廃帝・豫章王
梁・南北朝|在位 551年
- 諱(本名)
- 蕭棟
- 在位
- 551年
- 在位期間
- 92日365名中341位タイ
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
簡文帝殺害直後、「矯為太宗詔,禪于豫章嗣王棟,大赦改年」(梁書本紀第四)。侯景による偽詔(「矯」と明記)を用いた擁立。
出典: 梁書 本紀第四/資治通鑑 卷一百六十四 梁紀二十補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
侯景敗死後に脱出するも、湘東王蕭繹配下の朱買臣に「呼之就船共飲,未竟,並沉於水」(招飲を装い水中に沈めて謀殺)された。政権交代後の公的処断ではなく騙し討ちのため暗殺に分類。
出典: 資治通鑑 卷一百六十四 梁紀二十補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元(天正)の1回のみ。後継者側への帰属について:11月に侯景が矯詔して棟から自らへ禅位させ「改元為太始元年」としたのは侯景自身(漢国)の建元であり、蕭棟の在位中の改元としてはカウントしない。武陵王蕭紀(益州で自立)が同時期に「天正」と改元した件(『南史』4669行)は同名だが別人物・別政権であり無関係。
大赦回数
即位時の大赦のみ1回。侯景が11月に棟から禅譲を受けて自ら即位した際の「大赦,改元為太始元年」は侯景自身(漢国)の即位に伴うものであり、蕭棟の在位中の出来事としては扱わない。
立后回数
在位が短期間のため立后は即位時の1回のみ。廃后・再冊立の記載はない。
皇太子廃立回数
蕭棟の在位は約3ヶ月(551年8月~11月)と極めて短く、『南史』『梁書』いずれにも棟が皇太子(皇太弟・皇太孫等を含む)を立てた、または廃した記載は見当たらない。なお、侯景が一時「以棟為太孫」として棟自身を皇太孫に留めようとした案があったが、王偉の反対で実行されず棟は皇帝として擁立された(『南史』南史卷八)。これは棟が主体となった立太子・廃太子の出来事ではないためカウントしない。
親征回数
『資治通鑑』卷164・『梁書』侯景伝・『南史』卷八いずれにも、蕭棟が親征・自ら軍を率いた記述は見られない。栋は即位前から幽拘され「與妃張氏鉏葵(張妃と共に畑仕事)」の状態から強制的に擁立され、即位後も実権は一切なく侯景の傀儡(矯詔による名目上の皇帝)であったため、軍事行動を主体的に行う立場になかった。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
在位中(551年8月~11月)、司空・東道行台の劉神茂が侯景の巴陵敗戦を機に離反し、尹思合・劉帰義・王曄・元頵らと東陽に拠って湘東王繹(江陵)に呼応する事件が10月に発生(『資治通鑑』卷164)。侯景は11月に趙伯超・田迁・李慶緒・謝答仁らを派遣し討伐を開始したが、これは全て侯景が蕭棟の名で矯詔(偽の詔)を発して独断で行ったものであり、蕭棟本人は擁立後も一貫して幽拘状態で政務への関与・裁可の記録が一切ない。実際に劉神茂が降伏・鎮圧が完了したのは552年2月(蕭棟が既に廃位・幽閉された後)である。データセット既存のeraChangeCount項目でも同様の理由(矯詔による侯景単独の行為)で「太始」改元を蕭棟の在位中の出来事として扱わない方針を採っており、それとの整合性から本件も蕭棟自身の政権による鎮圧とは認定せず、鎮圧回数には計上しなかった。判断に迷う余地があるためconfidenceはmediumとする。
被反乱回数
在位中に蕭棟自身が対象となった軍事クーデターは、擁立直後の10月に発生した劉神茂の離反(東陽拠点、侯景の政権に対する反乱で蕭棟個人を標的としたものではない)を除けば、11月の侯景による禅位強要・幽閉の1件のみ。劉神茂の一件は侯景の矯詔による政権への反乱であり蕭棟個人が被った反乱ではないため、rebellionSuppressionCountと同様の理由でここには含めなかった(対称性の例外1=集計単位・主体の相違に該当すると整理)。
遷都回数
梁書本紀・南史を通読。建康定都(建国時の定都)から侯景の乱期を含め遷都の記録なし(承聖元年の江陵遷都は元帝の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reigns/deathCause/accessionRoute等)および_corpus_cache/liang-yuzhangwang.txt(梁書本紀・南史本紀部分)を確認したが、蕭棟本人の生年月日・享年・即位時年齢の直接記載は見当たらなかった。追加でdaizhigev20所収の『南史』巻五十四(昭明太子統傳・棟の家系記事)、『通志』、『江城名迹』、『南北史演義』の該当箇所も確認したが、いずれも「棟字元吉」「與妃張氏鋤葵」「即位して淮陰王に降封、552年5月に朱買臣に沈殺された」という経緯のみで、時年・享年の記載は無い。父の豫章王蕭歡・祖父の昭明太子蕭統の没年齢は史料にあるが、棟本人の年齢を示す記述ではないため使用しない。調査済みだが生年月日・享年ともに不明として確定する。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元551年8月1日即位に伴い建元、年号を「天正」と定めた(大寶二年八月戊午)。
即位に伴い建元、年号を「天正」と定めた(大寶二年八月戊午)。『南史』「棟即位,改元天正」(南史卷八 梁本紀下)、『南史』卷五十四棟本傳「於是年號天正」、『梁書』「矯為太宗詔,禪於豫章嗣王棟,大赦改年」。在位約3ヶ月の間、他の改元記録はない。
出典: 南史卷八 梁本紀下第八
大赦551年8月1日侯景が簡文帝を廃し矯詔して豫章王蕭棟に禅位、棟が皇帝に即位した際に「大赦」を実施(大寶二年八月戊午)。
侯景が簡文帝を廃し矯詔して豫章王蕭棟に禅位、棟が皇帝に即位した際に「大赦」を実施(大寶二年八月戊午)。『梁書』は「矯為太宗詔,禪於豫章嗣王棟,大赦改年」、『南史』は「迎豫章王棟即皇帝位,升太極前殿,大赦,改元為天正元年」と記す。在位約3ヶ月間、他に大赦の記載は見当たらない。
出典: 南史卷八 梁本紀下第八(『梁書』卷四 本紀第四 太宗簡文皇帝紀にも同記事あり)
被反乱551年11月侯景による蕭棟廃位・淮陰王降封(禅位強要)
首謀者: 侯景
結果: 蕭棟は「己丑」の日に侯景へ禅位を強要され、侯景が南郊で即位(国号「漢」・改元太始)。蕭棟は淮陰王に降封のうえ弟の蕭橋・蕭樛と共に密室に幽閉された。翌552年5月2日(既存データのdeathCause記載)に長江に沈められ殺害されるまで幽閉が続いた。
『資治通鑑』卷164梁紀二十「己丑,豫章王棟禪位於景,景即皇帝位於南郊……封棟為淮陰王,並其二弟橋、樛同鎖於密室」、『梁書』(daizhigev20所収)「景又矯萧棟詔,禪位於己……封萧棟為淮陰王,幽於監省」に基づく。丞相(権臣)である侯景が軍事力を背景に皇帝を廃位・幽閉した事件であり、ユーザー指定の例外4(権臣による兵力を伴う弑逆・廃位・幽閉)に該当するため被反乱に計上した。鎮圧の主体は蕭棟側ではなく侯景であるため、rebellionSuppressionCountには計上しない。
立后日付不詳即位後、王妃張氏が皇后に立てられた。
即位後、王妃張氏が皇后に立てられた。『南史』卷五十四 列傳第四十四(棟傳)に「(即位後)於是年號天正,追尊昭明太子曰昭明皇帝,安王為安皇帝,金華敬妃蔡氏為敬皇后,太妃王氏為皇太后,妃為皇后」とあり、この「妃為皇后」が張妃の立后記事。棟は即位直前まで「與妃張氏鋤葵」(王妃張氏と共に畑仕事をしていた)とあり、即位に伴い正式に皇后として冊立されたと解される。
出典: 南史卷五十四 列傳第四十四