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元帝の肖像画

梁・南北朝第4代

元帝蕭繹

在位 552–554年(2年25日)552年12月13日 〜 555年1月7日 ( 554年11月29日まで)

日本は古墳時代

蕭繹は梁の武帝の第7子で、552年に江陵で即位したが、554年の暮れ、江陵を西魏に落とされ殺された。

元帝の人物データ

生年
508年9月16日
在位
  • 552年12月13日〜555年1月7日 554年11月29日まで
2年25日長い順256位/365人45歳で即位(数え年)
没年
555年1月27日( 554年12月19日)47歳(数え年)長生き順同率92位/266人
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
  • 簡文帝梁・南北朝元帝は簡文帝の弟
次代
  • 蕭淵明梁・南北朝蕭淵明は元帝の従兄弟
呼び名
姓蕭諱繹字世誠幼名七符廟号世祖別称孝元帝呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 1回多い順同率9位

出典

在位
梁書 本紀第五 元帝紀
死因
梁書/卷05 本紀第五 元帝;周書 蕭詧傳
即位経路
梁書/卷05 本紀第五 元帝

生涯

どんな皇帝か

梁書のは、侯景を滅ぼした雄才を認めつつ、猜忌が深く臣下を御せなかったと評する。

即位まで

幼いころ父に問われ、礼記の曲礼を諳んじて左右を驚かせた。生まれつき眼を患い、武帝が自ら治療したが片目を失った。取り繕いを好んで猜忌が強く、己に勝る者は必ずおとしめ傷つけ、骨肉にまで禍が及んだ。目を患ってからは近侍に交代で書を読ませ、飛ばすと鞭打った。妃の徐氏は片目の王が来ると顔の半分だけ化粧して待ち、王は怒って去った。549年に侯景が建康を落とすと、荊州でし、551年には巴陵へ援軍を送って侯景を退かせ、552年に侯景を平定させた。を初めは固辞したが、552年に江陵で即位した。

史料について

顔の半分だけの化粧の話は南史と資治通鑑にあり、梁書には無い。

治世と最期

同じ年に蜀で帝を称した弟の蕭紀が東へ下ると、恐れて西魏に救援と蜀の討伐を求めた。553年、和を求める蕭紀を拒んで討たせた。その隙に西魏は蜀を攻め、蕭紀の死後まもなく益州を落とした。還都の詔まで出し、会議でも賛成が過半だったが、は尽きたという諫めもあり、栄える江陵に自身も落ち着いて留まった。

旧図どおりの国境を求め、北斉とも結んで不遜だったため、554年、宇文泰は江陵へ兵を送った。西魏軍に柵を焼かれると、囲みを破って逃れるよう勧められたが、恥を増すだけだと断り、図書を集めて焼いた。訳を問われて、万巻の書を読んでなお今日があると答えた。

皇太子を人質に出して降り、白馬で東門を出るとき剣で門扉を打ち、蕭世誠がここまで落ちたかと嘆いた。まもなく西魏に殺された。蕭詧の遣わした者が刑を監し、土嚢で殺した。

史料について

焚書は南史と資治通鑑にあり、梁書の元帝紀には無い。万巻の書の答えは資治通鑑にある。降るときの様子と土嚢の話は南史が書き、梁書の元帝紀は落城して捕らえられたとする。

元帝とつながる皇帝

南北朝の勢力図(552年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

552–554年の地図に、元帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・遷都1・親征1・改元1
  1. 反乱552年5月16日〜553年8月20日蕭紀の乱(益州政権による帝位簒奪の内乱)
  2. 反乱552年11月〜553年7月陸納の乱(湘州反乱)
  3. 改元552年12月13日元号を「承聖」とする
  4. 遷都552年12月13日建康 → 江陵
  5. 555年1月7日( 554年11月29日)西魏(宇文泰配下・柱国于謹らの軍、蕭詧も加勢)

梁・南北朝の歴代皇帝

歴代5人の一覧

年表

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梁・南北朝が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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