道宗
遼|在位 1055–1101年
- 諱(本名)
- 耶律査剌(耶律洪基)
- 在位
- 1055–1101年
- 在位期間
- 45年179日365名中10位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 70歳(数え年)269名中・長寿順12位タイ
- 改元
- 5回332名中18位タイ
- 大赦
- 11回267名中27位タイ
- 立后
- 2回204名中14位タイ
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 3回225名中129位タイ
- 被反乱
- 4回289名中127位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
興宗の嫡長子として遺詔を受け柩前で即位。
出典: 遼史 巻二十一(道宗紀一)
死因の経緯
前年末より「帝不豫」の状態が続き、正月には病を押して朝賀を受けた翌々日に崩御。
出典: 遼史(道宗紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中の建元・改元は「清寧」(即位に伴う建元)「咸雍」「大康」「大安」「寿昌」の計5回。いずれも「改元」または「改…为…」と明記されており、前代の元号をそのまま継続使用したケースは無い。道宗は父興宗崩御と同日に即位した直系の皇太子であり、皇帝以外の身分(王等)での独自の在位・改元期間は存在しないため、2段階即位パターンの注記は不要と判断した。
大赦回数
遼史 本紀卷二十一~二十五(道宗一~五)を通読し、「大赦」「大赦天下」に加え同義語の「肆赦」(大赦と同義の全国規模恩赦、本データセットの先例=後梁朱友珪の事例に準拠しカウント対象に含めた)と明記された全国規模の恩赦のみを抽出。「曲赦」(地域・囚人範囲限定)「赦杂犯死罪以下」「减杂犯死罪以下」等、対象や罪種が限定された恩赦は全国規模と認められないため除外した(大安元年・寿昌元年の改元詔に付随する恩赦はいずれも「赦杂犯死罪以下」「减杂犯死罪以下」であり全国大赦ではないため対象外)。
立后回数
在位中、萧氏を皇后に冊立する記事が2回確認された(再冊立ではなく別人物の新規冊立)。第一の皇后(清寧元年冊立、後の宣懿皇后萧観音に比定)は大康元年11月に讒言により賜死。第二の皇后(大康2年冊立)は大康8年12月に惠妃へ降格されており(原文「降皇后为惠妃,出居乾陵。」)、以降崩御(寿昌7年)まで新たな皇后冊立の記事は本紀中に見られない。
皇太子廃立回数
咸雍元年正月に梁王耶律浚が皇太子に冊立されたが(立太子そのものはカウント対象外)、大康3年、権臣耶律乙辛の讒言(萧速撒等が皇太子擁立を謀ったとする冤獄)により皇太子は杖刑・幽閉の上、庶人に廃された。廃立は在位中1回のみ確認。なお廃太子(浚)はその後同年11月に耶律乙辛の手の者により暗殺され、大康9年に「昭怀太子」と追諡されているが、これは追贈であり皇太子への復位ではないため別途カウントしない。
親征回数
清寧元年(1055)から寿昌七年(1101)崩御までの遼史本紀全文を通読したが、道宗自身が軍を率いて出征したとする記述は見当たらない。阻卜叛乱・五国剖阿里部叛乱・磨古斯の乱いずれも仁先・耶律乙辛・萧素飒・耶律斡特剌ら将帥に討伐を命じる形で対処されており、皇帝自身の親征は確認できない。道宗は捺鉢(四時巡幸・狩猟)や仏事への傾倒が記述の中心で、父興宗のような対外親征の記録を欠く。
反乱鎮圧回数
咸雍八年正月「乌古敌烈部详稳耶律巢等奏克北边捷」「以讨北部功」という記述があるが、対象部族名・反乱の性質が不明瞭なため独立事件として計上しなかった(除外判断)。また大安~寿昌期の磨古斯の乱を関連諸部含め1件として一括計上した点は判断の余地があり、confidenceをmediumとした。
被反乱回数
重元の乱をexception4(内部権力者によるクーデター)としてsuppressionに含めずsufferedのみに計上する判断、および磨古斯の乱を関連諸部含め1件と扱う判断の両方に一定の解釈の幅があるためconfidenceをmediumとした。
遷都回数
遼史本紀・志を通読。太祖耶律阿保機の上京臨潢府定都(建国時の定都)から1125年の滅亡まで上京が一貫した主都(五京制は複都制の陪都)。
即位時年齢・没年齢
遼史 本紀卷二十六(道宗六)寿昌七年正月条「甲戌,上崩于行宫,年七十。」に基づく。正月朔(壬戌)から甲戌までの干支差を数えると13日目にあたり、既知情報の「寿昌7年1月13日崩御」と整合する。生年月日・即位時年齢は本紀中に直接の記載(「時年◯◯」等)が見当たらないため未記録(崩御年齢70から逆算すると1032年生まれ・数え年即位時24歳相当になるが、これは推定であり原文直接記載ではない)。
在位中の出来事(26件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1055年8月16日重熙24年(八月己丑に興宗崩御・即位)八月辛丑、即位に伴う最初の建元として「清寧」に改元、大赦。
重熙24年(八月己丑に興宗崩御・即位)八月辛丑、即位に伴う最初の建元として「清寧」に改元、大赦。原文「辛丑,改元清宁,大赦。」(即位の己丑から辛丑までは干支換算で12日後)。
出典: 遼史 本紀卷二十一(道宗一)
大赦1055年8月16日重熙24年(清寧元年)八月辛丑、興宗崩御・即位(八月己丑)から12日後に改元清寧と同時に大赦。
重熙24年(清寧元年)八月辛丑、興宗崩御・即位(八月己丑)から12日後に改元清寧と同時に大赦。原文「辛丑,改元清宁,大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十一(道宗一)
立后1055年12月清寧元年12月戊子、応聖節(太皇太后の寿を祝う節)にあたり妃萧氏を皇后に冊立。
清寧元年12月戊子、応聖節(太皇太后の寿を祝う節)にあたり妃萧氏を皇后に冊立。原文「戊子,应圣节,上太皇太后寿,宴群臣、命妇,册妃萧氏为皇后。」
出典: 遼史 本紀卷二十一(道宗一)
大赦1056年11月清寧2年11月甲辰、文武百官が尊号「天佑皇帝」を上り、大赦。
清寧2年11月甲辰、文武百官が尊号「天佑皇帝」を上り、大赦。原文「甲辰,文武百僚上尊号曰天佑皇帝,后曰懿德皇后。大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十一(道宗一)
大赦1058年3月清寧4年3月甲午、肆赦(大赦と同義の全国規模恩赦)。
清寧4年3月甲午、肆赦(大赦と同義の全国規模恩赦)。原文「甲午,肆赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十一(道宗一)
大赦1058年11月清寧4年11月庚辰、再生礼・柴册礼・大册礼を受けた際に大赦。
清寧4年11月庚辰、再生礼・柴册礼・大册礼を受けた際に大赦。原文「庚辰,御清风殿受大册礼。大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十一(道宗一)
被反乱1063年重元の乱(皇太叔重元・涅魯古の謀反)
首謀者: 耶律重元(皇太叔)・耶律涅魯古(楚国王)
結果: 南院枢密使許王仁先・知北枢密院事趙王耶律乙辛らが宿衛数千人を率いて防戦し涅魯古は陣中で射殺、重元は大漠に逃亡後自殺。関与者一族は誅殺
清寧九年七月戊午「皇太叔重元与其子楚国王涅鲁古及陈国王陈六…凡四百人,诱胁弩手军犯行宫」。重元は清寧二年に「天下兵马大元帅」に任じられた軍事的実権を持つ皇族(道宗の叔父)であり、朝廷内部権力者による兵力を伴うクーデター・弑逆未遂に該当するため(exception4)、rebellionSuppressionCountには計上せずsufferedのみに計上した。
改元1065年1月咸雍元年正月辛酉朔、尊号加上とともに「清寧」から「咸雍」へ改元、大赦。
咸雍元年正月辛酉朔、尊号加上とともに「清寧」から「咸雍」へ改元、大赦。原文「文武百僚加上尊号曰圣文神武全功大略广智聪仁睿孝天佑皇帝。改元,大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十二(道宗二)
大赦1065年1月咸雍元年正月辛酉朔、尊号加上・改元咸雍と同時に大赦。
咸雍元年正月辛酉朔、尊号加上・改元咸雍と同時に大赦。原文「文武百僚加上尊号曰圣文神武全功大略广智聪仁睿孝天佑皇帝。改元,大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十二(道宗二)
反乱鎮圧1069年阻卜の反乱(咸雍五年)
首謀者: 阻卜(首謀者個人名の記載なし)
結果: 晋王仁先を西北路招討使として禁軍を率い討伐させ、同年九月に「仁先遣人奏阻卜捷」と勝報あり
咸雍五年春正月「阻卜叛,以晋王仁先为西北路招讨使,领禁军讨之」。
反乱鎮圧1069年五国剖阿里部の反乱(咸雍五年)
首謀者: 五国剖阿里部(首謀者個人名の記載なし)
結果: 萧素飒に討伐を命じ、同年十二月「五国来降。仍献方物」で鎮定
咸雍五年十一月丁丑「五国剖阿里部叛,命萧素飒讨之」。阻卜叛乱とは別の独立した蜂起として計上。
被反乱1069年阻卜の反乱(咸雍五年)
首謀者: 阻卜(首謀者個人名の記載なし)
結果: 仁先の討伐により鎮圧
属部(服属民)の反乱としてsuppression側と同一件を計上。
被反乱1069年五国剖阿里部の反乱(咸雍五年)
首謀者: 五国剖阿里部(首謀者個人名の記載なし)
結果: 萧素飒の討伐により五国来降
属部(服属民)の反乱としてsuppression側と同一件を計上。
大赦1072年12月咸雍8年12月丁丑、坤宁節(皇太后の誕生節)にあたり大赦。
咸雍8年12月丁丑、坤宁節(皇太后の誕生節)にあたり大赦。原文「丁丑,以坤宁节,大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十三(道宗三)
改元1074年12月咸雍10年12月辛巳、翌年(1075年)を「大康」元年とする改元を布告、大赦。
咸雍10年12月辛巳、翌年(1075年)を「大康」元年とする改元を布告、大赦。原文「十二月辛巳,改明年为大康,大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十三(道宗三)
大赦1074年12月咸雍10年12月辛巳、翌年を大康元年とする改元の布告と同時に大赦。
咸雍10年12月辛巳、翌年を大康元年とする改元の布告と同時に大赦。原文「十二月辛巳,改明年为大康,大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十三(道宗三)
大赦1076年3月大康2年3月丁卯、皇太后(仁懿皇后)崩御の直後に大赦。
大康2年3月丁卯、皇太后(仁懿皇后)崩御の直後に大赦。原文「三月辛酉,皇太后崩……丁卯,大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十三(道宗三)
立后1076年8月大康2年8月丁未、先の皇后(萧氏、大康元年11月に賜死)に代わり新たに萧氏を皇后に冊立。
大康2年8月丁未、先の皇后(萧氏、大康元年11月に賜死)に代わり新たに萧氏を皇后に冊立。原文「丁未,册皇后萧氏,封其父祗候郎君鳖里剌为赵王……」
出典: 遼史 本紀卷二十三(道宗三)
皇太子廃立1077年6月大康3年6月丙戌、耶律乙辛らの誣告に基づく鞫治の末、皇太子(耶律浚)を廃して庶人とし上京に幽閉。
大康3年6月丙戌、耶律乙辛らの誣告に基づく鞫治の末、皇太子(耶律浚)を廃して庶人とし上京に幽閉。原文「六月己卯朔……即命乙辛及耶律仲禧、萧余里也、耶律孝杰、杨遵勖、燕哥、抄只、萧十三等鞫治,杖皇太子,囚之宫中。……丙戌,废皇太子为庶人,囚之上京。」
出典: 遼史 本紀卷二十三(道宗三)
大赦1083年11月大康9年11月丙午、梁王延禧(皇孫)を燕国王に進封したのに伴い大赦。
大康9年11月丙午、梁王延禧(皇孫)を燕国王に進封したのに伴い大赦。原文「十一月丙午,进封梁王延禧为燕国王,大赦。」
出典: 遼史 本紀卷二十四(道宗四)
改元1084年12月大康10年12月、翌年(1085年)を「大安」元年とする改元を布告。
大康10年12月、翌年(1085年)を「大安」元年とする改元を布告。ただし恩赦は「赦杂犯死罪以下」(雑犯死罪以下を赦す限定的なもの)にとどまり全国大赦ではない。原文「是月,改明年为大安,赦杂犯死罪以下。」
出典: 遼史 本紀卷二十四(道宗四)
大赦1089年11月大安5年11月丁卯朔、燕国王延禧に子が生まれたことを機に大赦。
大安5年11月丁卯朔、燕国王延禧に子が生まれたことを機に大赦。原文「十一月丁卯朔,燕国王延禧生子,大赦,妃之族属进爵有差。」
出典: 遼史 本紀卷二十五(道宗五)
反乱鎮圧1092年〜1100年阻卜諸部の反乱(磨古斯の乱)
首謀者: 磨古斯(阻卜諸部長)
結果: 約8年にわたり達里底・拔思母・敵烈・乌古札・耶睹刮・梅里急等の関連諸部が呼応し攻防が続いたが、寿昌六年に西北路招討使耶律斡特剌が磨古斯を捕らえ「磔磨古斯于市」で鎮定
大安八年冬十月「阻卜磨古斯杀金吾吐古斯以叛」に始まり、大安九・十年は遼側が挞不也・特抹ら将を失う敗戦も含む激しい攻防が続き、寿昌元年以降斡特剌の反攻で徐々に鎮圧、寿昌六年二月に磨古斯捕縛・処刑で終結。同時期に併記される達里底・拔思母・敵烈等諸部の反復する侵攻・降伏も一連の阻卜系反乱として一括計上した(独立首謀者と見る余地もあり、その場合は件数がさらに増える可能性がある)。
被反乱1092年〜1100年阻卜諸部の反乱(磨古斯の乱)
首謀者: 磨古斯(阻卜諸部長)
結果: 遼側は挞不也・特抹ら将を失う敗戦を含む長期戦を経て、最終的に磨古斯を捕縛・処刑
属部(服属民)の反乱としてsuppression側と同一件を計上。
大赦1093年10月大安9年(10月)己未、燕国王延禧に子が生まれたことを機に肆赦(大赦と同義)。
大安9年(10月)己未、燕国王延禧に子が生まれたことを機に肆赦(大赦と同義)。原文「己未,燕国王延禧生子,肆赦,妃之族属并进级。」
出典: 遼史 本紀卷二十五(道宗五)
改元1094年12月大安10年12月、翌年(1095年)を「寿昌」元年とする改元を布告。
大安10年12月、翌年(1095年)を「寿昌」元年とする改元を布告。恩赦も「减杂犯死罪以下」にとどまり全国大赦ではない。原文「诏改明年元,减杂犯死罪以下,仍除贫民租赋。」
出典: 遼史 本紀卷二十五(道宗五)