中国皇帝統計

元帝・孝元帝

梁・南北朝|在位 552–555年

諱(本名)
蕭繹
廟号
世祖
在位
552–555年
在位期間
2年45日365名中255位
即位経路
擁立
死因
処刑
即位時年齢
45歳(数え年)172名中・若い順148位タイ
没年齢
47歳(数え年)269名中・長寿順93位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
145名中12位タイ

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:元帝

即位の経緯

侯景の乱で先帝殺害後、南平王恪・胡僧祐ら宗室・群僚数百名の勧進を経て承聖元年(552年)に江陵で即位。正式な禅譲儀礼を経たわけではなく江陵の軍事指導者による推戴。

出典: 梁書/卷05 本紀第五 元帝補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

西魏に降った同族・岳陽王蕭詧(後の後梁宣帝)配下により「進土囊而殞之」(周書蕭詧傳)と土嚢で圧殺され、粗略に埋葬された。実行主体は私怨を持つ同族の政敵だが、西魏という征服者側の代理人による処断であることを重視し処刑に分類(ユーザー承認済み)。

出典: 梁書/卷05 本紀第五 元帝;周書 蕭詧傳補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

元帝在位中の改元は承聖への建元1回のみ。侯景政権下の「大宝」年号は元帝自身は一貫して採用せず、太清の年号を継続使用した(本紀に「世祖猶稱太清四年」「世祖猶稱太清五年」「世祖猶稱太清六年」と明記)ため、これは元帝自身による改元としてカウントしない。

大赦回数

『梁書』卷五 本紀第五 元帝の全文(即位前の湘東王時代の記事から崩御記事まで)を通読したが「大赦」「大赦天下」の語は一度も現れない。承聖元年(552年)十一月丙子の即位詔には「逋租宿責、並許弘貸;孝子義孫、可悉賜爵;長徒鏁士、特加原宥;禁錮奪勞、一皆曠蕩」という恩恵的措置の記述があるが、「大赦」と明記されていないため、本タスクの厳格な基準(「大赦」等と明記された全国規模の恩赦のみ)に従いカウントしない。

立后回数

『梁書』卷五 本紀第五 元帝の全文において「皇后」「立后」「冊后」等、皇后の冊立を示す記事は一切見当たらない。生母・阮修容を追尊して文宣太后とした記事(承聖元年十一月己卯)はあるが、これは太后号であり立后ではない。皇后不在として0回とする。

皇太子廃立回数

承聖元年(552年)十一月己卯に「立王太子方矩為皇太子、改名元良」と皇太子冊立の記事はあるが、廃立(廃太子)の記事は本紀中に一切ない。皇太子元良は承聖三年(554年)十二月、江陵陥落時に元帝と共に殺害されており(『太子元良、始安王方略皆見害』)、廃立ではなく落城に伴う横死である。

親征回数

承聖元年(552年)江陵での即位から承聖三年末(555年)の崩御までの在位期間中、皇帝自身が『帝自将』等の語で遠方へ出征した記事はない(蕭紀討伐は陸法和に、陸納討伐は王僧辯にそれぞれ委任し、世祖自身は江陵に留まった)。唯一、在位末期の西魏による江陵包囲戦で世祖自身が城門を出て陣頭で戦闘を指揮した記事があり、これを親征として1件計上した。

反乱鎮圧回数

承聖元年(552年)即位から承聖三年(555年)崩御までの在位期間中に鎮圧した反乱は、同一王朝内の帝位争い(蕭紀の乱)と服属官の離反(陸納の乱)の2件。いずれも挙兵自体は即位直前(552年5月・10月)に始まるが、主要な軍事的決着は在位中に生じたため計上対象とした(confidence medium、開戦時期が即位前後にまたがる境界判断による)。侯景の乱(王僧辯・陳霸先による鎮圧、552年3月終結)・河東王蕭誉の乱(549年)・岳陽王蕭察の乱(549年、後の後梁宣帝)はいずれも世祖の正式即位(552年12月13日)より前に完全に終結しており、在位期間外の出来事として計上しない(当時、世祖はまだ皇帝を称しておらず湘東王・仮黄鉞・都督中外諸軍事・司徒承制として簡文帝・豫章王ら名目上の皇帝を奉じる立場だった)。西魏(宇文泰配下)による554~555年の江陵侵攻・世祖弑殺は、対等な独立政権(西魏)との対外戦争・南北朝間の統一戦争であり、RULESの南北朝特有除外規定に従い反乱鎮圧には含めない。西魏に降った蕭詧(後梁宣帝)が554年の侵攻に加勢した件も同じ理由で対外戦争の一部として除外する。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一の2件(蕭紀の乱・陸納の乱)を対称的に計上した。侯景の乱・河東王蕭誉の乱・岳陽王蕭察の乱は世祖の正式即位前に完結しているため対象外。西魏による554~555年の江陵侵攻・世祖弑殺(deathCauseで既に『処刑』として記録済み)は対等な独立政権との対外戦争のため被反乱には含めない(南北朝間の統一戦争除外規定)。江陵陥落時の内応者による西門開放(『反者斩西門関以納魏師』)は首謀者不明かつ西魏侵攻という対外戦争の一部として生じた内応行為であり、独立した反乱首謀者・蜂起地点として扱えないため別件として計上しない。

遷都回数

在位中に遷都1回(0552年 建康→江陵)。

即位時年齢・没年齢

生年月(天監七年八月)・没年齢47歳(「時年四十七」)はいずれも直接記載。即位時年齢45歳は生年508年と即位年552年(reigns.startDate=承聖元年十一月丙子)から逆算(552-508+1=45)、没年齢47歳(554年時点相当、554-508+1=47)とも整合し相互検証済み。

在位中の出来事(7件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧552年5月16日〜553年8月20日蕭紀の乱(益州政権による帝位簒奪の内乱)

首謀者: 蕭紀(武陵王、世祖の弟、益州政権『天正』=liang-xiaoji)

結果: 鎮圧成功。世祖の要請で西魏が背後(益州)を衝いたため蕭紀軍は大潰し、承聖二年七月(553年)蕭紀は敗走中に戦死した。ただし益州そのものはこれに乗じた西魏(尉遅迥)に奪われ、梁は蜀地を喪失した。

梁王朝内部の帝位を巡る内乱。蕭紀は別人物として本データセットに登録済み(liang-xiaoji)で、552年5月に成都で皇帝を自称(改号天正)、8月に東下して世祖と交戦、世祖の即位(552年12月13日)をまたいで承聖二年8月まで継続し敗死した。開戦は世祖の正式即位前だが、主要な軍事的決着(西魏の介入・蕭紀の敗死)は世祖の在位中に生じたため計上した。

被反乱552年5月16日〜553年8月20日蕭紀の乱(益州政権による帝位簒奪の内乱)

首謀者: 蕭紀(武陵王、世祖の弟、益州政権『天正』=liang-xiaoji)

結果: 世祖側が勝利し蕭紀は敗死したが、益州は漁夫の利を得た西魏に奪われた。

正統側(世祖)から見た被反乱として、rebellionSuppressionCountと対称的に計上(対立政権の首謀者・蕭紀自身の記録では自らの簒奪行動を親征、敗死を被反乱に計上する運用のため、正統側の世祖にも鎮圧・被反乱の両方に計上)。

反乱鎮圧552年10月〜553年6月陸納の乱(湘州反乱)

首謀者: 陸納(湘州刺史・王琳の長史)

結果: 鎮圧成功。王僧辯配下の討伐軍により承聖二年六月(553年)湘州は平定された。

世祖が湘州刺史・王琳を殿内で拘禁したことへの反発から、王琳の長史・陸納とその将・潘烏累らが挙兵し湘州(世祖の子・方略が刺史を務めていた)を襲撃・占拠した。挙兵は世祖の正式即位(552年12月13日)の約1ヶ月前だが、討伐軍の派遣・平定は承聖二年(553年)1月から6月にかけて世祖の在位中に行われたため計上した。

被反乱552年10月〜553年6月陸納の乱(湘州反乱)

首謀者: 陸納(湘州刺史・王琳の長史)

結果: 承聖二年六月、湘州奪回・鎮圧成功。

rebellionSuppressionCountと対称的に計上(服属官の離反による武装蜂起)。

改元552年12月13日承聖元年(552年)冬十一月丙子、江陵にて皇帝に即位し、詔して「可改太清六年為承聖元年」と改元(即位に伴う建元)。

承聖元年(552年)冬十一月丙子、江陵にて皇帝に即位し、詔して「可改太清六年為承聖元年」と改元(即位に伴う建元)。それ以前は太清年号(大宝を称する侯景擁立の簡文帝・豫章王政権の年号は認めず「世祖猶稱太清○年」と一貫して太清を使用し続けていた)。承聖二年・三年は改元を伴わない年次進行のみで、元帝の在位中(承聖三年十二月の江陵陥落・崩御まで)に他の改元は行われていない。

出典: 梁書 本紀第五 元帝

遷都552年12月13日建康 → 江陵

侯景の乱で建康(台城)は荒廃、552年3月に王僧辯が奪回したものの、荊州刺史として江陵に拠っていた世祖(蕭繹、後の元帝)は建康に戻らず、承聖元年十一月丙子(552年)、江陵にて即位した。梁書卷五元帝紀「世祖即皇帝位於江陵」。承聖二年(553年)の詔では「先次建鄴,行實京師…然後六軍遄征…拜謁茔陵,修復宗社」と建鄴(建康)還都の意向を示したが実行されず終わった。南史卷八(梁本紀下)は「武陵之平,議者欲因其舟艦遷都建鄴,宗懍・黄羅漢皆楚人,不願移,帝及胡僧祐亦倶未欲動…宗懍及御史中丞劉懿以為建鄴王氣已尽…於是乃留」と記し、建鄴遷都が朝議されたが元帝が江陵に留まったことを明記。南史周弘正傳にも同様の議論(「時朝議遷都,但元帝再臨荊陝,前後二十餘年,情所安戀,不欲歸建業…並欲即都江陵」)があり、江陵が事実上の梁朝首都として機能していたことが裏付けられる。554年十一月、西魏軍により江陵陥落、元帝は殺害された。(出典: 梁書 卷五 元帝紀/南史 卷八 梁本紀下・南史 周弘正傳)

親征554年12月西魏(宇文泰配下・柱国于謹らの軍、蕭詧も加勢)

対象: 西魏(宇文泰配下・柱国于謹らの軍、蕭詧も加勢)

結果: 敗北。守将胡僧祐が流矢に当たり戦死、六軍敗走、内応者が西門関を斬って西魏軍を引き入れ江陵陥落、世祖は捕縛され後に殺害された。

承聖三年(554年)十一月辛亥、西魏軍による江陵包囲の総攻撃に対し『魏軍大攻、世祖出枇杷門、親臨陣督戦』と、世祖自身が枇杷門を出て前線で戦闘を直接指揮した記述があり、皇帝本人の出陣を示す記述として親征に計上した。対等な独立政権(西魏)との対外戦争であり反乱鎮圧・被反乱には含めない。防衛戦であり遠方への遠征ではない点で典型的な『親征』とはやや性質が異なるためconfidence medium。西暦月は死去日(承聖三年十二月辛未=555-01-27)から逆算した近似(旧暦十一月)。

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