和帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 501年4月14日〜502年4月30日
- 没年
- 502年5月2日15歳(数え年)長生き順同率252位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 廃帝斉・
南北朝 和帝は廃帝の弟
- 廃帝斉・
- 次代
- 武帝蕭衍梁・
南北朝 武帝は和帝の同族(遠縁)
- 武帝蕭衍梁・
- 呼び名
- 姓蕭諱宝融字智昭呼び名の見方
出典
- 在位
- 南斉書 本紀第八 和帝紀(在位終了日の確認のため梁書 本紀第一 武帝紀上も参照)
- 死因
- 南史/卷05 齊本紀下第五
- 即位経路
- 南齊書/卷8(和帝紀)
生涯
どんな皇帝か
南斉書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、神器帝位のしるしの宝物。転じて帝位そのものが一時来たのは定めであったにせよ、美名と大号を得たのは幸いだったと評する。
即位まで
明帝の第8子で、東昏侯と同じ母から生まれ、499年に南康王に改められて荊州刺史州という地方の区画を治めた長官となった。500年、荊州の長史長官を補佐する役人蕭穎冑が挙兵し、のちに梁を建てる蕭衍は即位を勧める上表をした。南康王を襄陽に迎えるよう勧められても蕭衍は従わず、人の手中に置けば使われると案じる者には、事が成れば誰が従わぬことがあろう、人の指図など受けぬと答えた。夏侯亶が伝えた宣徳太后の令で宣城王・相国臣下として政治を取りまとめる最高の位となり、501年に江陵で即位して中興と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。同時に東昏侯を涪陵王に廃し、蕭衍に征討の諸軍を任せた。
史料について
蕭穎冑が奉じた相手を、南斉書の和帝紀は梁王蕭衍とし、南史は南康王とする。
治世と最期
同じ年、帝を補佐した蕭穎冑が病死すると、自ら出て哭した。穎冑の遺表臣下が死に際に君主へ残した文書は、帝は年若いので祖宗の創業の苦労を思うよう求め、蕭衍を頼るよう勧めた。その年の末に建康が平定されると蕭衍は承制皇帝に代わって命令を出し、官を任じることし、502年には相国・梁公、ついで梁王に進んだ。
502年、帝とは母の違う邵陵王・晋熙王・桂陽王と、湘東王宝晊が誅され、同母兄の鄱陽王宝夤は北魏へ逃れた。同じ年、東へ帰る途中の姑熟で梁王に禅位皇帝が位をほかの人に譲ることし、巴陵王として姑熟に置かれた。帝の名で出た禅位の詔は、自らを凡庸で大道に暗いと述べる。帝に仕えた顔見遠は、禅譲皇帝が位をほかの人に譲ることが行われると食を断ち、憤って数日で死んだ。
まもなく、梁の武帝は南海郡へ移そうとしたが、沈約に虚名を慕って実禍を受けるなと言われてうなずき、鄭伯禽を遣わして生金を進めさせた。蕭宝融は死ぬのに金は要らない、酒で足りると言って酒を飲み、泥酔したところを伯禽に殺された。
史料について
南斉書と梁書の帝紀は、巴陵王が薨じたとだけ記し、殺害を書かない。
和帝とつながる皇帝

勢力図
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501年の地図に、和帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
改元1・大赦1
- 改元501年4月14日元号を「中興」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。501年4月14日
斉・南北朝の歴代皇帝
歴代7人の一覧年表
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斉・