景宗
遼|在位 969–982年
- 諱(本名)
- 耶律明扆(耶律賢)
- 在位
- 969–982年
- 在位期間
- 13年217日365名中98位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 22歳(数え年)172名中・若い順83位タイ
- 没年齢
- 35歳(数え年)269名中・長寿順164位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
世宗の第二子で穆宗の許で養育された。正式な立太子・遺詔はなく、穆宗遇弑の報を受け軍を率いて駆けつけた景宗を群臣が柩前で推戴した。
出典: 遼史 巻八(景宗紀上)
死因の経緯
雲州行幸中の狩猟先で発病、9日後に焦山の行在で崩御。
出典: 遼史 巻九(景宗紀下)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
景宗は北朝の五胡十六国等に見られる「王・天王→皇帝」の2段階即位パターンには該当せず、応暦十九年(969年)の即位と同時に皇帝として建元しているため、noteの【皇帝即位前】等のラベル付けは不要と判断した。なお「十二月戊戌,汉将改元,遣使禀命」(保寧八年)は北漢(汉)側の改元であり景宗自身の改元ではないため非計上。
大赦回数
2件のうち即位時(969年)の1件は「大赦」と明記され確度高。乾亨改元時(979年)の1件は原文が「赦」のみで「大赦」の明記がなく、厳密な基準では判定がやや曖昧なため全体としてconfidenceをmediumとした。他に「乙亥,诏数韩匡嗣五罪,赦之」(保寧九年)は韓匡嗣個人への赦免であり全国規模の大赦ではないため非計上。
立后回数
景宗在位中(969-982年)の立后記事は巻八の保寧元年五月条の1件のみ確認。以降崩御まで皇后の廃立・再冊立の記述はない。
皇太子廃立回数
遼史巻八・巻九の景宗在位中の記事に、皇太子・皇太弟等の廃立に相当する記述は見当たらない。「祭皇兄吼墓,追册为皇太子」(保寧三年、亡兄・耶律吼への死後の追贈)および「齐王罨撒葛薨…追册为皇太叔」(保寧四年、実弟・罨撒葛への死後の追贈)はいずれも故人への追贈称号であり、生前に立てられた皇太子・法定推定継承者を廃した事例ではないため非計上。子の隆绪(後の聖宗)についても在位中に正式な皇太子冊立の記述はなく(遺詔で梁王隆绪が嗣位)、廃立の対象自体が存在しない。
親征回数
原文で「将南伐」「自将南伐」と皇帝自身の親征が明記される2件のみを計上。北漢救援・高梁河の戦い(乾亨元年979)等の対宋戦は将軍(韓匡嗣・耶律沙等)が指揮したもので皇帝自身の親征の記載がないため除外。
反乱鎮圧回数
以下は鎮圧回数に含めなかった:(1)党項・敵烈への「伐」「献俘」記事(保寧三~九年に頻出)は首謀者・反乱契機の記載がなく通常の対辺境部族討伐と判断し除外、(2)女直の辺境侵掠(保寧五年・八年)は略奪のみで首謀者名・鎮圧対応の記載がなく除外、(3)吐谷浑400余戸の太原逃入(保寧九年)は武力衝突なく交渉で送還されたため除外、(4)萧思温暗殺事件(保寧二年)は大臣暗殺であり皇帝への反乱ではないため除外。これらの境界判断により医confidenceはmediumとした。
被反乱回数
鎮圧回数と同一の2件を計上(対応関係は集計粒度差なし)。除外理由もrebellionSuppressionCountのnoteと同一:党項・敵烈討伐、女直の辺境侵掠、吐谷浑逃入、萧思温暗殺事件は反乱の要件(皇帝への武力反抗・明確な首謀者)を満たさないか対外戦争的性格と判断し除外した。喜隐の976年・980年の謀反容疑も兵力行使の記載がないため除外し、981年の武装蜂起1件のみ計上。
遷都回数
遼史本紀・志を通読。太祖耶律阿保機の上京臨潢府定都(建国時の定都)から1125年の滅亡まで上京が一貫した主都(五京制は複都制の陪都)。
即位時年齢・没年齢
『遼史』巻九(景宗紀下)崩御記事に「年三十五,在位十三年」と没年齢が直接記載。即位時年齢は、巻八冒頭の「察割之乱,帝甫四岁」(世宗弑逆・穆宗即位の年=951年に4歳)という直接記載から、即位年(応暦十九年=969年)との年差(969-951=18)を加算する年号年ラベル差分法で22歳と算出。この方法による没年時点の逆算(4+(982-951)=35)が本紀直接記載の没年齢35歳と完全一致し整合性を確認済みのためconfidence highとした。
在位中の出来事(11件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元969年2月23日応暦十九年二月己巳、穆宗遇弑を受け柩前で皇帝に即位すると同時に「改元保宁」と建元。
応暦十九年二月己巳、穆宗遇弑を受け柩前で皇帝に即位すると同時に「改元保宁」と建元。即位に伴う最初の建元。
出典: 遼史 巻八(景宗紀上)
大赦969年2月23日応暦十九年二月己巳、穆宗遇弑後、群臣の勧進により柩前で即位。
応暦十九年二月己巳、穆宗遇弑後、群臣の勧進により柩前で即位。「百官上尊号曰天赞皇帝,大赦,改元保宁」と即位・建元と同時に大赦を実施。
出典: 遼史 巻八(景宗紀上)
改元日付不詳保寧十一年(979年)十一月辛丑、冬至の日に「改元乾亨」。
保寧十一年(979年)十一月辛丑、冬至の日に「改元乾亨」。在位中の改元。
出典: 遼史 巻九(景宗紀下)
大赦日付不詳保寧十一年(979年)十一月辛丑、冬至の日に「赦,改元乾亨」と記載。
保寧十一年(979年)十一月辛丑、冬至の日に「赦,改元乾亨」と記載。改元と同時に恩赦を実施しているが原文表記が「大赦」ではなく単に「赦」であるため全国規模かどうか厳密には明記が弱い。改元に伴う恩赦であり大赦相当と判断してカウントしたが、この1件については確度をやや下げている。
出典: 遼史 巻九(景宗紀下)
立后日付不詳保寧元年(969年)五月戊寅、「立贵妃萧氏为皇后」と貴妃・蕭氏(後の睿智皇后、聖宗の母・承天太后)を皇后に冊立。
保寧元年(969年)五月戊寅、「立贵妃萧氏为皇后」と貴妃・蕭氏(後の睿智皇后、聖宗の母・承天太后)を皇后に冊立。景宗在位中の立后はこの1回のみで、その後の廃后・再冊立の記述はない。
出典: 遼史 巻八(景宗紀上)
親征日付不詳宋(瓦橋関の役)
対象: 宋(瓦橋関の役)
結果: 勝利(宋軍を瓦橋関東で大破し莫州まで追撃、班師)
乾亨二年(980)冬十月「将南伐,祭旗鼓」「次南京」「次固安」「囲瓦橋関」と景宗自身の行軍・親征が明記される。実戦闘は耶律休哥ら諸将が指揮したが、皇帝自身が軍を率いて出征したことは原文から明らか。十一月、瓦橋関東で宋軍を大敗させた。
親征日付不詳宋(満城の役)
対象: 宋(満城の役)
結果: 敗北(守太尉奚瓦里が流矢で戦死、統軍使善補は伏兵に包囲され斜軫の救援を受けた)
乾亨四年(982)夏四月「自将南伐,至満城,戦不利」と明記。五月に班師。
反乱鎮圧日付不詳燕頗の乱(黄龍府)
首謀者: 燕頗(黄龍府衛将)
結果: 鎮圧(治河で撃破。燕頗本人は兀惹城へ逃走し捕らえられなかったが、残党千余戸は通州に移して収拾)
保寧七年(975)秋七月、黄龍府衛将燕頗が都監張琚を殺害して叛乱、耶律曷里必が討伐に派遣され、九月に治河で撃破。首謀者本人は逃走したが反乱自体は鎮圧されたと判断。
反乱鎮圧日付不詳上京漢軍の乱(喜隐擁立未遂)
首謀者: 上京の漢軍(名目上の擁立対象は宋王喜隐、実際に偽って擁立されたのはその子留礼寿)
結果: 鎮圧(上京留守除室が留礼寿を捕らえ、七月に処刑。首謀者格の喜隐自身は乾亨四年七月に賜死)
乾亨三年(981)夏五月、上京の漢軍が反乱を起こし宋王喜隐の擁立を図るも成らず、その子留礼寿を偽って擁立。上京留守除室が鎮圧し留礼寿を捕らえ、秋七月に処刑。喜隐自身は保寧八年(976)「坐謀反廃」・乾亨二年(980)「復謀反,囚於祖州」と2度謀反容疑があったが、いずれも兵力行使の記載がなく密告・摘発のみで終わっているため鎮圧・被反乱いずれにも計上していない(本ブロックの共通ルールに従う)。この981年の漢軍蜂起のみ実際の武力行使を伴うため1件として計上した。
被反乱日付不詳燕頗の乱(黄龍府)
首謀者: 燕頗(黄龍府衛将)
結果: 鎮圧(治河で撃破、燕頗本人は逃走したが残党は収拾)
保寧七年(975)、黄龍府衛将燕頗が都監張琚を殺害して叛乱。rebellionSuppressionCountと同一事象。
被反乱日付不詳上京漢軍の乱(喜隐擁立未遂)
首謀者: 上京の漢軍(喜隐擁立を企図、実際は子の留礼寿を偽って擁立)
結果: 鎮圧(留礼寿処刑、喜隐も後日賜死)
乾亨三年(981)夏五月、上京漢軍の武装蜂起。rebellionSuppressionCountと同一事象。皇帝景宗自身が攻撃対象となった内部クーデター的事件のため被反乱にも計上。