廃帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 551年10月6日〜552年1月1日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 551年11月19日まで
- 没年
- 552年5月2日年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 簡文帝梁・
南北朝 廃帝は簡文帝の同族(遠縁)
- 簡文帝梁・
- 次代
- 侯景漢・
侯漢 侯景と廃帝に血縁はない
- 侯景漢・
- 呼び名
- 姓蕭諱棟字元吉別称豫章王呼び名の見方
出典
- 在位
- 梁書 本紀第四 太宗簡文帝紀・
本紀第五 世祖元帝紀/資治通鑑 梁紀二十(降封記事は南史 巻八十梁本紀下・ 南史原文も参照) - 死因
- 資治通鑑 卷一百六十四 梁紀二十
- 即位経路
- 梁書 本紀第四/資治通鑑 卷一百六十四 梁紀二十
生涯
どんな皇帝か
梁書の武陵王紀の伝は蕭棟の在位を僭号資格がないのに勝手に君主の称号や国号を名乗ることと書き、元帝は蕭棟を殷の紂王になぞらえた。
即位まで
父の蕭歓は武帝の嫡孫本家を継ぐ立場にある孫で、次の後継ぎとなるはずだったが、武帝が決めかね、豫章王に封じられた。551年、侯景は謀臣王偉の勧めで簡文帝を廃し、正嫡に帰すべきだという簡文帝の偽の詔で、蕭棟に位を譲らせた。幽閉されて野菜で食いつなぎ、妃と葵を鋤いていたところへ迎えの車が来て、驚いて泣きながら乗った。即位すると、つむじ風が儀仗儀式や行列で用いる、旗や武器などの飾り道具を吹き倒し、見た者は驚き恐れた。郭元建が諫めると、侯景は簡文帝を戻して蕭棟を太孫にしようとしたが、王偉が止めた。
史料について
偽の詔を、資治通鑑は自分が正統の筋でないため乱を招いたとする文言で書く。即位の場を、南史の蕭棟伝は武徳殿で風が華蓋皇帝の頭上にさしかける飾りの覆いを吹き上げたと別の形で書く。太孫の話を、資治通鑑は即位の後に置き、南史の侯景伝は禅位皇帝が位をほかの人に譲ることの前に置く。
治世と最期
即位の直後に昭明太子が皇帝に追尊亡くなった人に、あとから尊い称号を贈ることされた。侯景はのちに蕭棟の名で自らに九錫皇帝が功の大きい臣下に与えた九種の特別な品を加え、白い麞や白鼠が献じられると、蕭棟はそれを侯景に回した。侯景はまもなく偽詔で自らに位を譲らせ、蕭棟を淮陰王として弟たちとともに閉じ込めた。
侯景が敗走すると兄弟は助け合って外へ出て、鎖を外してもらった。助かったと喜ぶ弟に、蕭棟は、禍福は分からない、まだ恐ろしいと言った。元帝に処遇を問うた王僧弁は、元帝が宮門の内では兵威を尽くせと答えると、成済の役は別人にと断り、元帝は朱買臣に別に命じた。552年、兄弟は朱買臣に船の酒宴へ呼ばれ、飲み終わらないうちに水に沈められた。
史料について
追尊を、梁書の侯景伝は侯景が蕭棟の詔を偽って行ったとし、南史の蕭棟伝は誰がしたかを書かない。殺害を、梁書の元帝紀は元帝の意向と明記し、南史の元帝紀は密旨君主がひそかに下した命令を奉じたと書く。
廃帝とつながる皇帝

勢力図
南北朝の勢力図で見る
551年の地図に、廃帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元1・大赦1
- 改元551年10月6日元号を「天正」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。551年10月6日
- 反乱552年1月(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 551年12月)侯景による蕭棟廃位・
淮陰王降封(禅位強要) - 皇后日付不詳即位後、王妃張氏が皇后に立てられた。
梁・南北朝の歴代皇帝
歴代5人の一覧年表
南北朝の時代を年表で見る
梁・