天祚帝
遼|在位 1101–1128年
- 諱(本名)
- 耶律阿果(耶律延禧)
- 在位
- 1101–1128年
- 在位期間
- 27年180日365名中31位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 54歳(数え年)269名中・長寿順63位タイ
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 4回267名中93位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 4回112名中18位タイ
- 反乱鎮圧
- 14回225名中28位タイ
- 被反乱
- 18回289名中21位
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
道宗の孫。実父の順宗(皇太子濬)が耶律乙辛の讒言により先に廃死していたため、嫡系の孫として遺詔により即位した。
出典: 遼史 巻二十七(天祚皇帝紀一)
死因の経緯
保大5年2月、金軍に捕らえられ8月に金に到着、海濱王に降封された。3年後、金・天会6年に「以疾終」と遼史本文が病死と明記。
出典: 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
天祚帝自身の治世における改元は乾統(即位建元)・天慶・保大の3回。国号変更ではない。なお保大2年以降、耶律淳(天錫・建福)、その妻蕭徳妃(徳興)、次子梁王雅里(擁立後の神暦)がそれぞれ別に改元しているが、これらは天祚帝が実際に廃位・逃亡状態にある中で別人が擁立された北遼政権・残党政権の元号であり、天祚帝本人による改元ではないため本カウントには含めていない。天祚帝本人は保大の元号のまま金軍に捕らえられ滅亡した。
大赦回数
遼史巻二十七〜三十(天祚皇帝紀一〜四)を通読し「大赦」「肆赦」と明記された箇所を抽出。保大2年に耶律淳が「天錫皇帝」を自称した際の大赦(巻二十九・巻三十)、萧徳妃称制時の記事は天祚帝本人の在位中の詔ではなく別政権(北遼)のものであるため除外した。
立后回数
遼史巻七十一后妃伝により、天祚帝の后妃として皇后蕭氏(奪里懶)1名のみが『冊為皇后』と明記されている。他に徳妃蕭氏(師姑)・文妃蕭氏(瑟瑟)・元妃蕭氏(貴哥)が確認できるが、いずれも皇后ではなく妃号にとどまり冊立記録はないため対象外とした。皇后蕭氏の廃后の記録はなく、再冊立(count2件目)も存在しない。
皇太子廃立回数
天祚帝在位中、正式に皇太子(皇太弟・皇太孫等を含む)に冊立された上でそれを廃した事例は確認できなかった。次子耶律雅里については列伝(巻七十)に『耶律雅里者,天祚皇帝第二子也…七歳,欲立為皇太子,別置禁衛,封梁王』とあり、皇太子に立てようとする意向は示されたが、実際の称号は梁王にとどまり正式冊立の記録はないため対象外とした(のちに天祚捕縛後、群臣に擁立され即位・改元神暦するが、これは天祚の廃立行為ではない)。長子晋王敖盧斡(文妃所生)についても、謀反への関与を疑われ賜死されたが(保大2年)、皇太子に立てられていた記録はなく終始『晋王』のままであったため対象外とした(列伝:巻七十一后妃伝・巻六十四皇子表・巻七十一晋王敖盧斡伝で確認)。皇太叔和魯斡(乾統3年冊立)は在位中に薨去しており廃立の事実はない。
親征回数
原文中の「亲征」「亲战」「亲遇」「上遂率诸军」等の明確な直接表現に基づい31)1115年の対金親征(护步答岡の敌北)。2)1116年の対耶律張家奴親征(国内反乱鎮圧)。3)1122年の対金石輦駅の戦い。4)1124年の対金領土回復作戦。宋遼金はそれぞれ独立政権として扱うブロック共通ルールに従い、対金戦争は親征分のみ計上しrebellionSuppression/Sufferedには含めていない。
反乱鎮圧回数
天祚帝在位中(1101-1125年)の国内反乱・部族場先を全件抽出し〔6度の金との戦争(對等勢力間の対外戦争として除外)とは区別した。耶律淳(北遼)の僭称事件は、金による燕京陥落後に投降してきた蕭德妃を天祚帝自らが誅殺した点を重視し鎮圧側にも計上。敵烈部の7月セ9月は別主高・別日付で記述されるため別件としてカウント。判断の不確実性が一部残るためconfidenceはmediumとした。
被反乱回数
鎮圧事例14件に加え、未鎮圧・自然消滅等でsuppressionには含めなかった4件(高永昌の東京僭称・阻卜补疏只の乱・梁王雅里擁立事件・上京卢彦伦の乱)を追加しご18件。いずれも「鎮圧に至らず天祚帝在位中に未解決のまま推移した」パターン(2)に当てはまる。金との戦争(對等勢力の対外戦争)は含めていない。上京卢彦伦の件は情報が極めて断片的なため低い確度で計上。
遷都回数
遼史本紀・志を通読。太祖耶律阿保機の上京臨潢府定都(建国時の定都)から1125年の滅亡まで上京が一貫した主都(五京制は複都制の陪都)。
即位時年齢・没年齢
遼史巻三十(天祚皇帝紀四)末尾に「八月癸卯,至金。丙午,降封海濱王。以疾終,年五十有四,在位二十四年」とあり、崩御時年齢54歳が原文に直接明記されている(既知情報の享年54と一致)。生年は巻二十七冒頭「天祚皇帝,諱延禧…大康元年生」により大康元年(1075年)と判明するが月日の記載はない。即位時年齢は原文に数字としての明記なし(寿昌7年=1101年に即位のため計算上26〜27歳頃と推定されるが、原文に「時年◯◯」等の直接記載はないためaccessionAgeはnullとした)。
在位中の出来事(44件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1101年寿昌7年正月甲戌の道宗崩御に伴い即位(皇帝即位(改元同時)に準ずる。
寿昌7年正月甲戌の道宗崩御に伴い即位(皇帝即位(改元同時)に準ずる。即位自体は前代の寿昌年号のまま行われ、翌月に乾統へ改元)。即位に伴う最初の建元として計上。
出典: 遼史 巻二十七(天祚皇帝紀一)
大赦1101年寿昌7年正月甲戌に道宗崩御に伴い即位、翌月壬辰朔に乾統と改元すると同時に大赦を実施。
寿昌7年正月甲戌に道宗崩御に伴い即位、翌月壬辰朔に乾統と改元すると同時に大赦を実施。耶律乙辛に誣陥された者の名誉回復・財産返還も併せて行った。
出典: 遼史 巻二十七(天祚皇帝紀一)
反乱鎮圧1102年7月阻卜の侵攻(乾統2年)
首謀者: 阻卜(部族)
結果: 鎮圧(斡特剌が撃破)
乾統2年秋7月「阻卜来侵,斡特剌等战败之」。服属部族の反乱として計上。
被反乱1102年7月阻卜の侵攻(乾統2年)
首謀者: 阻卜(部族)
結果: 鎮圧(斡特剌が撃破)
乾統2年秋7月「阻卜来侵,斡特剌等战败之」。
反乱鎮圧1102年10月〜1103年1月蕭海里の乱
首謀者: 蕭海里
結果: 鎮圧(女直が蕭海里を斬り首級を献上)
乾統2年冬10月乙卯「萧海里叛,劫乾州武库器甲」、3年正月「女直函萧海里首,遣使来献」。国内官吏の反乱として計上。
被反乱1102年10月〜1103年1月蕭海里の乱
首謀者: 蕭海里
結果: 鎮圧(女直が蕭海里を斬り首級を献上)
乾統2年冬10月乙卯「萧海里叛,劫乾州武库器甲」、3年正月「女直函萧海里首,遣使来献」。
大赦1113年文武百官が「惠文智武聖孝天祚皇帝」の尊号を上るのに伴い大赦。
文武百官が「惠文智武聖孝天祚皇帝」の尊号を上るのに伴い大赦。宋魏国王和魯斡を皇太叔とする等の措置も同時に実施。
出典: 遼史 巻二十七(天祚皇帝紀一)
親征1115年1月〜1115年12月金(女直・完顔阿骨打)
対象: 金(女直・完顔阿骨打)
結果: 護歩答岡の戦いで大敗、輜重を全て喪失
天庆5年正月「下诏亲征」、9月丁卯朔以後「上亲征」、12月戊申「亲战于护步答冈,败绩,尽亡其辎重」。一連の対金軍事行動として1回に集約。
反乱鎮圧1115年9月〜1115年耶律章奴の反乱(魏国王淳擁立謀反)
首謀者: 耶律章奴
結果: 鎮圧(捕縛の上、腰斬)
天庆5年9月乙巳「耶律章奴反,奔上京,谋迎立魏国王淳」。以後の掠奪を順国女直阿鹘产らが撃破し、章奴を捕縛・処刑。
被反乱1115年9月〜1115年耶律章奴の反乱(魏国王淳擁立謀反)
首謀者: 耶律章奴
結果: 鎮圧(捕縛の上、腰斬)
天庆5年9月乙巳「耶律章奴叛,奔上京,谋迎立魏国王淳」。
反乱鎮圧1115年12月〜1116年4月耶律張家奴の反乱
首謀者: 耶律张家奴
結果: 鎮圧(皇帝親征により撃破、饒州渤海も平定)
天庆5年12月「耶律张家奴叛」、6年4月に天祚帝自ら親征し撃破。personalCampaignCountにも計上。
被反乱1115年12月〜1116年4月耶律張家奴の反乱
首謀者: 耶律张家奴
結果: 鎮圧(皇帝親征により撃破)
天庆5年12月「耶律张家奴叛」、6年4月天祚帝自ら親征し撃破。
大赦1116年丙申に柴冊礼を行った後、戊戌に大赦。
出典: 遼史 巻二十七(天祚皇帝紀一)
被反乱1116年1月〜1116年6月高永昌の東京僭称
首謀者: 高永昌
結果: 遼自身は鎮圧しきれず、最終的に金軍が瀋州・東京を陥落させ高永昌を捕らえた(遼にとっては未鎮圧・領土喪失)
天庆6年正月、渤海人高永昌が東京(遼陽)で「隆基元年」を称し僭称。招撫・討伐を試みたが(我师一部を撃破するにとどまり)、最終的に女直軍が瀋州・東京を陥落させ高永昌を捕らえた。遼自身の鎮圧は失敗のためsuppressionには含めずsufferedのみ計上(未鎮圧のまま推移するパターン)。
親征1116年4月国内反乱者・耶律張家奴
対象: 国内反乱者・耶律張家奴
結果: 勝利。張家奴を撃破し、饒州渤海の反乱を平定
天庆6年4月戊辰「亲征张家奴」、癸酉「败之」、甲戌「诛叛党,饶州渤海平」。国内反乱鎮圧のためrebellionSuppressionCount/rebellionSufferedCountにも別途計上。
反乱鎮圧1116年7月春州渤海の反乱
首謀者: 春州渤海二千余戸
結果: 鎮圧(東北路統軍使が追撃し全て捕獲)
天庆6年秋7月「春州渤海二千余户叛,东北路统军使勒兵追及,尽俘以还」。
被反乱1116年7月春州渤海の反乱
首謀者: 春州渤海二千余戸
結果: 鎮圧
天庆6年秋7月「春州渤海二千余户叛,东北路统军使勒兵追及,尽俘以还」。
反乱鎮圧1116年8月〜1116年10月烏古部の反乱
首謀者: 烏古部
結果: 鎮圧(招撫の末、投降)
天庆6年8月「乌古部叛」、10月「乌古部来降」。
被反乱1116年8月〜1116年10月烏古部の反乱
首謀者: 烏古部
結果: 鎮圧(投降)
天庆6年8月「乌古部叛」、10月「乌古部来降」。
反乱鎮圧1117年2月〜1117年3月董龐児の乱
首謀者: 董庞儿
結果: 鎮圧(2度撃破)
天庆7年「涞水县贼董庞儿聚众万余...破之」、3月「庞儿党复聚...复击破之于奉圣州」。
被反乱1117年2月〜1117年3月董龐児の乱
首謀者: 董庞儿
結果: 鎮圧(2度撃破)
天庆7年「涞水县贼董庞儿聚众万余...破之」、3月「庞儿党复聚...复击破之于奉圣州」。
反乱鎮圧1118年安生児・張高児・霍六哥の乱
首謀者: 安生儿・张高儿・霍六哥
結果: 鎮圧(安生児は斬首、霍六哥は撃破)
天庆8年「贼安生儿、张高儿聚众二十万,耶律马哥等斩生儿于龙化州...霍六哥陷海北州...军帅回离保等击败之」。
被反乱1118年安生児・張高児・霍六哥の乱
首謀者: 安生儿・张高儿・霍六哥
結果: 鎮圧
天庆8年「贼安生儿、张高儿聚众二十万,耶律马哥等斩生儿于龙化州...霍六哥陷海北州...军帅回离保等击败之」。
被反乱1119年5月阻卜補疏只の反乱
首謀者: 阻卜补疏只
結果: 招討使耶律斡里朵を捕らえ都監蕭斜里得を殺害。以後の鎮圧記録なし
天庆9年夏5月「阻卜补疏只等叛,执招讨使耶律斡里朵,都监萧斜里得死之」。以降原文に鎮圧の記載がなく、未鎮圧のまま推移したと判断。
改元1120年乾統10年12月己酉、『改明年元』(翌年の年号を改めることを詔)。
乾統10年12月己酉、『改明年元』(翌年の年号を改めることを詔)。翌年正月より天慶元年となる。
出典: 遼史 巻二十七(天祚皇帝紀一)
改元1121年天慶10年から保大元年へ改元、同日に肆赦(大赦)も実施。
出典: 遼史 巻二十九(天祚皇帝紀三)
大赦1121年天慶10年から保大元年への改元と同時に「肆赦」を実施。
天慶10年から保大元年への改元と同時に「肆赦」を実施。原文の語は「大赦」ではなく「肆赦」だが、改元に伴う全国規模の恩赦であり大赦と同義と判断し計上した。なお同章内「若不肆赦,恐聚為患」(乾統四年、巻二十七)は仮定表現であり実際の恩赦事実ではないため除外した。
出典: 遼史 巻二十九(天祚皇帝紀三)
反乱鎮圧1122年6月〜1123年2月耶律淳(北遼)擁立・僭称事件
首謀者: 耶律淳(後に妻・蕭德妃)
結果: 鎮圧(金による燕京陥落後、投降した蕭德妃を天祚帝が誅殺、淳を庶人に降格)
保大2年6月、耶律淳が「天锡皇帝」を僭称し天祚帝を「湘阴王」に降封。淳の死後は妻蕭德妃が摂政し天祚帝の子秦王定の擁立を画策。保大3年2月、金軍が燕京(南京)を陥落させた後、蕭德妃が天祚帝の下に逃れてきたところを誅殺し淳を庶人とした。天祚帝自身の手による処断のため鎮圧に計上。
被反乱1122年6月〜1123年2月耶律淳(北遼)擁立・僭称事件
首謀者: 耶律淳(後に妻・蕭德妃)
結果: 鎮圧(天祚帝が蕭德妃を誅殺、淳を庶人に降格)
保大2年6月、耶律淳が「天锡皇帝」を僭称し天祚帝を「湘阴王」に降封。天祚帝自身が「湘阴王」に格下げされた点で明確な被反乱事案。
反乱鎮圧1122年7月敵烈部皮室の反乱(7月)
首謀者: 敵烈部皮室
結果: 鎮圧(耶律棠古が討平)
保大2年秋7月丁巳朔「敌烈部皮室叛,乌古部节度使耶律棠古讨平之」。
被反乱1122年7月敵烈部皮室の反乱(7月)
首謀者: 敵烈部皮室
結果: 鎮圧
保大2年秋7月丁巳朔「敌烈部皮室叛,乌古部节度使耶律棠古讨平之」。
親征1122年8月金
対象: 金
結果: 石輦駅の戦いで敗北、都統蕭特末とその甥撒古が捕虜に
保大2年8月戊戌「亲遇金军,战于石辇驿,败绩,都统萧特末及其侄撒古被执」。先の1115年の親征とは別の独立した軍事行動。
反乱鎮圧1122年9月敵烈部の反乱(9月)
首謀者: 敵烈部
結果: 鎮圧(馬哥が撃破)
保大2年9月「敌烈部叛,都统马哥克之」。7月の敌烈部皮室の乱とは別に9月に再燃した反乱として別件計上。
被反乱1122年9月敵烈部の反乱(9月)
首謀者: 敵烈部
結果: 鎮圧
保大2年9月「敌烈部叛,都统马哥克之」。7月の乱とは別件として計上。
反乱鎮圧1123年1月〜1123年5月回離保の僭称
首謀者: 回离保
結果: 鎮圧(討伐軍派遣後、配下に殺害され瓦解)
保大3年正月「奚王回离保僭号,称天复元年,命都统马哥讨之」、5月「回离保为众所杀」。
被反乱1123年1月〜1123年5月回離保の僭称
首謀者: 回离保
結果: 鎮圧(配下に殺害され瓦解)
保大3年正月「奚王回离保僭号,称天复元年」、5月「回离保为众所杀」。
被反乱1123年2月上京の盧彦倫の反乱
首謀者: 卢彦伦
結果: 契丹人殺害の記録のみで、鎮圧されたか否か原文に記載なし
保大3年2月庚辰「上京卢彦伦叛,杀契丹人」。前後の文脈は諸州の金への相次ぐ降伏と重なるが鎮圧の記載がなく結末不明のため低い確度でsufferedのみ計上。
被反乱1123年5月〜1123年11月梁王雅里擁立事件
首謀者: 耶律敌烈ら(天祚帝随行の将兵)
結果: 天祚帝により鎮圧されず、擁立された雅里が病死、後継の耶律术烈も配下に殺害され自然消滅
保大3年5月庚申「军将耶律敌烈等夜劫梁王雅里奔西北部,立以为帝,改元神历」。雅里は同年冬に病死、跡を継いだ耶律术烈も11月に部下に殺害され瓦解。天祚帝自身による鎮圧はなされていない。
親征1124年金
対象: 金
結果: 天徳・東勝・寧辺・雲内等の州を一時奪還するも、奄遏下水で金軍に敗れ山陰へ敗走
保大4年「上遂率诸军出夹山,下渔阳岭,取天德、东胜、宁边、云内等州。南下武州,遇金人,战于奄遏下水,复溃,直趋山阴」。皇帝自ら諸軍を率いた領土回復作戦。
反乱鎮圧1124年11月従駕者の兵乱
首謀者: 従行者(天祚帝随行の将兵)
結果: 鎮圧(術者・牙不里らが撃破)
保大4年冬11月「从行者举兵乱,北护卫太保术者、舍利详稳牙不里等击败之」。天祚帝の逃避行に随行する将兵による反乱。
被反乱1124年11月従駕者の兵乱
首謀者: 従行者(天祚帝随行の将兵)
結果: 鎮圧
保大4年冬11月「从行者举兵乱,北护卫太保术者、舍利详稳牙不里等击败之」。
立后日付不詳皇后蕭氏(小字奪里懶、宰相蕭継先の五世孫)。
皇后蕭氏(小字奪里懶、宰相蕭継先の五世孫)。大安3年入宮、翌年(大安4年)燕国王妃に封ぜられ、乾統初に皇后に冊立された。性格は閑淑で儀則を備えたと評される。廃后・再冊立の記録はなく、女直の乱に際して天祚に従い西行(夾山へ)し、その途上で病没した。
出典: 遼史 巻七十一 列傳第一(后妃・天祚皇后蕭氏伝)
反乱鎮圧1113-閏4李弘の乱
首謀者: 李弘
結果: 鎮圧(支解の上、五京に晒す)
天庆3年閏4月「李弘以左道聚众为乱,支解,分示五京」。
被反乱1113-閏4李弘の乱
首謀者: 李弘
結果: 鎮圧
天庆3年閏4月「李弘以左道聚众为乱,支解,分示五京」。