義嘉政権
宋・南北朝|在位 466年
- 諱(本名)
- 劉子勛
- 在位
- 466年
- 在位期間
- 255日365名中309位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 11歳(数え年)269名中・長寿順261位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
明帝の即位に反発した尋陽の反乱勢力(鄧琬ら)に擁立され、泰始二年正月に尋陽で即位(自称)。
出典: 宋書/卷80 列伝第40 孝武十四王(晋安王子勛)補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
明帝方の沈攸之軍が尋陽を攻略した際に誅殺。「誅子勛及其母,同逆皆夷滅」(宋書卷80 晋安王子勛伝)。討伐軍による攻略後の処断のため処刑に分類。
出典: 宋書/卷80 列伝第40 孝武十四王(晋安王子勛)補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
義嘉政権期間中(0466-01-07〜0466-09-19)に確認できる改元は即位に伴う建元(義嘉)の1回のみ。それ以外の改元記事は見当たらない。
大赦回数
『宋书』卷八十(子勲伝)および卷四十四(鄧琬伝)にて義嘉政権(泰始二年正月七日〜八月)の記事を通読したが、寻阳の子勲政権自身が「大赦天下」等の全国規模の恩赦を発したとする記載は見当たらない。同時期に見える「大赦天下」(例:泰始二年九月「六军解严。大赦天下」)は明帝(劉彧)側による赦であり、本設問の注意事項に従い明帝側の出来事として除外した。
立后回数
子勲は死去時11歳の幼年であり、皇后(配偶者)の冊立に関する記載は『宋书』子勲伝・鄧琬伝のいずれにも存在しない。
皇太子廃立回数
義嘉政権は泰始二年正月七日の即位から同年八月の滅亡までわずか約8ヶ月で、皇太子を立てた記載自体が存在せず、廃立の記事も見当たらない。
親征回数
義嘉の乱=自らの帝位簒奪の軍事行動を1件として計上(RULESで劉子勛本人が明示的に例示されているケースへの適用)。子勛本人は挙兵当時11歳前後の少年で、原典に自ら軍を率いた記述はなく実質的には邓琬ら擁立勢力主導だった点に留意。
反乱鎮圧回数
義嘉政権として独立して存在した泰始二年(466年)正月〜八月の間、子勛側が自陣営内部で別個の離反・蜂起を武力鎮圧した記録は宋書卷80列伝第40(晋安王子勛伝)・卷八明帝紀のいずれにも見当たらない(該当記事なし)。郢州行事荀卞之らの去就動揺は記されるが、子勛側による武力鎮圧行動としては記述されていない。子勛は明帝方から鎮圧される側(rebellionSufferedCount側)であり、鎮圧する主体ではないため0件とした。
被反乱回数
義嘉の乱における明帝方からの討伐・敗死を1件として計上。personalCampaignCountの事件と同一の軍事衝突を子勛自身の視点(被害を受けた側)から計上したものであり、両フィールドの重複は想定通り(RULES上許容される重複)。
遷都回数
宋書本紀を通読。劉宋建国(建康定都、建国時の定都)から479年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
没年齢11歳は列伝に「子勳死時、年十一」と直接記載。大明四年(460年)に「年五歳」で晋安王に封じられた記事とも整合(数え年)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征466年明帝(劉彧)政権・南朝宋の帝位
対象: 明帝(劉彧)政権・南朝宋の帝位
結果: 敗死(泰始二年八月、建安王劉休仁ら明帝方に平定され賜死)
泰始元年(465年)十二月、明帝の即位に反発した鎮軍長史邓琬らに擁立され晋安王子勋(当時11歳前後)が江州で挙兵、翌泰始二年(466年)正月七日に寻陽城で自ら帝位に即き義嘉元年と改元、四方の州鎮(袁顗・劉胡・薛安都・殷琰・沈文秀ら)の同調を得た(宋書卷80列伝第40・卷八明帝紀)。ただし実際の軍事指揮は邓琬・孫冲之・劉胡・袁顗ら諸将が担っており、子勛自身が『帝自将』等の形で戦場に赴いた記述は原典に見当たらない。RULESで劉子勛が対立政権の首謀者の例として明示され『自らの帝位簒奪の軍事行動を親征に計上する』とされているため、この一連の義嘉政権樹立の軍事行動を1件として計上した。confidence medium(本人が武将として陣頭指揮した史料的裏付けはなく、名目上の首謀者としての計上のため)。
被反乱466年義嘉の乱(明帝方による討伐・鎮圧)
首謀者: 沈攸之・建安王劉休仁ら明帝方諸将(討伐軍主体は皇太后令に基づく明帝の正統政権側)
結果: 明帝方の勝利。泰始二年八月己卯、建安王休仁が伪尚書左仆射袁顗を斬り江・郢・荆・雍・湘五州を平定、子勛・安陸王子綏・臨海王子頊・邵陵王子元は賜死となった。子勛没時11歳(宋書卷80列伝第40「子勋死时,年十一」)。
明帝(太宗)は子勛の即位宣言直後、司徒建安王休仁を都督征討諸軍事に任じ、沈攸之・呉喜・張興世・劉勔ら諸将を派遣して討伐させた。台軍が鹊尾で袁顗軍の糧道を断ち劉胡が敗走、袁顗も敗走したのち沈攸之の諸軍が寻陽に至り子勛とその母を誅殺、党与も皆滅ぼされた(宋書卷80列伝第40)。これは正統側(明帝)から見た反乱鎮圧(明帝側のrebellionSuppressionCountに対応計上される想定)であり、対立政権首謀者である子勛自身の視点では被反乱(rebellionSufferedCount)として1件計上する(RULES:対立政権の首謀者は鎮圧回数には計上せず被反乱回数のみに計上)。confidence high(宋書帝紀・列伝両方で経緯・結果が明確)。
改元466年1月7日鄧琬らに擁立され、寻阳城にて即位(「奉子勳為帝、即偽位於尋陽城」)。
鄧琬らに擁立され、寻阳城にて即位(「奉子勳為帝、即偽位於尋陽城」)。年号を「景和二年」から「義嘉元年」に改元(建元)。『宋书』卷八十子勳伝:「泰始二年正月七日、奉子勳為帝、即偽位於尋陽城、年號義嘉元年」。卷四十四鄧琬伝にも同日の記事あり:「泰始二年正月七日、即位於尋陽城、改景和二年為義嘉元年」。
出典: 宋书卷八十 列传第四十(晋安王子勋伝)/卷四十四 列传第四十四(邓琬传)