遼第8代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
道宗耶律洪基
在位 1055–1101年(45年168日)1055年8月28日 〜 1101年2月12日
日本は平安時代
叔父の重元の反乱を退けたが、枢密使軍事をつかさどる役所の長官の耶律乙辛らの誣告を信じて皇后に死を賜い、皇太子を廃した遼の皇帝である。
道宗の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 1055年8月28日〜1101年2月12日
- 没年
- 1101年2月12日70歳(数え年)長生き順同率12位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 契丹名耶律査剌字涅隣幼名査剌呼び名の見方
- 目立つ記録
- 皇太子を廃した 1回多い順同率4位
出典
- 在位
- 遼史 本紀二十一 道宗一
- 死因
- 遼史(道宗紀)
- 即位経路
- 遼史 巻二十一(道宗紀一)
生涯
即位まで
興宗の長子で、母は仁懿皇后の蕭氏である。人柄は沈静で厳毅で、朝見のたびに父の興宗のほうが容を正したという。天下兵馬大元帥全国の軍を率いる最高司令官の位として朝政に加わり、1055年に興宗が没すると柩の前で即位した。
治世と最期
即位の直後に詔で広く直言を求めたが、同じ年のうちに、誹謗の書は受け取った者・読んだ者まで死刑とした。1063年、皇太叔皇帝の叔父を跡継ぎに準じて呼ぶ称号の重元が子の涅魯古らと行宮皇帝が都の外で泊まる仮の宮殿を襲った。道宗は逃れようとしたが、耶律仁先に止められて討伐を任せ、平定の後に仁先の手を取って、みな卿の功だと言った。重元は敗れて逃れ、自殺した。
乱の後に権勢をふるった耶律乙辛は、1075年、宮婢らが偽って訴えた皇后の密通を上奏し、張孝傑とともに取り調べて事実とした。皇后は自尽自分で命を絶つことを命じられた。1077年には乙辛の誣告で皇太子が囚われた。乙辛の党の燕哥が太子の言葉を自白に書き換え、道宗は怒って太子を廃し、太子は上京で乙辛の差し向けた者に殺された。
1079年、乙辛が狩りに皇孫の延禧を残すよう請い、道宗は従おうとしたが、蕭兀納の言葉で悟って皇孫を連れて行き、乙辛を疑い始めた。1083年、亡き太子に昭懐太子と追諡亡くなった人に、あとから死後の名を贈ることし、同じ年、乙辛は宋へ逃れようとした罪で誅された。のちに太子の冤罪を知って悔やみ、天子の礼で改葬した。晩年は政務に倦み、候補者に骰子さいころを振らせて官を決めた。1101年に行宮で没し、遺詔皇帝が死に際に残した命令で昭懐太子の子の延禧が跡を継いだ。
史料について
涅魯古を、遼史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分と涅魯古伝は射殺されたとし、耶律仁先伝は矢に当たって馬から落ち捕らえられたとする。太子の死を、上京留守の蕭撻得は病死と偽って報じたと順宗伝は書く。遼史の賛は即位当初の治績を認めつつ、讒言が骨肉を損なったと評し、姦臣伝の論は、乙辛の罪を育てたのは道宗の不明と不決断だとする。
道宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1055–1101年の地図に、道宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱4・皇后2・皇太子1・改元5・大赦11
- 改元1055年9月9日元号を「清寧」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1055年9月9日興宗崩御・
即位(八月己丑)から12日後に改元清寧と同時に大赦。 - 皇后1055年12月応聖節(太皇太后の寿を祝う節)にあたり妃蕭氏を皇后に冊立。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1056年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1058年肆赦(大赦と同義の全国規模恩赦)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1058年再生礼・
柴冊礼・ 大冊礼を受けた際に大赦。 - 反乱1063年重元の乱(皇太叔重元・
涅魯古の謀反) - 改元1065年元号を「咸雍」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1065年尊号加上・
改元咸雍と同時に大赦。 - 反乱1069年阻卜の反乱(咸雍五年)
- 反乱1069年五国剖阿里部の反乱(咸雍五年)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1072年坤寧節(皇太后の誕生節)にあたり大赦。
- 改元1075年元号を「大康」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1075年翌年を大康元年とする改元の布告と同時に大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1076年皇太后(仁懿皇后)崩御の直後に大赦。
- 皇后1076年先の皇后(蕭氏、大康元年11月に賜死)に代わり新たに蕭氏を皇后に冊立。
- 皇太子1077年耶律乙辛らの誣告に基づく鞫治の末、皇太子(耶律浚)を廃して庶人とし上京に幽閉。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1083年梁王延禧(皇孫)を燕国王に進封したのに伴い大赦。
- 改元1085年元号を「大安」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1089年燕国王延禧に子が生まれたことを機に大赦。
- 反乱1092–1100年阻卜諸部の反乱(磨古斯の乱)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1093年燕国王延禧に子が生まれたことを機に肆赦(大赦と同義)。
- 改元1095年元号を「寿昌」とする
遼の歴代皇帝
歴代9人の一覧年表
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