元帝の人物データ
- 生年
- 508年9月16日
- 在位
- 552年12月13日〜555年1月7日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 554年11月29日まで
- 没年
- 555年1月27日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 554年12月19日)47歳(数え年)長生き順同率92位/266人
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 簡文帝梁・
南北朝 元帝は簡文帝の弟
- 簡文帝梁・
- 次代
- 蕭淵明梁・
南北朝 蕭淵明は元帝の従兄弟
- 蕭淵明梁・
- 呼び名
- 姓蕭諱繹字世誠幼名七符廟号世祖別称孝元帝呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 梁書 本紀第五 元帝紀
- 死因
- 梁書/卷05 本紀第五 元帝;周書 蕭詧傳
- 即位経路
- 梁書/卷05 本紀第五 元帝
生涯
どんな皇帝か
梁書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、侯景を滅ぼした雄才を認めつつ、猜忌が深く臣下を御せなかったと評する。
即位まで
幼いころ父に問われ、礼記の曲礼を諳んじて左右を驚かせた。生まれつき眼を患い、武帝が自ら治療したが片目を失った。取り繕いを好んで猜忌が強く、己に勝る者は必ずおとしめ傷つけ、骨肉にまで禍が及んだ。目を患ってからは近侍に交代で書を読ませ、飛ばすと鞭打った。妃の徐氏は片目の王が来ると顔の半分だけ化粧して待ち、王は怒って去った。549年に侯景が建康を落とすと、荊州で承制皇帝に代わって命令を出し、官を任じることし、551年には巴陵へ援軍を送って侯景を退かせ、552年に侯景を平定させた。勧進皇帝の位につくよう勧めることを初めは固辞したが、552年に江陵で即位した。
史料について
顔の半分だけの化粧の話は南史と資治通鑑にあり、梁書には無い。
治世と最期
同じ年に蜀で帝を称した弟の蕭紀が東へ下ると、恐れて西魏に救援と蜀の討伐を求めた。553年、和を求める蕭紀を拒んで討たせた。その隙に西魏は蜀を攻め、蕭紀の死後まもなく益州を落とした。還都の詔まで出し、会議でも賛成が過半だったが、王気王者や都に宿るとされた、栄えを示す気は尽きたという諫めもあり、栄える江陵に自身も落ち着いて留まった。
旧図どおりの国境を求め、北斉とも結んで不遜だったため、554年、宇文泰は江陵へ兵を送った。西魏軍に柵を焼かれると、囲みを破って逃れるよう勧められたが、恥を増すだけだと断り、図書を集めて焼いた。訳を問われて、万巻の書を読んでなお今日があると答えた。
皇太子を人質に出して降り、白馬で東門を出るとき剣で門扉を打ち、蕭世誠がここまで落ちたかと嘆いた。まもなく西魏に殺された。蕭詧の遣わした者が刑を監し、土嚢で殺した。
史料について
焚書は南史と資治通鑑にあり、梁書の元帝紀には無い。万巻の書の答えは資治通鑑にある。降るときの様子と土嚢の話は南史が書き、梁書の元帝紀は落城して捕らえられたとする。
元帝とつながる皇帝

勢力図
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552–554年の地図に、元帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・遷都1・親征1・改元1
- 反乱552年5月16日〜553年8月20日蕭紀の乱(益州政権による帝位簒奪の内乱)
- 反乱552年11月〜553年7月陸納の乱(湘州反乱)
- 改元552年12月13日元号を「承聖」とする
- 遷都552年12月13日建康 → 江陵
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。555年1月7日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 554年11月29日)西魏(宇文泰配下・
柱国于謹らの軍、蕭詧も加勢)
梁・南北朝の歴代皇帝
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