
蕭紀とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・親征1・改元1
- 改元552年5月16日元号を「天正」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。552年9月〜553年8月元帝蕭繹(江陵政権)
- 反乱552年9月〜553年8月蕭紀(武陵王紀)挙兵に対する元帝側の鎮圧
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