中国皇帝統計

武帝

梁・南北朝|在位 502–549年

武帝の肖像
諱(本名)
蕭衍
廟号
高祖
在位
502–549年
在位期間
47年54日365名中8位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
39歳(数え年)172名中・若い順133位タイ
没年齢
86歳(数え年)269名中・長寿順2位
改元
7332名中10位タイ
大赦
37267名中1位
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
6225名中68位タイ
被反乱
6289名中82位タイ
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武帝

即位の経緯

斉和帝からの禅譲を受け即位。「今便敬禪于梁,卽安姑孰,依唐虞、晉宋故事」。王朝創始者のため他の創始者(劉裕・蕭道成・陳霸先等)と同様「建国」に分類。

出典: 梁書 本紀第一補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

太清三年(549年)、侯景の乱による幽閉下で「高祖以所求不供,憂憤寢疾」「高祖崩于淨居殿,時年八十六」(梁書本紀第三 武帝下)。『資治通鑑』卷162には「上臥淨居殿,口苦,索蜜不得,再曰『荷!荷!』遂殂」とあり、蜜を求めて得られず崩じたという記述もあり、俗説では「餓死」とも言われる。原典が明記する病死の形式を採用しつつ、侯景による物資欠乏という背景・俗説をここに併記する。

出典: 梁書 本紀第三 武帝下/資治通鑑 卷一百六十二 梁紀十八補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位に伴う天監への改元(建国改元)を含め、天監→普通→大通→中大通→大同→中大同→太清の計7回の改元を確認した。中大通・中大同・太清は紀年の見出しが年初(正月)から新元号で記載されるが、本文中で「改元」の語を伴う実際の改元記事はその年の年央〜年末にあるため、実際の改元記事の日付を採用した(例:中大通元年は正月から見出しが「中大通元年」だが、実際の改元記事は十月己酉)。

大赦回数

『梁書』本紀第一〜第三(武帝上・中・下)を通読し「大赦」「大赦天下」「赦天下」と明記された全国規模の恩赦37件を抽出した。地域限定の「曲赦」(益州・交州・東豫州・司豫徐兗四州・京邑・南豫州・交愛徳三州等、計8件)、および特定の罪状・刑期に限定した「赦大辟以下」(天監十二年・七年の計2件)「赦殊死以下」(普通七年、1件)は部分的恩赦として除外した。大同七年十一月の詔「凡厥愆耗逋負…皆赦除之」(租税・負債の免除)、大同十年九月の詔「凡天下罪无轻重…皆赦宥之」(犯罪の宥免を趣旨とする詔だが「大赦」「赦天下」の語を明記していない)は、収録基準の明記要件に厳密には該当しないため除外したが、実質的には恩赦に近い内容であり判定に迷う境界事例として付記する。日付は干支から月単位で近似変換(旧暦月+1をグレゴリオ暦月として概算)したものであり、厳密な日次換算ではない(即位に伴う天監元年の大赦のみ既存reignsデータの起算日0502-05-01と一致させた)。中大通・中大同・太清の紀年見出しは年初(正月)から新元号で記載されるが、実際の改元(「改元」の語を伴う記事)はその年の年央〜年末にあるため、改元前の同一年内の大赦も便宜上その紀年ラベルのまま記載した。

立后回数

『梁書』本紀第一〜第三を通読したが、梁武帝在位中に「立…為皇后」等の皇后冊立記事は見当たらない。天監元年に亡妻郗氏へ「德皇后」を追諡した記事(本紀第二「追谥妃郗氏为德皇后」)があるが、これは即位前に死去した妃への追諡であり、在位中に生きた皇后を正式冊立したものではないため対象外とした。史実としても梁武帝は在位中皇后を立てず(丁貴嬪等の側室のみ)、この記録と整合する。

皇太子廃立回数

『梁書』本紀第一〜第三を通読したが、皇太子(皇太弟等含む)を廃した記事は見当たらない。天監元年十一月甲子、皇子統(昭明太子)を皇太子に立て(原文「甲子,立皇子统为皇太子」)、中大通三年四月乙巳に薨去(原文「皇太子统薨」、廃立ではなく死去)、同年七月乙亥に晋安王綱(後の簡文帝)を新たに皇太子に立てており(原文「立晋安王纲为皇太子」)、いずれも廃立には該当しない。

親征回数

梁書本紀(卷一〜卷三)を通読したが、武帝自身が「帝自将」「親征」等の形で戦場に赴いた記述は皆無。北魏・東魏との国境戦での北伐(天監4-5年の臨川王宏都督、普通6-7年の元樹・裴邃・夏侯亶らの北伐、太清元年の羊鴉仁・蕭淵明の北伐等)はすべて宗室・将軍への委任であり、武帝本人は建康に留まった。唯一「普通六年正月」の詔で『朕当六軍雲動、龍舟済江』と自ら親征を宣言し、同年三月己酉に『行幸白下城、履行六軍頓所』と記録があるが、白下城は建康近郊であり黄河・淮河方面の戦線には至っておらず、実際の指揮は鎮北将軍豫章王蕭綜(彭城で総督衆軍)らに委ねられている。このため実質的な親征とは認定せず0回とした。また対外戦争(北魏・東魏との国境戦)は基準により除外対象。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

梁書本紀(卷一〜卷三、武帝上・中・下)を通読し、皇帝側が武力鎮圧の主体となった6件を計上した。除外した境界事例:(1)普通二年(521)六月丁卯『信威将軍・義州刺史文僧明以州叛入於魏』-州ごと北魏へ投降した事例で、梁軍との交戦・討伐の記述がなく単純な離反投降と判断し除外。(2)普通六年(525)六月庚辰『豫章王蕭綜奔於魏』-北伐従軍中の皇子将軍が敵の魏へ出奔した事例で、対魏戦争中の離脱であり梁朝への武装反乱・鎮圧行動の記述がないため除外。(3)中大通二年(528)秋『山賊聚結、寇会稽郡所部県』-首謀者名・規模不明の小規模盗賊騒擾で、湛海珍を派遣し討たせた(『仮超武将軍湛海珍節以討之』)記述はあるが史料が簡略すぎるため除外し、他の6件のみ高確信度で計上した。

被反乱回数

鎮圧回数と原則対称の6件を計上(粒度差・未鎮圧などの不一致は生じていない)。侯景の乱は皇帝が鎮圧を試みたが失敗し崩御に至った例外的重大事件として、鎮圧・被反乱の両方に計上している(ルール上『鎮圧を試みて失敗し王朝崩壊・皇帝廃位に至った場合もカウント』に該当)。除外した境界事例は鎮圧回数側のnoteに記載の通り(文僧明の離反、蕭綜の出奔、会稽の山賊騒擾)。蕭正徳(liang-xiaozhengde、侯景と結託し帝号僭称)は侯景の乱に付随する事件として扱い、独立した被反乱イベントとしては別立てしていない。

遷都回数

梁書本紀・南史を通読。建康定都(建国時の定都)から侯景の乱期を含め遷都の記録なし(承聖元年の江陵遷都は元帝の代の出来事として計上済み)。

即位時年齢・没年齢

生年(464年、劉宋大明八年)・没年齢86歳(「時年八十六」)はいずれも直接記載、549-464+1=86で完全に整合。即位時年齢39歳は生年464年と即位年502年(reigns.startDate)から逆算(502-464+1=39、原文への直接記載はないが安全な年内計算のため採用)。

在位中の出来事(56件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧502年5月〜502年6月陳伯之の乱

首謀者: 陳伯之

結果: suppressed

天監元年五月戊子、江州刺史陳伯之が挙兵反す。領軍将軍王茂を征南将軍・江州刺史として討伐させ、六月に陳伯之は魏へ亡命、江州は平定された(梁書卷一・卷二)。武帝自身の即位は同年四月丙寅で、即位直後の反乱。

被反乱502年5月〜502年6月陳伯之の乱

首謀者: 陳伯之

結果: 陳伯之は北魏へ亡命、江州平定

鎮圧回数と対称。即位直後の江州刺史の武装反乱。

改元502年5月1日天監に改元(梁建国・即位に伴う建国改元)。

天監に改元(梁建国・即位に伴う建国改元)。原文「天監元年夏四月丙寅,高祖即皇帝位於南郊…可大赦天下。改齊中興二年為天監元年」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦502年5月1日天監元年四月丙寅、即位に伴う大赦。

天監元年四月丙寅、即位に伴う大赦。原文「(天監元年夏四月丙寅,高祖即皇帝位)…可大赦天下。改齊中興二年為天監元年」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

反乱鎮圧502年6月〜503年5月劉季連の益州拠守

首謀者: 劉季連

結果: suppressed

前益州刺史劉季連が成都に拠って新王朝(梁)に服さず挙兵(天監元年六月)。天監二年五月乙丑、益州刺史鄧元起が成都を攻略し、益州を曲赦(梁書卷二)。前朝(斉)からの居残り勢力による地方反乱として計上。

被反乱502年6月〜503年5月劉季連の益州拠守

首謀者: 劉季連

結果: 鄧元起により成都攻略、鎮圧

鎮圧回数と対称。前朝残存勢力による益州の武装抵抗。

大赦504年7月天監三年六月癸未、大赦天下。

天監三年六月癸未、大赦天下。原文「癸未,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦505年2月天監四年正月辛亥、南郊親祀に伴い赦天下。

天監四年正月辛亥、南郊親祀に伴い赦天下。原文「辛亥,舆驾亲祠南郊,赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦506年12月天監五年十一月乙丑、出師が長期化したことに伴い大赦天下。

天監五年十一月乙丑、出師が長期化したことに伴い大赦天下。原文「乙丑,以師出淹時,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦507年9月天監六年八月戊子、赦天下。

天監六年八月戊子、赦天下。原文「戊子,赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦509年2月天監八年正月辛巳、南郊親祀に伴い赦天下。

天監八年正月辛巳、南郊親祀に伴い赦天下。原文「舆驾亲祠南郊,赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦511年2月天監十年正月辛丑、南郊親祀に伴い大赦天下。

天監十年正月辛丑、南郊親祀に伴い大赦天下。原文「舆驾亲祠南郊,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦514年3月天監十三年二月丁亥、親耕籍田に伴い赦天下。

天監十三年二月丁亥、親耕籍田に伴い赦天下。原文「舆驾亲耕籍田,赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦515年2月天監十四年正月乙巳朔、皇太子冠礼に伴い赦天下。

天監十四年正月乙巳朔、皇太子冠礼に伴い赦天下。原文「皇太子冠,赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦516年10月天監十五年九月壬辰、赦天下。

天監十五年九月壬辰、赦天下。原文「壬辰,赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦518年3月天監十七年二月甲辰、大赦天下。

天監十七年二月甲辰、大赦天下。原文「甲辰,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

大赦519年5月天監十八年四月丁巳、大赦天下。

天監十八年四月丁巳、大赦天下。原文「四月丁巳,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第二(武帝中)

改元520年2月普通に改元。

普通に改元。原文「普通元年春正月乙亥朔,改元,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦520年2月普通元年正月乙亥朔、改元に伴い大赦天下。

普通元年正月乙亥朔、改元に伴い大赦天下。原文「改元,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦521年2月普通二年正月戊子、大赦天下。

普通二年正月戊子、大赦天下。原文「戊子,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦522年6月普通三年五月癸巳、赦天下。

普通三年五月癸巳、赦天下。原文「癸巳,赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦523年2月普通四年正月辛卯、南郊親祀に伴い大赦天下。

普通四年正月辛卯、南郊親祀に伴い大赦天下。原文「舆驾亲祠南郊,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦525年2月普通六年正月辛亥、南郊親祀に伴い大赦天下。

普通六年正月辛亥、南郊親祀に伴い大赦天下。原文「舆驾亲祠南郊,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦525年8月普通六年七月壬戌、大赦天下(豫章王綜の魏投降を受けての混乱下)。

普通六年七月壬戌、大赦天下(豫章王綜の魏投降を受けての混乱下)。原文「秋七月壬戌,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦526年12月普通七年十一月庚辰、大赦天下。

普通七年十一月庚辰、大赦天下。原文「十一月庚辰,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

改元527年4月大通に改元。

大通に改元。原文「(大通元年)三月辛未,舆驾幸同泰寺舍身。甲戌,还宫,赦天下,改元」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦527年4月大通元年三月甲戌、同泰寺捨身からの還宮・改元に伴い赦天下。

大通元年三月甲戌、同泰寺捨身からの還宮・改元に伴い赦天下。原文「甲戌,还宫,赦天下,改元」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦529年2月中大通元年正月辛酉、南郊親祀に伴い大赦天下。

中大通元年正月辛酉、南郊親祀に伴い大赦天下。原文「舆驾亲祠南郊,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦529年7月中大通元年六月壬午、大赦天下。

中大通元年六月壬午、大赦天下。原文「六月壬午,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

改元529年11月中大通に改元。

中大通に改元。原文「(中大通元年)冬十月己酉,舆驾还宫,大赦,改元」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦529年11月中大通元年十月己酉、同泰寺無遮大会捨身からの還宮・改元に伴い大赦。

中大通元年十月己酉、同泰寺無遮大会捨身からの還宮・改元に伴い大赦。原文「舆驾还宫,大赦,改元」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

反乱鎮圧531年蕭正則の広州侵寇未遂

首謀者: 蕭正則

結果: suppressed

中大通三年、罪により流徙されていた前楽山県侯蕭正則が亡命者を招誘し広州を寇せんとしたが、現地で討平された(梁書卷三:『前楽山県侯蕭正則有罪流徙、至是招誘亡命、欲寇広州、在所討平之』)。正確な月日は記載なくyear精度とした。臨賀王蕭正徳(侯景と結託した別人物)とは別人。

被反乱531年蕭正則の広州侵寇未遂

首謀者: 蕭正則

結果: 在地で討平

鎮圧回数と対称。

大赦531年2月中大通三年正月辛巳、南郊親祀に伴い大赦天下。

中大通三年正月辛巳、南郊親祀に伴い大赦天下。原文「舆驾亲祠南郊,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦531年8月中大通三年七月乙亥、晋安王綱(後の簡文帝)を皇太子に立てるのに伴い大赦天下。

中大通三年七月乙亥、晋安王綱(後の簡文帝)を皇太子に立てるのに伴い大赦天下。原文「立晋安王纲为皇太子。大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦533年2月中大通五年正月辛卯、南郊親祀に伴い大赦天下。

中大通五年正月辛卯、南郊親祀に伴い大赦天下。原文「舆驾亲祠南郊,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦534年3月中大通六年二月癸亥、親耕籍田に伴い大赦天下。

中大通六年二月癸亥、親耕籍田に伴い大赦天下。原文「舆驾亲耕籍田,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

改元535年2月大同に改元。

大同に改元。原文「大同元年春正月戊申朔,改元,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦535年2月大同元年正月戊申朔、改元に伴い大赦天下。

大同元年正月戊申朔、改元に伴い大赦天下。原文「改元,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦537年2月大同三年正月辛丑、南郊親祀に伴い大赦天下。

大同三年正月辛丑、南郊親祀に伴い大赦天下。原文「舆驾亲祠南郊,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦537年9月大同三年八月辛卯、阿育王寺行幸に伴い赦天下。

大同三年八月辛卯、阿育王寺行幸に伴い赦天下。原文「舆驾幸阿育王寺,赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦538年8月大同四年七月癸亥、如来真形舎利が降ったことを機に大赦天下。

大同四年七月癸亥、如来真形舎利が降ったことを機に大赦天下。原文「诏以东冶徒李胤之降如来真形舍利,大赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦540年9月大同六年八月戊午、赦天下。

大同六年八月戊午、赦天下。原文「戊午,赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

反乱鎮圧541年〜548年李賁の乱(交州)

首謀者: 李賁

結果: suppressed

大同七年、交州の土民李賁が刺史蕭諮を攻撃したのが端緒。以後、大同八年に諸州刺史を動員して討伐、大同十年(544)に李賁は交阯で帝号を僭称し百官を設置するに至る。中大同元年(546)に交州刺史楊票が交趾嘉寧城を克し李賁は獠洞に逃走して『交州平』(一応の平定)、最終的に太清二年(548)三月に獠洞で斬首され京師に送られた(梁書卷三)。一貫して同一首謀者による長期反乱として1件に計上。

被反乱541年〜548年李賁の乱(交州)

首謀者: 李賁

結果: 最終的に斬首・平定(長期化)

鎮圧回数と対称。交州という辺境の服属地における長期反乱。

大赦541年2月大同七年正月辛巳、南郊親祀に伴い赦天下。

大同七年正月辛巳、南郊親祀に伴い赦天下。原文「舆驾亲祠南郊,赦天下」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

反乱鎮圧542年1月〜542年3月劉敬躬の乱

首謀者: 劉敬躬

結果: suppressed

大同八年正月、安成郡民劉敬躬が左道(邪教)を挟んで反し、郡を占拠して廬陵・豫章を攻略、党衆数万に達し新淦・柴桑に迫った。江州刺史湘東王蕭繹が中兵曹子郢を遣わして討伐、三月戊辰に大破して劉敬躬を捕らえ建康で斬った(梁書卷三)。

被反乱542年1月〜542年3月劉敬躬の乱

首謀者: 劉敬躬

結果: 大破され首謀者処刑

鎮圧回数と対称。

大赦546年4月中大同元年三月乙巳、大赦天下。

中大同元年三月乙巳、大赦天下。原文「大赦天下:凡主守割盗、放散官物…」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

改元546年5月中大同に改元。

中大同に改元。原文「(中大同元年)夏四月丙戌,于同泰寺解讲,设法会。大赦,改元」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦546年5月中大同元年四月丙戌、同泰寺法会に伴い大赦・改元。

中大同元年四月丙戌、同泰寺法会に伴い大赦・改元。原文「于同泰寺解讲,设法会。大赦,改元」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦547年2月太清元年正月辛酉、南郊親祀の詔で大赦天下。

太清元年正月辛酉、南郊親祀の詔で大赦天下。原文「可大赦天下,尤穷者无出即年租调…」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

改元547年5月太清に改元。

太清に改元。原文「(太清元年)夏四月丁亥,舆驾还宫,大赦天下,改元」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

大赦547年5月太清元年四月丁亥、同泰寺捨身からの還宮・改元に伴い大赦天下。

太清元年四月丁亥、同泰寺捨身からの還宮・改元に伴い大赦天下。原文「舆驾还宫,大赦天下,改元」。

出典: 梁書本紀第三(武帝下)

反乱鎮圧548年8月〜549年5月侯景の乱

首謀者: 侯景

結果: suppression attempted, failed — capital besieged, emperor died during siege

太清二年八月戊戌、侯景が挙兵反し馬頭・木栅・荊山等の戍を攻撃。安前将軍鄱陽王蕭範・邵陵王蕭綸・司州刺史柳仲礼ら諸軍を動員して救援・討伐に当たらせたが(梁書卷三に詳細な援軍動員の記述あり)、太清三年三月己巳に建康の宮城が陥落し、侯景が都督中外諸軍事・大丞相を自称。武帝は幽閉同然の状態で『所求不供、憂憤寝疾』となり、同年五月丙辰に浄居殿で崩御(享年八十六)。鎮圧は最終的に失敗し王朝は事実上崩壊・皇帝は餓死に至ったが、鎮圧の主体はあくまで梁朝側(諸軍動員)であったため鎮圧回数にも計上する。侯景と結託し帝号を僭称した臨賀王蕭正徳(別人物として登録)の行動も本反乱に含まれる一連の事件として扱い、別件としては計上していない。

被反乱548年8月〜549年5月侯景の乱

首謀者: 侯景

結果: 建康陥落・台城包囲、武帝は幽閉同然の状態で憂憤のうちに崩御(餓死に近い状況、deathCauseと重複)

最重要事件。梁朝から北魏(後の東魏)へ降った将軍侯景が、太清元年(547)に一旦梁へ帰順した後、太清二年八月に反旗を翻し建康を包囲。梁側の複数の救援軍動員(邵陵王蕭綸・柳仲礼都督諸軍等)はいずれも失敗し、太清三年三月に台城陥落。武帝は侯景に事実上幽閉され食を絶たれる形となり『忧愤寝疾』の末、太清三年五月丙辰に崩御(86歳)。deathCauseフィールドとの重複を許容し、高確信度で計上。

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