簡文帝
梁・南北朝|在位 549–551年
- 諱(本名)
- 蕭綱
- 廟号
- 太宗
- 在位
- 549–551年
- 在位期間
- 2年87日365名中253位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 49歳(数え年)269名中・長寿順88位
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:簡文帝
即位の経緯
「太清三年五月丙辰,高祖崩。辛巳,卽皇帝位」。矯詔等の記述はなく形式上は正式な皇太子継承。即位時点で建康は既に侯景の軍事支配下にあり実質は侯景容認下の即位だった可能性が高いが、原文に矯詔の記述がないため世襲を採用(蕭棟のケースとは扱いが異なる)。
出典: 梁書 本紀第四補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
廃位・幽閉後、大寶二年(551年)十月、侯景配下の王偉・彭儁・王修纂が土嚢で窒息死させた。「王偉、彭儁進土囊,王修纂坐其上,於是太宗崩於永福省」(梁書本紀第四)。形式上梁の臣下である侯景配下による同一政権内部の謀殺のため暗殺に分類。
出典: 梁書 本紀第四補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位日(太清三年五月辛巳)そのものには改元の詔はなく、先帝の太清年号が継続使用された。大宝二年八月戊午、簡文帝廃位後に侯景が矯詔で豫章王蕭棟へ禅譲させた際の『大赦改年』は、蕭棟の治世の開始行為であり、簡文帝の在位中の改元としては計上しない。
大赦回数
太清三年五月壬午の詔『諸州見在北人為奴婢者、並及妻児、悉可原放』は北人出身の奴婢とその妻子に限定した解放措置であり、全国規模の大赦(大赦天下)とは明記されていないため計上しない。大宝二年八月戊午、侯景が簡文帝を晋安王に廃し幽閉した後、『矯為太宗詔、禅於豫章嗣王棟、大赦改年』と、簡文帝の詔を偽って豫章王蕭棟への禅譲・大赦・改元を行っているが、この時点で簡文帝は既に皇帝の地位を廃されており(『廃太宗為晋安王』)、この大赦は蕭棟の治世の開始行為に当たるため、後継者(蕭棟)側に帰属させ、簡文帝の在位中の大赦としては計上しない。固有の注意事項(侯景による大赦が簡文帝名義で行われた場合は簡文帝側に計上)は、上記2件(簡文帝がなお皇帝の地位にあった間に、侯景の傀儡として簡文帝の名で発布された大赦)に適用済み。
立后回数
太清三年五月癸未、『追謚妃王氏為簡皇后』とあるが、これは妃王氏の没後の追謚(追封)であり、在位中に生前の皇后として正式に冊立した記事ではないため計上しない。本紀を通読した限り、簡文帝在位中に皇后を冊立した記事は見当たらず、皇后は不在であったと判断する。
皇太子廃立回数
太清三年六月丁亥、宣城王蕭大器を皇太子に立てた(立太子であり計上対象外)。大宝二年八月戊午、侯景が『害皇太子大器』と皇太子大器を殺害しているが、これは廃黜(廃立)ではなく殺害であるため、皇太子廃立としては計上しない。同日、簡文帝自身も『廃太宗為晋安王』と皇帝から晋安王へ降封されているが、これは皇太子ではなく皇帝本人(簡文帝自身)の廃位であり、本項目(皇太子廃立)の対象外。本紀を通読した限り、皇太子の廃立(皇太子の地位のみを剥奪して他の者を存命のまま代えるような記事)は見当たらない。
親征回数
梁書卷四(簡文帝紀)を通読したが、在位期間(太清三年五月〜大宝二年十月)中に簡文帝自身が「帝自将」「親征」等の形で出陣した記述は皆無。侯景に擁立された傀儡皇帝として終始建康城内に幽閉・監視されており、軍事行動を主導し得る立場になかった。なお即位前(雍州刺史時代)に『在襄阳拜表北伐,遣長史柳津・司馬董当門…等衆軍進討』とあるが、これは将軍への派遣であり本人不出陣かつ在位前の出来事のため対象外。
反乱鎮圧回数
該当記事なし。簡文帝の在位期間は即位当初から侯景に完全に掌握された傀儡期間であり、簡文帝側(朝廷)が主体となって反乱を鎮圧した事実は本紀に見出せない。在位中に見える軍事的動きはいずれも(1)湘東王繹配下の王僧辯・胡僧祐・陸法和ら(簡文帝の指揮系統下ではなく独自に侯景打倒を進めた勢力)による対侯景戦、(2)祖皓の広陵挙兵など侯景の傀儡官(董紹先ら)に対する義軍蜂起、であり、いずれも簡文帝自身の朝廷が鎮圧主体となったものではないため計上しなかった。また太清三年七月の『広州刺史元景仲謀応侯景,西江督護陳霸先起兵攻之,景仲自殺』は、元景仲が実際に挙兵する前に陳霸先が先制して攻撃し自殺に追い込んだ記述であり、景仲側の武力蜂起の事実が確認できないため『未然に発覚した謀反計画(または例外3の先制攻撃)』として鎮圧・被反乱いずれからも除外した(この一件のみ判断に幅があるためconfidenceをmediumとした)。
被反乱回数
上記1件のみ計上。侯景配下の任約・宋子仙らによる江州・郢州侵攻や、湘東王繹配下の王僧辯らとの攻防は、簡文帝自身の朝廷に対する新たな反乱ではなく侯景の乱の継続的展開(対侯景の内戦)であり、簡文帝個人が被害主体として明示されるのは最終的な廃位・弑逆事件のみと判断した。
遷都回数
梁書本紀・南史を通読。建康定都(建国時の定都)から侯景の乱期を含め遷都の記録なし(承聖元年の江陵遷都は元帝の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
生年月日(天監二年十月丁未=503年12月2日)・没年齢49歳(「時年四十九」)はいずれも直接記載。即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦549年7月7日太清三年五月丙辰、高祖(武帝)崩御。
太清三年五月丙辰、高祖(武帝)崩御。辛巳、簡文帝即位。同日の詔に『猥以寡徳、越居民上、茕茕在疚、罔知所托、方頼籓輔、社稷用安。謹遵先旨、顧命遺沢、宜加億兆。可大赦天下。』とあり、即位に伴う全国規模の大赦。
出典: 梁書本紀第四
改元550年2月2日大宝元年正月辛亥朔、詔曰:『…履端建号、仰惟旧章。
大宝元年正月辛亥朔、詔曰:『…履端建号、仰惟旧章。可大赦天下、改太清四年為大宝元年。』即位(太清三年五月辛巳)後もしばらく先帝武帝の太清の年号をそのまま踏襲していたが、翌年(太清四年)正月にいたり、初めて自らの年号『大宝』を建元した。簡文帝在位中に確認できる改元はこの1回のみ(即位に伴う最初の建元として計上)。
出典: 梁書本紀第四
大赦550年2月2日大宝元年正月辛亥朔(太清四年を大宝元年に改元した当日)の詔に『履端建号、仰惟旧章。
大宝元年正月辛亥朔(太清四年を大宝元年に改元した当日)の詔に『履端建号、仰惟旧章。可大赦天下、改太清四年為大宝元年。』とあり、改元と同時に発布された全国規模の大赦。
出典: 梁書本紀第四
被反乱551年8月〜551年10月侯景による簡文帝廃位・弑逆
首謀者: 侯景
結果: 大宝二年八月戊午、既に相国・漢王を自称し宇宙大将軍を号していた権臣侯景が衛尉卿彭俊・廂公王僧貴に兵を率いさせて宮殿に乱入させ、簡文帝を廃して晋安王とし永福省に幽閉した(皇太子大器ら皇子多数も殺害)。同年十月壬寅、侯景の腹心王偉・王修纂らが酒を勧めた上で泥(土嚢)で圧殺し、簡文帝は永福省で崩御(享年四十九)。侯景は明皇帝と偽諡し廟号を高宗とした。
権臣(既に朝廷の実権を完全に掌握していた侯景)が兵力を用いて皇帝を廃位・幽閉・弑殺した事件であり、ルール上の例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に明確に該当するため被反乱に計上した。鎮圧の主体は簡文帝側ではなく侯景側であるため鎮圧回数には含めない。なお侯景の反乱そのものは武帝の代(太清二年=548年)に開始し、太清三年五月に武帝を餓死させた後、簡文帝を傀儡として擁立したものであり、簡文帝の在位期間全体が侯景の乱の継続下にあったと言える。本人物の記録としては、その継続の中で簡文帝自身に対して行われた具体的な廃位・弑逆行為(551年8月〜10月)を新規の被反乱事象として計上した(武帝代の当初の挙兵・餓死事件は武帝側の記録で別途計上されるべき事柄と整理した)。