興宗
遼|在位 1031–1055年
- 諱(本名)
- 耶律只骨(耶律宗真)
- 在位
- 1031–1055年
- 在位期間
- 24年70日365名中42位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 16歳(数え年)172名中・若い順53位タイ
- 没年齢
- 40歳(数え年)269名中・長寿順131位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 11回267名中27位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
聖宗の嫡長子で、太平元年に正式に皇太子として冊立されていた上で、聖宗崩御時に柩前で即位。
出典: 遼史 巻十八(興宗紀一)
死因の経緯
急病となり嫡子燕趙国王洪基(道宗)を呼び治国の要諦を諭した数日後に崩御。
出典: 遼史(興宗紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中の改元は即位に伴う建元(景福)と、その翌年の重熙への改元の計2回のみ。以後、重熙二十四年の崩御まで重熙の元号が継続使用され、他に改元記事は本紀中に見られない。日付は原文の干支から西暦(グレゴリオ暦)に日単位で換算。
大赦回数
「大赦」の他、同義の恩赦を意味する「太赦」(重熙十一年)・「肆赦」(重熙十年・十六年・二十年)も全国規模の恩赦として計上した。地域・対象限定の「曲赦」(重熙五年・六年・十五年・二十二年・二十三年・二十四年の計6件)は範囲限定のため対象外とした。日付は原文の干支から西暦(グレゴリオ暦)に換算(日単位)。景福建元・重熙改元の各詔と同日に行われた大赦は、eraChangeCountのイベントと同一日である。
立后回数
在位中の立后は重熙四年の一度のみ。以後、重熙十一年・二十三年に皇后蕭氏へ追加の尊号(貞懿宣慈崇聖皇后→貞懿慈和文惠孝敬広愛崇聖皇后)を上呈した記事があるが、いずれも同一人物(皇后蕭氏)への尊号加上であり新たな立后・再冊立ではない。廃后の記事は本紀中に見られない。
皇太子廃立回数
本紀を通読したが、興宗の在位中に皇太子・皇太弟等の法定推定継承者が正式に立てられた記事は見当たらない。後継者となった皇子洪基(のちの道宗)は梁王・燕国王・燕趙国王・天下兵馬大元帥・知惕隠事等の地位を歴任したが、皇太子への冊立記事はなく、崩御時も「遺詔燕趙国王洪基嗣位」とあるのみで正式な皇太子ではなかった。したがって廃立(廃太子)の対象となる皇太子自体が存在せず、該当記事なし。
親征回数
対西夏(李元昊・李諒祚)戦争において皇帝自身が2度出征。いずれも西夏は独立政権として扱うため親征カウントのみに計上し、反乱鎮圧・被反乱には含めない。(1)重熙十三年(1044):西夏に投じた党項系服属部落の追討が発端で対元昊戦争に発展、本紀に「会大軍於九十九泉,以皇太弟重元・北院枢密使韓国王蕭惠將先鋒兵西征」「軍於河曲」「督數路兵掩襲,殺數千人」「班師」とあり、皇帝自ら本軍を率いて河曲まで進軍した(河曲之戦)。元昊上表謝罪で終結。(2)重熙十八年(1049):本紀に明記「秋七月戊戌,親征。八月辛酉朔,渡河。夏人遁,乃還」とあり、皇帝自ら渡河出征、夏軍が逃げたため還御。以後の追撃戦(蕭惠・耶律敵魯古らによる継続戦闘)は皇帝帰還後の将帥単独作戦のため同一親征イベントの延長として1件に集計。なお重熙十一年(1041)に対宋「南征」の賞罰令を頒布したが(関南十県地問題)、富弼の交渉により歳幣増額で和睦し実際の開戦には至らなかったため親征として計上しない。
反乱鎮圧回数
重熙十三年(1044)四~五月、山西部族節度使屈烈が党項系五部を率いて西夏に投奔(服属部落の反乱・離反)。本紀「南院大王耶律高十奏党項等部叛附夏国」「西南面招討都監羅漢奴・詳穩斡魯母等奏,山西部族節度使屈烈以五部叛入西夏,乞南・北府兵援送實威塞州戸」とあり、羅漢奴らに追討を命じたが「羅漢奴奏所發部兵與党項戰不利,招討使蕭普達・四捷軍詳穩張佛奴殁於陣」と初戦で敗北・将領戦死。この鎮圧失敗が対西夏戦争(皇帝親征)へと拡大したため、以後の戦闘は personalCampaignCount 側に計上し、本反乱事件は集計粒度差として親征とは別に1件のみ計上する。屈烈本人のその後の消息・この部落反乱自体の鎮圧完了は本紀に明記がなく不明瞭。他に重熙十三年四月「攻蒲盧毛朶部」・重熙十七~十八年「伐蒲奴里酋陶得里」(捕獲)等の対部族軍事行動があるが、いずれも「叛」の明記がなく新規服属化・懲罰遠征の可能性もあり判断材料不足のため対象外とした。景福元年(1031)の蕭鉏不里・蕭匹敵処刑事件は皇太后主導の粛清で兵力行使の記載がないため対象外。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一事件(重熙十三年・屈烈の党項系五部離反)を被反乱側として対称的に1件計上。suppression側と同数・同一イベントで食い違いなし。他の対外戦争(対西夏親征2件)・宮廷粛清(1031年蕭鉏不里・蕭匹敵事件、兵力行使の記載なし)・単独の邪教首謀者処刑(1044年香河県民李宜児、兵力行使の記載なし)はいずれも対象外とした。
遷都回数
遼史本紀・志を通読。太祖耶律阿保機の上京臨潢府定都(建国時の定都)から1125年の滅亡まで上京が一貫した主都(五京制は複都制の陪都)。
即位時年齢・没年齢
巻末の史臣賛(賛曰)に「興宗即位,年十有六矣」(即位時16歳)とあり、本紀本文の崩御記事直後に「帝崩于行宮,年四十」(崩御時40歳)とある(『遼史』巻二十・興宗紀三)。崩御年月日は重熙二十四年八月己丑(=1055年8月28日、日干支から換算)と本紀に明記。生年月日の直接記載(「生于」等)は本紀中に見当たらない。
在位中の出来事(18件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1031年7月7日即位に伴う建元(景福)。
即位に伴う建元(景福)。太平十一年(=景福元年)六月三日己卯、聖宗崩御と同日に柩前で即位し、同月十五日辛卯に大赦とともに改元して景福元年とした。原文:「十一年夏六月己卯,聖宗崩,即皇帝位于柩前……辛卯,大赦,改元景福」。
出典: 遼史 巻十八(興宗紀一)
大赦1031年7月7日即位年、景福改元と同日の大赦。
即位年、景福改元と同日の大赦。原文:「辛卯,大赦,改元景福」(太平十一年=景福元年六月十五日辛卯)。eraChangeCountの景福建元イベントと同一日。
出典: 遼史 巻十八(興宗紀一)
改元1032年12月16日景福から重熙への改元。
景福から重熙への改元。重熙元年十一月己卯、皇太后・皇帝にそれぞれ尊号を上呈した際に大赦を行い改元重熙とした。原文:「十一月己卯,帝率群臣上皇太后尊号曰法天応運仁徳章聖皇太后;群臣上皇帝尊号曰文武仁聖昭孝皇帝。大赦,改元重熙」。
出典: 遼史 巻十八(興宗紀一)
大赦1032年12月16日重熙改元と同日の大赦。
重熙改元と同日の大赦。原文:「十一月己卯,帝率群臣上皇太后尊号曰法天応運仁徳章聖皇太后;群臣上皇帝尊号曰文武仁聖昭孝皇帝。大赦,改元重熙」(景福元年十一月己卯)。eraChangeCountの重熙改元イベントと同一日。
出典: 遼史 巻十八(興宗紀一)
立后1035年4月11日重熙四年三月一日(乙酉朔)、蕭氏を皇后に冊立。
重熙四年三月一日(乙酉朔)、蕭氏を皇后に冊立。原文:「三月乙酉朔,立皇后蕭氏」。
出典: 遼史 巻十八(興宗紀一)
大赦1035年12月7日重熙四年十一月乙酉、白嶺で柴冊礼を行った際の大赦。
重熙四年十一月乙酉、白嶺で柴冊礼を行った際の大赦。原文:「乙酉,行柴冊礼于白嶺,大赦」。
出典: 遼史 巻十八(興宗紀一)
大赦1039年12月9日重熙八年十一月戊申、皇太后が再生礼を行った際の大赦。
重熙八年十一月戊申、皇太后が再生礼を行った際の大赦。原文:「戊申,皇太后行再生礼,大赦」。
出典: 遼史 巻十八(興宗紀一)
大赦1040年4月30日重熙九年三月辛未、応聖節(皇太后誕生日)に際しての大赦。
重熙九年三月辛未、応聖節(皇太后誕生日)に際しての大赦。原文:「三月辛未,以応聖節,大赦」。
出典: 遼史 巻十八(興宗紀一)
大赦1041年11月12日重熙十年十月壬辰、皇子胡盧斡里誕生に際しての肆赦(大赦に相当)。
重熙十年十月壬辰、皇子胡盧斡里誕生に際しての肆赦(大赦に相当)。原文:「以皇子胡盧斡里生……壬辰,復飲皇太后殿,以皇子生,肆赦」。
出典: 遼史 巻十九(興宗紀二)
大赦1043年1月1日重熙十一年十一月丁亥、群臣が皇帝尊号を上呈し皇后蕭氏を冊立した際の太赦(大赦に相当)。
重熙十一年十一月丁亥、群臣が皇帝尊号を上呈し皇后蕭氏を冊立した際の太赦(大赦に相当)。原文:「冬十一月丁亥,群臣加上尊号曰聡文聖武英略神功睿哲仁孝皇帝,冊皇后蕭氏曰貞懿宣慈崇聖皇后。太赦」。西暦換算では重熙十二年正月一日(グレゴリオ暦)に相当。
出典: 遼史 巻十九(興宗紀二)
親征1044年西夏(李元昊)
対象: 西夏(李元昊)
結果: 河曲の戦い。元昊が謝罪・上表し臣従を約す形で終結、皇帝班師
重熙十三年九月~十一月。党項系服属部落(山西部族節度使屈烈ら五部)の西夏投奔鎮圧が発端で対元昊戦争に発展
反乱鎮圧1044年山西部族節度使屈烈の西夏投奔(党項系五部離反)
首謀者: 屈烈
結果: 初動鎮圧失敗(羅漢奴の追討軍が敗北、招討使蕭普達・詳穩張佛奴戦死)。以後は対西夏戦争に吸収され、本反乱単独での鎮圧完了は本紀に記載なし
重熙十三年四~五月
被反乱1044年山西部族節度使屈烈の西夏投奔(党項系五部離反)
首謀者: 屈烈
結果: 初動鎮圧失敗(羅漢奴の追討軍が敗北、招討使蕭普達・詳穩張佛奴戦死)。以後は対西夏戦争に吸収され、本反乱単独での終息は本紀に記載なし
重熙十三年四~五月。suppressionCountと同一イベント
大赦1047年5月20日重熙十六年四月丁卯、皇太后の病が癒えたことによる肆赦(大赦に相当)。
重熙十六年四月丁卯、皇太后の病が癒えたことによる肆赦(大赦に相当)。原文:「皇太后不豫,上馳往視疾。丙午,皇太后愈,復如黒水濼。丁卯,肆赦」。
出典: 遼史 巻二十(興宗紀三)
親征1049年西夏(李諒祚)
対象: 西夏(李諒祚)
結果: 渡河出征後、夏軍撤退により還御。以後諸将による追撃戦が継続し西夏側に打撃を与えたが、最終的な西夏の完全降伏・誓約は重熙二十二~二十三年(1053-1054)にずれ込む
重熙十八年七月~八月、本紀に「親征」と明記
大赦1052年1月12日重熙二十年十二月乙酉、皇太后が再生礼を行った際の肆赦(大赦に相当)。
重熙二十年十二月乙酉、皇太后が再生礼を行った際の肆赦(大赦に相当)。原文:「十二月乙酉,以皇太后行再生礼,肆赦」。西暦換算では重熙二十一年正月にあたる。
出典: 遼史 巻二十(興宗紀三)
大赦1054年12月14日重熙二十三年十一月壬申、皇太后への尊号上呈に際しての大赦。
重熙二十三年十一月壬申、皇太后への尊号上呈に際しての大赦。原文:「壬申,帝率群臣上皇太后尊号曰仁慈聖善欽孝広徳安静貞純懿和寛厚崇覚儀天皇太后,大赦」。
出典: 遼史 巻二十(興宗紀三)
大赦1055年8月27日重熙二十四年八月戊子、崩御前日の大赦。
重熙二十四年八月戊子、崩御前日の大赦。原文:「戊子,大赦,縦五坊鷹鶻,焚釣魚之具。己丑,帝崩于行宮」。
出典: 遼史 巻二十(興宗紀三)