蕭淵明の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 555年8月30日〜555年10月27日
- 没年
- 556年6月2日年齢不詳
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
- 先代
- 元帝梁・
南北朝 蕭淵明は元帝の従兄弟
- 元帝梁・
- 次代
- 敬帝梁・
南北朝 敬帝は蕭淵明の同族(遠縁)
- 敬帝梁・
- 呼び名
- 姓蕭諱淵明字靖通別称貞陽侯呼び名の見方
出典
- 在位
- 南史 巻八 梁本紀下(敬帝紀);梁書 本紀第六 敬帝紀(九月甲辰条の日付確認のため参照)
- 死因
- 南史 卷八 梁本紀下
- 即位経路
- 南史 卷八 梁本紀下
生涯
どんな皇帝か
侯景は上表で凡庸で臆病な貞陽と罵り、陳書の論は、北斉の兵を借りて来たと責める。
即位まで
長沙王蕭懿の子で、武帝に親愛されて貞陽侯に封じられた。豫州刺史州という地方の区画を治めた長官のとき民が徳政の碑を立てることになると、自ら人を集めて碑石を引かせ、識者に自分で立てた碑だと笑われた。547年、北伐の都督軍をまとめて指揮する長官として寒山で東魏と戦った。策を出さず、諸将が相談すると怒って多言するなと言った。敵が攻めて来たときは酔って起きられず、大敗して捕らえられた。諸軍が住民を略奪するのを止められなかったが、自分の一軍にだけは禁じたので、北の人々は義王と呼んだ。東魏の孝静帝は彼を責めたうえで赦した。梁の社稷国家のこと(もとは土地と穀物の神)が崩れたと聞くと、昼も夜も泣き続けた。555年、北斉は彼を梁主と定めて送り出した。王僧辯ははじめ受け入れず、陳霸先もこれに反対して王僧辯と争った。北斉軍が東関で勝つと、王僧辯は受け入れに転じ、晋安王を皇太子にと求めた。蕭淵明は返書で、乱世には年長の君を立てるべきだと述べつつ、皇太子には晋安王だけを考えると誓った。建康に入るとき朱雀門を望んで慟哭し、宿所に着くまで泣いて挨拶に応えた。そのうえで帝位に即き、天成と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることして晋安王を皇太子とした。
史料について
諸将への答えを、資治通鑑は、その時に処置すると言うだけだったとする。
治世と最期
王僧辯を大司馬軍事をつかさどる、最高位の大臣の一つとし、子を北斉へ送って謝意を表させた。同じ年、陳霸先が王僧辯を襲って殺し、蕭淵明は位を退いた。
蕭淵明は司徒朝廷で最も位の高い大臣の一つ・建安郡公一つの郡を領地とする、高い爵位とされ、太傅皇帝を補佐し導く、最高位の重臣の位に移った。556年、北斉が返還を求め、陳霸先が送り出そうとしたところで、背中に疽ができて死んだ。のちに閔皇帝と追諡亡くなった人に、あとから死後の名を贈ることされた。
史料について
退位を、陳書は襲撃の2日後とし、梁書の敬帝紀は襲撃と同じ日の条に置く。
蕭淵明とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・改元1・大赦1
- 改元555年8月30日元号を「天成」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。555年8月30日
- 反乱555年10月27日陳霸先による王僧辯襲殺・
蕭淵明廃位のクーデター
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