中国皇帝統計

和帝

斉・南北朝|在位 501–502年

諱(本名)
蕭宝融
在位
501–502年
在位期間
1年16日365名中294位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
15歳(数え年)269名中・長寿順255位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:和帝

即位の経緯

東昏侯打倒の義兵運動の中で、荊州の蕭穎冑と雍州の蕭衍が結び、南康王寶融を擁立。「西中郎將南康王宜纂承皇祚」(南齊書卷8 和帝紀)。

出典: 南齊書/卷8(和帝紀)補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

『南史』卷5原文(zh.wikisource.orgで直接確認):「沈約曰『今古殊事,魏武所云不可慕虛名而受實禍』。梁武頷之。於是遣鄭伯禽進以生金,帝曰『我死不須金,醇酒足矣。』乃引飲一升,伯禽就加折焉。」沈約の進言により梁武帝(蕭衍)が了承、鄭伯禽が派遣され、生金(毒)を拒否し泥酔した和帝を絞殺。『南齊書』は「薨」とのみ記し自然死のように婉曲に記述している(梁の蕭子顕撰につき梁室による隠蔽の可能性)が、原典の南史記述に基づき暗殺に分類(劉宋順帝・梁敬帝と同様、政権交代後の隠密な謀殺のパターン)。

出典: 南史/卷05 齊本紀下第五補記: zh.wikisource.org(原文直接確認)。南齊書/卷8は自然死のように婉曲表現

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

和帝在位期間を通読し、年号は「中興」(元年・二年)のみで、途中改元の記事はない。即位時の建元1回のみを計上。

大赦回数

和帝在位期間(中興元年三月即位〜中興二年三月禅位)の本紀本文を通読し、「大赦」と明記された記事を確認した。即位当日の1回のみで、それ以外に在位中の大赦記事は見当たらない。

立后回数

和帝紀(卷八)を通読したが、皇后の冊立に関する記述は一切確認できない。和帝は在位期間が短く(1年余り)、皇后不在のまま禅位・崩御したと考えられる。よってcount:0として計上。

皇太子廃立回数

和帝紀(卷八)を通読したが、皇太子・皇太弟・皇太孫等の冊立・廃立に関する記述は一切確認できない。和帝在位はわずか1年余りで、次代への継承は禅譲(梁への譲位)によるものであり、皇太子制度自体が機能していない。よってcount:0として計上。

親征回数

南斉書巻八・和帝紀および南史巻五(斉本紀下)を確認したが、和帝(蕭宝融)自身が「帝自将」「親征」等の形で軍を率いて出陣したという記述は在位期間(中興元年三月即位〜中興二年三月禅位)を通じて一切ない。東昏侯打倒に至る軍事行動(郢州の張冲拒守、巴西太守鲁休烈・巴東太守萧惠训子璝の拒戦、吴子阳十三軍の郢州救援など)はすべて長史蕭穎胄・雍州刺史蕭衍(後の梁武帝)とその配下の将軍たちが指揮したものであり、南康王(和帝)本人は擁立された名目上の盟主・皇帝に過ぎず、車駕が東帰して姑孰に至った(車駕東帰至姑孰)以外に自ら軍を率いて戦地に赴いた記録はない。よって該当記事なしとして0件とする。

反乱鎮圧回数

和帝(南康王)擁立に伴う挙兵(永元二年十一月、長史蕭穎胄が刘山阳を殺し蕭衍を奉じて挙義)から建康城平定(中興元年十二月)に至る一連の軍事行動は、当時なお在位中であった東昏侯(蕭宝卷)政権への反旗・簒奪戦であり、和帝(蕭宝融)自身は南康王〜宣城王〜皇帝として擁立された対立政権(挑戦者側)の名目上の盟主である。すなわちこれは和帝が自らの政権に対する反乱を鎮圧した事例ではなく、逆に和帝側(蕭穎胄・蕭衍陣営)が正統政権(東昏侯)を攻める側であり、東昏侯配下の郢州刺史張冲・巴西太守鲁休烈・巴東太守萧惠训子璝・東軍主吴子阳らの抵抗は和帝への反乱ではなく、和帝側の進攻に対する東昏侯側の防戦にあたる(本人が親征していないためpersonalCampaignCountにも計上せず)。この整理はルール中の「対立政権の首謀者」パターンに準じるが、和帝自身は実質的な首謀者ではなく蕭穎胄・蕭衍に擁立された傀儡であるため、いずれにせよ和帝自身の鎮圧回数としては計上しない。また即位後(中興元年三月〜二年三月)に湘東王宝晊・邵陵王宝攸・晋熙王宝嵩・桂阳王宝贞らが誅殺され鄱陽王宝寅が魏へ出奔しているが、これらは「伏誅」「奔虏」とのみ記され、挙兵・武装蜂起を示す記述がなく、実権を握った蕭衍による宗室粛清(謀反の摘発・処断)とみられるため、実際の兵力行使を伴う反乱の証拠が不十分であり計上しない。confidenceはmediumとし、対立政権擁立過程の解釈に幅がある点を明記する。

被反乱回数

和帝在位中(中興元年三月乙巳即位〜中興二年三月丙辰禅位)に、和帝自身の政権に対する武装反乱・クーデターの記述は南斉書・南史とも見当たらない。中興二年三月丙辰の「禅位梁王」(南史では「逊位于梁」)は武力弑逆を伴わない形式的な禅譲として記述されており、指示文の『平和的禅譲であれば被反乱には計上しない』という基準に従い計上しない。禅位後、巴陵王として姑孰に幽閉された和帝は四月戊辰に薨去(南史によれば梁武帝の意を受けた鄭伯禽が生金を勧め、毒殺同然の死を迎えたとされる)しているが、これは既に譲位後・在位期間終了後の出来事であり、かつ在位中の軍事的反乱事件ではなく死因(弑逆・毒殺疑い)に分類されるべき事象のため、本項目には含めない。

遷都回数

南斉書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から502年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

没年齢15歳は本紀末尾に「薨、年十五」と直接記載。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元501年4月14日中興元年三月乙巳、即皇帝位と同日に改元(原文:「即皇帝位,大赦,改元…即永元三年也」)。

中興元年三月乙巳、即皇帝位と同日に改元(原文:「即皇帝位,大赦,改元…即永元三年也」)。永元三年を中興元年に改めたもので、即位に伴う最初の建元。以降、中興二年(禅位年)まで新たな改元の記事は本紀中に見当たらない。

出典: 南齊書/卷八(和帝紀)

大赦501年4月14日中興元年三月乙巳、即皇帝位と同日に「大赦」を実施(原文:「即皇帝位,大赦,改元」)。

中興元年三月乙巳、即皇帝位と同日に「大赦」を実施(原文:「即皇帝位,大赦,改元」)。これ以前の永元三年正月乙巳「王受命,大赦」(唯梅蟲兒・茹法珍等不在赦例)は、蕭寶融がまだ皇帝ではなく宣城王/相國の身分であった時点の恩赦のため、和帝在位期間の集計から除外した。

出典: 南齊書/卷八(和帝紀)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。