簡文帝の人物データ
- 生年
- 503年12月2日
- 在位
- 549年7月7日〜551年10月2日
- 没年
- 551年11月15日49歳(数え年)長生き順87位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。
- 先代
- 武帝蕭衍梁・
南北朝 簡文帝は武帝の子
- 武帝蕭衍梁・
- 呼び名
- 姓蕭諱綱字世纘幼名六通廟号太宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 梁書 本紀第四 簡文帝紀
- 死因
- 梁書 本紀第四
- 即位経路
- 梁書 本紀第四
生涯
どんな皇帝か
梁書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、天賦の才は古今に冠たるが文が軽く華やかなのは欠点とし、帝位を継いでからは人君の美徳があったが、賊臣に制せられたのは哀れだと評する。
即位まで
昭明太子の同母弟で、503年に生まれた。幼くして文を作り、早熟を疑って御前で試した武帝に、この子は我が家の曹植だと嘆じさせた。度量が広くて喜怒を顔に出さず、書物は一目で十行を読んだ。生母を亡くした喪では痩せ衰え、敷物が涙で腐った。531年、昭明太子の死後に皇太子となった。詩は軽く艶やかで、当時宮体宮中で流行った、なまめかしい詩の作風と呼ばれた。549年、侯景が宮城を落とすと、永福省で顔色を変えずに侯景と会った。父の武帝が憂憤のうちに没すると、侯景は喪を秘したのち蕭綱を立てた。
史料について
宮体の名を、梁書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は蕭綱の詩から、徐摛伝は侍臣の徐摛の新しい文体から起こったとする。
治世と最期
強臣に制せられる身を思って文明の年号を考えたが、賊に悟られるのを恐れて大宝とした。帝のもとには文弱の数人しか出入りできず、ただ一人離れなかった蕭諮も、侯景が刺客に殺させた。
551年、侯景は謀臣王偉の進言で帝を廃して永福省に幽閉し、皇太子大器らを殺した。禅位皇帝が位をほかの人に譲ることの詔を書き写させられた帝は嗚咽が止まらなかった。帝位にあった間も歴史の書を手放さず、廃されて幽閉されると紙が無いので壁や板に文を書き付けた。同じ年、王偉らが寿酒長生きを祝って勧める酒と称して酒を勧めると、帝は殺されると悟って存分に飲み、楽しみがここまで極まるとは思わなかったと言った。酔って寝たところを、土嚢で押しつぶされて殺された。
史料について
王偉が廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることを勧めたわけを、南史は溧陽公主の讒言を恐れたためとする。殺害を、梁書の本紀は彭俊が土嚢を差し入れ王修纂がその上に座ったとし、侯景伝は王偉の名を出さず、王修纂が土を盛った布を腹に載せたとする。
簡文帝とつながる皇帝

勢力図
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549–551年の地図に、簡文帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・改元1・大赦2
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。549年7月7日簡文帝即位に伴う大赦。
- 改元550年元号を「大宝」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。550年
- 反乱551年10月2日〜551年11月15日侯景による簡文帝廃位・
弑逆
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