興宗の人物データ
- 生年
- 1016年4月
- 在位
- 1031年6月25日〜1055年8月28日
- 没年
- 1055年8月28日40歳(数え年)長生き順同率129位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 契丹名耶律只骨字夷不堇幼名只骨呼び名の見方
出典
- 在位
- 遼史 本紀十八 興宗一(即位)/本紀二十 興宗三(崩御)
- 死因
- 遼史(興宗紀)
- 即位経路
- 遼史 巻十八(興宗紀一)
生涯
即位まで
聖宗の子で、生母は欽哀皇后の蕭氏だが、生まれるとすぐ斉天皇后が引き取った。幼くして聡明で、騎射を善くし、儒学を好み、音律に通じた。1021年に皇太子に立てられ、1031年に聖宗が没すると柩の前で即位し、生母が皇太后となった。
史料について
遼史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は聖宗の長子とし、契丹国志と続資治通鑑長編は第八子とする。
治世と最期
即位の年、育ての親を罪に問うことに宗真は反対したが、皇太后は聞かずに斉天皇后を上京へ移し、翌年に殺させた。1034年に親政を始めた。皇太后を慶州へ遷したが、のちに悔いて自ら迎え戻した。
宋が国境に壕を掘ると聞いて関南十県の返還を求め、1042年、富弼に説かれて和を結び、宋は銀と絹を各十万増やした。1044年に西夏へ親征君主が自ら軍を率いて戦いに出ることし、李元昊が罪に服したのちも攻めたが、大風で軍が乱れて多くの死者を出し、兵を返した。
狩りで数十人が死傷したと記録に書かれると消させたが、書き直されると、史官朝廷の出来事を記録し歴史を書く役人の筆はこうあるべきだと言った。弟の重元と双六で城邑を賭けて何度も負けていたが、伶人音楽や芝居を演じる芸人の羅衣軽に戒められて悟り、やめた。1055年、秋山へ向かう途中で病み、燕趙国王の洪基を召して治国の要を諭し、行宮皇帝が都の外で泊まる仮の宮殿で没した。
史料について
親政の始まりを、遼史の本紀は太后が政を返したとし、后妃伝は太后が末子の重元を立てようとしたとし、蕭孝先伝は廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることの謀を知った宗真が兵を率いて太后を遷したとし、契丹国志と長編も兵を用いたとする。西夏で、伶官伝は宗真が単騎で突き出てかろうじて逃れたとするが、本紀はこれを書かない。遼史の賛は、斉天皇后を守れなかったことを責め、殯の間の振る舞いを二人の人のようだと書きつつ、治を求める志は切実だったとする。
興宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1031–1055年の地図に、興宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征2・皇后1・改元2・大赦11
- 改元1031年7月7日元号を「景福」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1031年7月7日即位年、景福改元と同日の大赦。
- 改元1032年元号を「重熙」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1032年重熙改元と同日の大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1035年白嶺で柴冊礼を行った際の大赦。
- 皇后1035年蕭氏を皇后に冊立。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1039年皇太后が再生礼を行った際の大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1040年応聖節(皇太后誕生日)に際しての大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1041年皇子胡盧斡里誕生に際しての肆赦(大赦に相当)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1043年群臣が皇帝尊号を上呈し皇后蕭氏を冊立した際の太赦(大赦に相当)。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1044年西夏(李元昊)
- 反乱1044年山西部族節度使屈烈の西夏投奔(党項系五部離反)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1047年皇太后の病が癒えたことによる肆赦(大赦に相当)。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1049年西夏(李諒祚)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1052年皇太后が再生礼を行った際の肆赦(大赦に相当)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1054年皇太后への尊号上呈に際しての大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1055年8月27日崩御前日の大赦。
遼の歴代皇帝
歴代9人の一覧年表
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