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斉・南北朝第7代

和帝蕭宝融

在位 501–502年(1年16日)501年4月14日 〜 502年4月30日

日本は古墳時代

蕭宝融は南斉の明帝の第8子で、501年に江陵で擁立されたが、翌年蕭衍に帝位を譲り、まもなく没した。

和帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 501年4月14日〜502年4月30日
1年16日長い順287位/365人即位の年齢は不詳
没年
502年5月2日15歳(数え年)長生き順同率252位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 廃帝斉・南北朝和帝は廃帝の弟
次代
  • 武帝蕭衍梁・南北朝武帝は和帝の同族(遠縁)
呼び名
姓蕭諱宝融字智昭呼び名の見方

出典

在位
南斉書 本紀第八 和帝紀(在位終了日の確認のため梁書 本紀第一 武帝紀上も参照)
死因
南史/卷05 齊本紀下第五
即位経路
南齊書/卷8(和帝紀)

生涯

どんな皇帝か

南斉書のは、が一時来たのは定めであったにせよ、美名と大号を得たのは幸いだったと評する。

即位まで

明帝の第8子で、東昏侯と同じ母から生まれ、499年に南康王に改められて荊州となった。500年、荊州の蕭穎冑が挙兵し、のちに梁を建てる蕭衍は即位を勧める上表をした。南康王を襄陽に迎えるよう勧められても蕭衍は従わず、人の手中に置けば使われると案じる者には、事が成れば誰が従わぬことがあろう、人の指図など受けぬと答えた。夏侯亶が伝えた宣徳太后の令で宣城王・となり、501年に江陵で即位して中興とした。同時に東昏侯を涪陵王に廃し、蕭衍に征討の諸軍を任せた。

史料について

蕭穎冑が奉じた相手を、南斉書の和帝紀は梁王蕭衍とし、南史は南康王とする。

治世と最期

同じ年、帝を補佐した蕭穎冑が病死すると、自ら出て哭した。穎冑のは、帝は年若いので祖宗の創業の苦労を思うよう求め、蕭衍を頼るよう勧めた。その年の末に建康が平定されると蕭衍はし、502年には相国・梁公、ついで梁王に進んだ。

502年、帝とは母の違う邵陵王・晋熙王・桂陽王と、湘東王宝晊が誅され、同母兄の鄱陽王宝夤は北魏へ逃れた。同じ年、東へ帰る途中の姑熟で梁王にし、巴陵王として姑熟に置かれた。帝の名で出た禅位の詔は、自らを凡庸で大道に暗いと述べる。帝に仕えた顔見遠は、が行われると食を断ち、憤って数日で死んだ。

まもなく、梁の武帝は南海郡へ移そうとしたが、沈約に虚名を慕って実禍を受けるなと言われてうなずき、鄭伯禽を遣わして生金を進めさせた。蕭宝融は死ぬのに金は要らない、酒で足りると言って酒を飲み、泥酔したところを伯禽に殺された。

史料について

南斉書と梁書の帝紀は、巴陵王が薨じたとだけ記し、殺害を書かない。

和帝とつながる皇帝

南北朝の勢力図(501年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

501年の地図に、和帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元1・大赦1
  1. 改元501年4月14日元号を「中興」とする
  2. 501年4月14日

斉・南北朝の歴代皇帝

歴代7人の一覧

年表

南北朝の時代を年表で見る

斉・南北朝が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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