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宋・南北朝

劉子勛

在位 466年(224日)466年2月7日 〜 466年9月19日

日本は古墳時代

劉子勛は宋の孝武帝の第三子で、幼くして担がれ、尋陽で帝位についた。

劉子勛の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 466年2月7日〜466年9月19日
224日長い順307位/365人即位の年齢は不詳
没年
466年9月19日11歳(数え年)長生き順同率258位/266人
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓劉諱子勛字孝徳別称晋安王呼び名の見方

出典

在位
宋書 本紀第八 明帝紀(在位終了記事)/宋書 卷八十 列傳第四十 孝武十四王(晉安王子勛傳、即位記事)
死因
宋書/卷80 列伝第40 孝武十四王(晋安王子勛)
即位経路
宋書/卷80 列伝第40 孝武十四王(晋安王子勛)

生涯

どんな皇帝か

宋書の鄧琬らの伝のは、劉子勛は孝武帝の血を引くが孝武帝の家運はすでに尽きていたとしつつ、どちらが正しいか分からないとし、明帝側が勝てたのは都を押さえていたからだと述べる。

即位まで

孝武帝の第三子で、生母は陳淑媛、前廃帝とは母の違う兄弟にあたる。460年に晋安王に封じられた。眼を患い、父に愛されなかった。465年、前廃帝を恐れた何邁が劉子勛を立てようとして誅されると、祖父の文帝や父と同じく兄弟の順が第三の劉子勛を憎んでいた前廃帝は、自決を迫る薬を送った。これを知ったの鄧琬は、先帝に愛子を託された恩に死をもって報いると言って、劉子勛を奉じて挙兵した。まもなく明帝が前廃帝を除き、劉子勛をに進めたが、鄧琬は、兄弟の順も挙兵の地も孝武帝と符合するとして令書を地に投げた。466年、劉子勛は尋陽で帝位につき、義嘉とした。即位の日は雲雨で暗かった。

史料について

前廃帝が憎んだわけは鄧琬伝と資治通鑑にあり、劉子勛伝には無い。知らせが鄧琬に届いた経緯を、劉子勛伝は使者が湓口で止まって知らせたとし、鄧琬伝はらが泣いて告げたとする。

治世と最期

益州の蕭惠開も、景和は暗愚でも孝武帝ので、その次に続く者もまだ多いとして劉子勛を推戴し、兵を送ったが敗れた。鄧琬は吝嗇でを売り、酒宴と博奕にふけり、内外の心は離れた。劉子勛側は袁顗に全軍を統べさせて鵲尾に陣を構えたが、糧道を断たれて敗れ、劉胡も袁顗も逃げた。

劉胡が偽りの報せを送って去ると、劉子勛側の張悦は兵を伏せて鄧琬を呼んだ。鄧琬が晋安王を斬って罪を謝するほかないと答えると、張悦は殿下を売るのかととがめ、次男の張洵らが鄧琬を斬った。張悦はその首を持って明帝側に降った。劉子勛は捕らえられ、沈攸之の軍に斬られて首を都へ送られた。

史料について

劉子勛の最期を、宋書の明帝紀は死を賜ったと書き、鄧琬伝は斬った、劉子勛伝は母とともに誅したと書く。宋書の史臣の一人は、晋安王らが配下を率いて乱を成し、孝武帝の血筋も滅んだと評する。

劉子勛とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱1・改元1
  1. 反乱466年義嘉の乱(明帝方による討伐・鎮圧)
  2. 改元466年2月7日元号を「義嘉」とする

宋・南北朝の歴代皇帝

歴代8人の一覧

年表

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