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遼第4代

穆宗耶律璟

在位 951–969年(17年152日)951年10月11日 〜 969年3月12日

日本は平安時代

遼の太宗の長子で、951年に即位し、969年に側近の者たちに殺された皇帝である。

穆宗の人物データ

生年
931年
在位
  • 951年10月11日〜969年3月12日
17年152日長い順67位/365人21歳で即位(数え年)
没年
969年3月12日39歳(数え年)長生き順同率135位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
(経緯記載なし)
先代
  • 世宗遼穆宗は世宗の従兄弟
次代
  • 景宗遼景宗は穆宗の同族(遠縁)
呼び名
契丹名耶律述律幼名述律呼び名の見方

出典

在位
遼史 本紀六 穆宗上(即位)/本紀七 穆宗下(崩御)
死因
遼史 巻七(穆宗紀下)
即位経路
遼史 巻六(穆宗紀上)

生涯

どんな皇帝か

新五代史や資治通鑑は、国人が睡王と呼んだと記す。遼史の論賛は、巫の偽りを見抜き濫刑を諫めさせた明はあったとしつつ、酒と狩りにふけり、賞罰に筋が無く、政務を見ず、殺しをやめなかったので、変が身近から起こったのも当然だと評する。

即位まで

太宗の長子で、939年に寿安王に封じられた。951年、従兄の世宗が祭祀の宴で酔ったところを察割に殺された。迷う寿安王を屋質が説き、察割は誅され、寿安王が即位した。即位すると屋質に、朕の命は実に卿の手から出たと言った。

史料について

察割を誅した経緯は屋質伝による。遼史の察割伝は寿安王が誘い出させて殺したとし、は経緯を書かない。新五代史は、述律が乱を聞いて南山に逃れ、察割らが殺されたのち迎えられて立ったとし、資治通鑑は、諸部が述律を奉じて察割らを攻め殺したとする。

治世と最期

952年には謀逆が相次ぎ、やらが誅された。957年、男子の胆を使う延命薬を上ったの肖古を、数年のうちに多くの人が殺されたのち偽りと覚って射殺した。同じ年、怒りに任せて無辜に及べば切に諫めよと大臣に詔した。959年、後周に三関と瀛・莫二州を取られた。

963年には昼夜飲み続けること九日に及び、964年には昼寝て夜飲むようになった。番人や近侍をたびたび殺し、967年には、雉の番人を殺そうとしたときは、法では死罪に当たらないと諫められても斬り、鹿の番人44人も斬らせた。

969年のはじめ、立春から飲み続けて政務を聴かず、そのさなかに、自分が酔って処置を誤ったら従うな、醒めてから上奏し直せと太尉に詔した。殺される前日、永興宮で養われていた世宗の子の景宗に、わが子は大人になった、政務を任せてよいと言った。懐州で熊を獲って酔うまで飲み、に戻った夜、近侍の小哥や庖人の辛古ら6人に殺された。

史料について

国人が睡王と呼んだという話は新五代史と資治通鑑にあり、遼史には無い。刑法志は、酔ったときの詔を言うだけで改めず、ゆえに難に及んだと評する。最期を、続資治通鑑長編は、酔って食事を得られず料理人を斬ろうとしたので、料理人が刃を携えて食事を運び、殺したとする。

穆宗とつながる皇帝

五代十国の勢力図(951年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

951–969年の地図に、穆宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・改元1
  1. 改元951年10月11日元号を「応暦」とする
  2. 反乱964–965年黄室韋(大黄室韋・小黄室韋)の乱
  3. 反乱965–967年烏古の乱

遼の歴代皇帝

歴代9人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

遼が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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