中国皇帝統計

穆宗

遼|在位 951–969年

諱(本名)
耶律述律(耶律璟)
在位
951–969年
在位期間
17年157日365名中67位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
21歳(数え年)172名中・若い順80位タイ
没年齢
39歳(数え年)269名中・長寿順137位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

世宗が察割の乱で横死した直後、乱の鎮圧に加わっていた寿安王(穆宗)が擁立された。世宗の実子(後の景宗)は当時4歳の幼児であったため、太宗の子である穆宗が中枢重臣(耶律屋質ら)に推戴される形で即位。

出典: 遼史 巻六(穆宗紀上)

死因の経緯

懐州での狩猟後の酒宴で泥酔し戻った夜、近侍・浴室係・料理人ら6名によって寝所で暗殺された。在位中、酩酊状態で理由なく近侍・猟師・料理人らを次々に殺害する記事が頻出しており、常習的な虐待に対する側近による自衛的な弑逆と解される。

出典: 遼史 巻七(穆宗紀下)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

遼史 巻六・巻七を通読したが「改元」の語は即位時のこの1件のみで、応暦十八年間(応暦二年〜十九年)を通じて他に改元の記事はない。応暦の元号がそのまま崩御(応暦十九年二月)まで一貫して使用された。

大赦回数

遼史 巻六(穆宗紀上)・巻七(穆宗紀下)を通読したが「大赦」「大赦天下」等と明記された全国規模の恩赦は見当たらない。応暦十一年六月甲午条に「赦。」の一字のみの記事があるが、「大」の字を欠き「天下」「境内」等の全国規模を示す語も伴わないため、本カウント基準(先行判定:shiguo-wu-yangpuの事例で『大』字を欠く単なる『赦』は非計上とした前例)に従い対象外とした。応暦八年戊申条「曲赦京師囚」・応暦十八年己未条「曲赦京畿囚」はいずれも「曲赦」(地域限定)と明記されており除外。応暦二年・三年の生日に伴う「饭僧,释系囚」「释囚」も対象を限定した恩恵的措置で「赦」字はあるが「大赦」の明記がなく除外した。

立后回数

遼史 巻六・巻七を通読したが穆宗自身による皇后冊立の記事は見当たらない。本紀冒頭に登場する「靖安皇后蕭氏」は穆宗の生母(太宗の妃、追贈号)であり穆宗自身の皇后ではない。穆宗は生涯皇后を立てなかったことで知られる人物であり、記述の欠落ではなく実際に立后がなかったと判断した。

皇太子廃立回数

遼史 巻六・巻七を通読したが「太子」「儲」等、皇太子(皇太弟・皇太孫を含む)に関する記述は一切見当たらない。穆宗は生涯法定推定継承者を立てなかったとみられ、暗殺後の後継(景宗)は群臣による事後の推戴によるものである。

親征回数

本紀全体(応暦元年~十九年)を通読したが、穆宗自身が軍を率いて出征した記録は見当たらない。対後晋・対後周・対乌古・対黄室韦の軍事行動はいずれも耶律挞烈・萧思温・高模翰・耶律雅里斯・常思ら将軍に委ねられており、皇帝本人は狩猟(畋猎)・酒宴に多くの時間を費やしていたことが賛(史臣評)にも「荒耽于酒,畋猎无厌」と明記されている。

反乱鎮圧回数

応暦二年(忽古质・萧眉古得/李澣・娄国ら)、三年(李胡子宛ら)、九年(王子敌烈・海思ら)、十年(耶律寿远・喜隐ら)に相次いで宮廷内謀反計画が記録されるが、いずれも「事觉」「伏诛」「就执」「下狱死」等、密告・摘発により実際の兵力衝突に至らず鎮圧されているため、ルールに従い鎮圧回数に含めない。対後漢の忻・代二州反乱(応暦四年)は後漢自身の領内反乱への遼の派兵支援であり遼自身への反乱ではないため除外。カウントしたのは服属部族(乌古・室韦)の武力反乱2件のみ。事件範囲の区切り方(大/小黄室韦を1件とみなす等)に解釈の余地があるためconfidenceはmedium。

被反乱回数

応暦十九年二月、近侍小哥・浴人花哥・庖人辛古ら6名によって寝所で弑逆された事件(帝遇弑,年三十九)があるが、これは政事令・宣徽使等の権力者による兵力を伴うクーデターではなく、下位の従者6名による突発的な暗殺(酔って狩猟から戻った隙を突いたもの)であり、deathCauseで既に計上済みのため、被反乱例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆)には該当しないと判断し計上しない。応暦二〜十年の宮廷内謀反計画群(忽古质・娄国・李胡子宛・敌烈・耶律寿远等)も密告・摘発のみで兵力衝突を伴わないため対象外。カウントしたのは服属部族(乌古・室韦)の武力反乱2件のみ。

遷都回数

遼史本紀・志を通読。太祖耶律阿保機の上京臨潢府定都(建国時の定都)から1125年の滅亡まで上京が一貫した主都(五京制は複都制の陪都)。

即位時年齢・没年齢

遼史 巻七(穆宗紀下)応暦十九年二月己巳の条に「帝遇弑,年三十九,廟號穆宗」と没年齢が直接記載されている。生年・即位時年齢の直接記載は本紀中に見当たらない。

在位中の出来事(5件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元951年10月11日天禄五年九月丁卯(世宗遇害・逆臣察割誅殺の直後)、即皇帝位と同日に群臣より「天順皇帝」の尊号を受け、年号を「応暦」に改元(建元)。

天禄五年九月丁卯(世宗遇害・逆臣察割誅殺の直後)、即皇帝位と同日に群臣より「天順皇帝」の尊号を受け、年号を「応暦」に改元(建元)。前代世宗の元号「天禄」からの切替。

出典: 遼史 巻六(穆宗紀上)

反乱鎮圧964年9月〜965年6月黄室韦(大黄室韦・小黄室韦)の乱

首謀者: 寅尼吉(大黄室韦酋長)ほか

結果: 討伐軍(耶律雅里斯・楚思ら)が一時室韦に敗れるが、最終的に首魁寅尼吉は敵烈部へ逃亡し乱は消散

応暦十四年九月「黄室韦叛」に始まり、十五年三月「大黄室韦酋长寅尼吉叛」、四月「小黄室韦叛,雅里斯、楚思等击之,为室韦所败」と展開、五月「库古只奏室韦长寅尼吉亡入敌烈」で首魁逃亡を確認。服属部族の武力反乱として鎮圧に計上。

被反乱964年9月〜965年6月黄室韦(大黄室韦・小黄室韦)の乱

首謀者: 寅尼吉(大黄室韦酋長)ほか

結果: 討伐軍が一時敗北するも、最終的に首魁が逃亡し乱は消散

服属部族(黄室韦)の武力反乱。suppressionCountと同一事象。

反乱鎮圧964年12月〜967年1月烏古の乱

首謀者: 烏古部族(当初の首長窣离底ほか)

結果: 詳穏僧隠の敗死等の苦戦を経て、複数回の討伐(雅里斯・秃里・常思・萧斡ら)の末、応暦十七年正月に討伐軍凱旋・論功行賞が行われ鎮圧完了

応暦十四年十二月「乌古叛,掠民财畜。详稳僧隐与战,败绩,僧隐及乙实等死之」に始まり、十五年を通じて一进一退(雅里斯败绩、常思败之等)、十七年正月「林牙萧斡、郎君耶律贤适讨乌古还,帝执其手,赐卮酒」で凱旋・論功行賞の記事あり。服属部族の武力反乱として鎮圧に計上。

被反乱964年12月〜967年1月烏古の乱

首謀者: 烏古部族

結果: 詳穏僧隠の敗死等を経て最終的に鎮圧成功、応暦十七年正月凱旋

服属部族(烏古)の武力反乱。suppressionCountと同一事象。

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