穆宗の人物データ
- 生年
- 931年
- 在位
- 951年10月11日〜969年3月12日
- 没年
- 969年3月12日39歳(数え年)長生き順同率135位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 契丹名耶律述律幼名述律呼び名の見方
出典
- 在位
- 遼史 本紀六 穆宗上(即位)/本紀七 穆宗下(崩御)
- 死因
- 遼史 巻七(穆宗紀下)
- 即位経路
- 遼史 巻六(穆宗紀上)
生涯
どんな皇帝か
新五代史や資治通鑑は、国人が睡王と呼んだと記す。遼史の論賛は、巫の偽りを見抜き濫刑を諫めさせた明はあったとしつつ、酒と狩りにふけり、賞罰に筋が無く、政務を見ず、殺しをやめなかったので、変が身近から起こったのも当然だと評する。
即位まで
太宗の長子で、939年に寿安王に封じられた。951年、従兄の世宗が祭祀の宴で酔ったところを察割に殺された。迷う寿安王を屋質が説き、察割は誅され、寿安王が即位した。即位すると屋質に、朕の命は実に卿の手から出たと言った。
史料について
察割を誅した経緯は屋質伝による。遼史の察割伝は寿安王が誘い出させて殺したとし、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は経緯を書かない。新五代史は、述律が乱を聞いて南山に逃れ、察割らが殺されたのち迎えられて立ったとし、資治通鑑は、諸部が述律を奉じて察割らを攻め殺したとする。
治世と最期
952年には謀逆が相次ぎ、太尉朝廷で最も位の高い大臣の一つや政事令政治の中心となる役所の長官らが誅された。957年、男子の胆を使う延命薬を上った女巫神に祈り、神のお告げを伝える女性の肖古を、数年のうちに多くの人が殺されたのち偽りと覚って射殺した。同じ年、怒りに任せて無辜に及べば切に諫めよと大臣に詔した。959年、後周に三関と瀛・莫二州を取られた。
963年には昼夜飲み続けること九日に及び、964年には昼寝て夜飲むようになった。番人や近侍をたびたび殺し、967年には、雉の番人を殺そうとしたときは、法では死罪に当たらないと諫められても斬り、鹿の番人44人も斬らせた。
969年のはじめ、立春から飲み続けて政務を聴かず、そのさなかに、自分が酔って処置を誤ったら従うな、醒めてから上奏し直せと太尉に詔した。殺される前日、永興宮で養われていた世宗の子の景宗に、わが子は大人になった、政務を任せてよいと言った。懐州で熊を獲って酔うまで飲み、行宮皇帝が都の外で泊まる仮の宮殿に戻った夜、近侍の小哥や庖人の辛古ら6人に殺された。
史料について
国人が睡王と呼んだという話は新五代史と資治通鑑にあり、遼史には無い。刑法志は、酔ったときの詔を言うだけで改めず、ゆえに難に及んだと評する。最期を、続資治通鑑長編は、酔って食事を得られず料理人を斬ろうとしたので、料理人が刃を携えて食事を運び、殺したとする。
穆宗とつながる皇帝

勢力図
五代十国の勢力図で見る
951–969年の地図に、穆宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・改元1
- 改元951年10月11日元号を「応暦」とする
- 反乱964–965年黄室韋(大黄室韋・小黄室韋)の乱
- 反乱965–967年烏古の乱
遼の歴代皇帝
歴代9人の一覧年表
遼・
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