遼第9代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
天祚帝耶律延禧
在位 1101–1125年(24年42日)1101年2月12日 〜 1125年3月26日
日本は平安時代
狩猟を好んで女直の挙兵を軽んじ、蕭奉先の言に従って子を死なせ、金に捕らえられて国を失った遼の最後の皇帝である。
天祚帝の人物データ
- 生年
- 1075年
- 在位
- 1101年2月12日〜1125年3月26日
- 没年
- 1128年54歳(数え年)長生き順同率62位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。
- 先代
- 道宗遼天祚帝は道宗の孫
- 次代
- —
- 呼び名
- 契丹名耶律阿果字延寧幼名阿果呼び名の見方
出典
- 在位
- 遼史 本紀二十七 天祚皇帝一(即位)/本紀三十 天祚皇帝四(捕縛)/金史 本紀三 太宗(捕縛の日)
- 死因
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四)
- 即位経路
- 遼史 巻二十七(天祚皇帝紀一)
生涯
即位まで
道宗の孫で、父の昭懐太子は耶律乙辛に陥れられて殺され、母も乙辛の差し向けた者に殺された。1101年に道宗が没すると、遺詔皇帝が死に際に残した命令を奉じて柩の前で即位した。乙辛に陥れられた者の官爵官職と爵位を戻し、翌年には乙辛の党を誅して、乙辛らの墓を暴かせた。
治世と最期
1105年には微行身分を隠してこっそり出歩くことして民の苦しみを視た。1112年の頭魚宴遼の皇帝が春にその年最初の魚を捕って開く宴で女直の酋長たちに順に舞わせたとき、阿骨打だけが断り続けた。天祚帝は後の災いになるとして誅そうと蕭奉先に語ったが、止められた。1114年、阿骨打が寧江州を攻めたと報じられたときは鹿を射ていて意に介さず、渤海軍に救わせただけだった。侵攻が迫っても狩りに出て顧みず、文妃が歌を作って諫めると、恨みを抱いた。
1121年、晋王を立てる謀があるとの誣告の件で、文妃は死を賜った。翌年、金に降った耶律余睹が迫ると、晋王を誅せば余睹は退くという奉先の言に従い、子の晋王を死なせた。中京を失って夾山に入ると、南京の李処温・耶律大石らが耶律淳を皇帝に立て、天祚帝は湘陰王に降された。
1125年の逃避行では徒歩で逃れ、雪の中で食も尽き、跪いた従者にもたれて眠った。同じ年に金の婁室らに捕らえられ、海浜王に降されて、その後に病で没した。
天祚帝とつながる皇帝

勢力図
宋・
1101–1122年の地図に、天祚帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱18・親征4・皇后1・改元3・大赦4
- 改元1101年3月2日元号を「乾統」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1101年3月2日寿昌7年正月甲戌に道宗崩御に伴い即位、翌月壬辰朔に乾統と改元すると同時に大赦を実施。
- 反乱1102–1103年蕭海里の乱
- 反乱1102年阻卜の侵攻(乾統2年)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1103年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1106年丙申に柴冊礼を行った後、戊戌に大赦。
- 改元1111年元号を「天慶」とする
- 反乱1113年李弘の乱
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1115年金(女直・
完顔阿骨打) - 反乱1115年耶律章奴の反乱(魏国王淳擁立謀反)
- 反乱1115–1116年耶律張家奴の反乱
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1116年国内反乱者・
耶律張家奴 - 反乱1116年春州渤海の反乱
- 反乱1116年烏古部の反乱
- 反乱1116年高永昌の東京僭称
- 反乱1117年董龐児の乱
- 反乱1118年安生児・張高児・霍六哥の乱
- 反乱1119年阻卜補疏只の反乱
- 改元1121年元号を「保大」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1121年
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1122年金
- 反乱1122–1123年耶律淳(北遼)擁立・
僭称事件 - 反乱1122年敵烈部皮室の反乱(7月)
- 反乱1122年敵烈部の反乱(9月)
- 反乱1123年回離保の僭称
- 反乱1123年梁王雅里擁立事件
- 反乱1123年上京の盧彦倫の反乱
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1124年金
- 反乱1124年従駕者の兵乱
- 皇后日付不詳皇后蕭氏(小字奪里懶、宰相蕭継先の五世孫)。
遼の歴代皇帝
歴代9人の一覧年表
遼・
遼が