中国皇帝統計

聖宗

遼|在位 982–1031年

諱(本名)
耶律文殊奴(耶律隆緒)
在位
982–1031年
在位期間
48年265日365名中6位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
12歳(数え年)172名中・若い順37位タイ
没年齢
61歳(数え年)269名中・長寿順33位タイ
改元
3332名中45位タイ
大赦
6267名中67位タイ
立后
2204名中14位タイ
皇太子廃立
0
親征
6112名中8位タイ
反乱鎮圧
10225名中38位タイ
被反乱
10289名中48位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

景宗の嫡長子で正式に遺詔を受けて即位した直系世襲(即位当初は生母・承天皇太后が摂政)。

出典: 遼史 巻十(聖宗紀一)

死因の経緯

3月に発病、6月に大福河北の行宮で崩御。

出典: 遼史 巻十七(聖宗紀八)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

聖宗は即位(乾亨四年九月)後も先帝景宗の元号「乾亨」を統和元年五月まで継続使用し、自らは改元しなかったためこの間はカウントしない。以後、統和→開泰→太平と計3回改元しており、国号(遼)の変更はこの期間なし。

大赦回数

原文中「大赦」と明記された全国規模の恩赦のみを計上(計6回)。なお「曲赦市中系囚」「曲赦畿内囚」は地域・対象限定の恩赦のため除外、皇太后不予時の「肆赦」(巻十四)は「大赦」と明記された表現ではないため今回は計上せず参考情報にとどめた。

立后回数

本紀中に確認できた立后(冊立)は上記2回のみ。統和十九年三月の「皇后萧氏以罪降為貴妃」自体は廃后(降格)であり立后カウントには含めない。

皇太子廃立回数

聖宗本紀(巻十〜巻十七)を通読した限り、皇太子・皇太弟等の廃立事例は確認できなかった。太平元年十一月甲申に皇子梁王宗真(のちの興宗)を皇太子に冊立した記事はあるが、廃立ではなく在位中に廃されることなく即位(同日崩御)に至っているため対象外。

親征回数

宋・高麗は本ブロックのルールにより「対等勢力・外国」として扱い、聖宗自身が親征した戦役のみ計上(将軍のみ派遣した対宋・対高麗戦は除外)。

反乱鎮圧回数

宋・高麗との戦争は対等勢力間の対外戦争としてpersonalCampaignCountに計上済みのため本カウントから除外。単なる謀反計画(摘発・処刑のみで兵力行使なし)である統和十二年の耶律鼻舎謀叛・統和二十一年の道士奴/高九謀叛は除外。統和四年の宋侵攻に伴う諸城の対宋投降(寰州・応州・朔州・飛狐・霊丘等)は対宋戦争の一環とみなし独立した反乱としては計上せず。49年の長期在位で辺境部族の蜂起が頻発するため、原文で「叛」等の明示的な反乱表現があり具体的な首魁・鎮圧記述を伴う事案のみを1件ずつ計上(境界判断に幅があるためconfidence=medium)。

被反乱回数

宋・高麗との戦争は対等勢力間の対外戦争のためpersonalCampaignCountに計上済みで本カウントから除外。単なる謀反計画(摘発・処刑のみ)は除外。49年の長期在位のため辺境部族反乱が頻発し、境界判断(同一反乱の連続性・独立性の区分)にconfidence=mediumとした。suppressionCountと同一の10件で一致(全件、鎮圧側と被害側で同じ反乱群を計上)。

遷都回数

遼史本紀・志を通読。太祖耶律阿保機の上京臨潢府定都(建国時の定都)から1125年の滅亡まで上京が一貫した主都(五京制は複都制の陪都)。

即位時年齢・没年齢

即位時年齢12歳・崩御時年齢61歳はいずれも聖宗本紀に直接記載(巻十「癸丑、即皇帝位於柩前、時年十二」/巻十七「己卯、帝崩于行宮、年六十一、在位四十九年」、数え年)。生年は父・景宗の本紀(遼史巻八〔景宗紀上〕、china-history『辽史/本纪/第八章-卷八-原文.html』およびdaizhigev20『辽史.txt』の双方で確認)に「保寧三年十二月己丑、皇子隆緒生」と直接記載があり(月日まで判明するが旧暦→西暦月変換は未確定のため年精度で採用)、保寧三年=971年。即位時年齢12歳(982年即位)・崩御時年齢61歳(1031年崩御)から数え年で逆算した生年(982-12+1=971、1031-61+1=971)ともいずれも完全に一致し、相互検証済み。

在位中の出来事(37件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦982年10月乾亨四年冬十月辛酉、群臣が帝に尊号「昭聖皇帝」を上り皇后を皇太后に尊ぶと同時に大赦。

乾亨四年冬十月辛酉、群臣が帝に尊号「昭聖皇帝」を上り皇后を皇太后に尊ぶと同時に大赦。元号は先帝景宗の「乾亨」をそのまま継続使用しており改元は伴わない。

出典: 遼史 巻十(聖宗紀一)

改元983年6月統和元年六月甲午、大赦とともに改元統和。

統和元年六月甲午、大赦とともに改元統和。乾亨四年九月の即位後、統和元年五月まで先帝景宗の元号「乾亨」を継続使用しており改元しなかった期間があるため、この統和改元が実質的な即位後最初の建元にあたる。

出典: 遼史 巻十(聖宗紀一)

大赦983年6月統和元年六月甲午、皇太后に尊号「承天皇太后」、帝に尊号「天輔皇帝」を上ると同時に大赦・改元統和(eraChangeCountの1件目と同一日の事象)。

出典: 遼史 巻十(聖宗紀一)

立后986年9月統和四年九月辛巳、皇后萧氏(のちの斉天皇后、萧菩薩哥)を納れる(立后)。

出典: 遼史 巻十一(聖宗紀二)

親征986年9月〜987年1月宋(雍熙北伐への反撃・南進)

対象: 宋(雍熙北伐への反撃・南進)

結果: 岐溝関で曹彬・米信軍を大破、楊業を捕縛(飛狐の戦い)、深州・邢州等を攻略

統和四年九月、宋の雍熙北伐(曹彬・田重進・潘美ら三路侵攻)に対し「以親征告陵廟、山川」とあり聖宗自ら皇太后とともに親征。統和五年正月南京に還る一連の軍事行動。

親征988年9月〜989年1月宋(南伐)

対象: 宋(南伐)

結果: 涿州・長城口・満城・祁州・新楽等を攻略

統和六年九月「祭旗鼓南伐」、長城口攻略戦は「上以將攻長城口」等で親征が明記。統和七年正月班師。

反乱鎮圧993年〜995年兀惹烏昭度の乱

首謀者: 烏昭度

結果: 討伐は失敗(「討兀惹不克、削官」)も後に烏昭度が内附を願い出て終息

統和十二年、兀惹の烏昭度・渤海燕頗らが鉄驪を侵し、奚王和朔奴らが討伐するも失敗。統和十四年、烏昭度が内附を申し出て終息。

被反乱993年〜995年兀惹烏昭度の乱

首謀者: 烏昭度

結果: 討伐は失敗も後に内附を願い出て終息

統和十二年、兀惹の烏昭度・渤海燕頗らが鉄驪を侵し、奚王和朔奴らが討伐するも「討兀惹不克、削官」と失敗。統和十四年、烏昭度が内附を申し出て終息。

反乱鎮圧995年阿魯敦の乱

首謀者: 阿魯敦

結果: 誘殺により鎮圧

統和十四年、蕭撻凛が叛酋阿魯敦ら六十人を誘い出し斬殺。

被反乱995年阿魯敦の乱

首謀者: 阿魯敦

結果: 誘殺により鎮圧

統和十四年、蕭撻凛が叛酋阿魯敦ら六十人を誘い出し斬殺。

反乱鎮圧997年敵烈八部の乱(一次)

首謀者: 敵烈八部(首魁名不明)

結果: 部分鎮圧

統和十五年、敵烈八部が担当の詳穏を殺害し反乱。蕭撻凛が追撃し部族の半数を捕獲。

被反乱997年敵烈八部の乱(一次)

首謀者: 敵烈八部(首魁名不明)

結果: 部分鎮圧

統和十五年、敵烈八部が担当の詳穏を殺害し反乱。蕭撻凛が追撃し部族の半数を捕獲。

親征999年9月〜1000年1月宋(南伐)

対象: 宋(南伐)

結果: 瀛州で宋将康昭裔を捕縛、楽寿県を攻略

統和十七年九月「幸南京。乙亥、南伐」。統和十八年正月「還次南京」で帰還確認。

立后1001年5月統和十九年五月丙戌、萧氏を斉天皇后として冊立。

統和十九年五月丙戌、萧氏を斉天皇后として冊立。同年三月壬辰に一度「罪」により貴妃へ降格されており、本件はその後の再冊立にあたる(廃后後の復位として別カウント)。

出典: 遼史 巻十四(聖宗紀五)

親征1001年10月宋(南伐)

対象: 宋(南伐)

結果: 遂城で宋軍を破るも泥濘のため満城で班師

統和十九年冬十月、梁国王隆慶が先鋒を率いる中「次盬溝」「次満城」等で聖宗自身の駐蹕地が記され親征と判断。

大赦1006年10月統和二十四年冬十月庚午朔、皇太后に尊号「睿德神略應運啓化承天皇太后」、帝に尊号「至德廣孝昭聖天輔皇帝」を上ると同時に大赦(改元は伴わない)。

出典: 遼史 巻十四(聖宗紀五)

親征1010年8月〜1011年1月高麗

対象: 高麗

結果: 開京を攻略・焼失させるも完全征服には至らず撤退

統和二十八年八月「自將伐高麗」と明記(康肇による高麗王詢弑逆を名目)。統和二十九年正月班師。

反乱鎮圧1012年〜1013年開泰元-二年西北辺境諸部反乱(阿里底ら)

首謀者: 阿里底(阻卜七部太師)ほか烏古・敵烈・党項諸部

結果: 鎮圧

開泰元年、阻卜七部太師阿里底が節度使霸暗を殺害し反乱、阻卜の他勢力に捕縛・献上されるも、これを機に沿辺諸部が一斉蜂起。開泰二年、右皮室詳穏延寿が烏古・敵烈を討伐、耶律化哥が阻卜酋長烏八の勢力を破り鎮定。

被反乱1012年〜1013年開泰元-二年西北辺境諸部反乱(阿里底ら)

首謀者: 阿里底(阻卜七部太師)ほか烏古・敵烈・党項諸部

結果: 鎮圧

開泰元年、阻卜七部太師阿里底が節度使霸暗を殺害し反乱、これを機に沿辺諸部が一斉蜂起。開泰二年に鎮定。

改元1012年11月統和三十年(開泰元年)十一月甲午朔、大赦とともに改元開泰。

出典: 遼史 巻十五(聖宗紀六)

大赦1012年11月統和三十年(開泰元年)十一月甲午朔、文武百官が尊号「弘文宣武尊道至德崇仁廣孝聰叡昭聖神贊天輔皇帝」を上ると同時に大赦・改元開泰(eraChangeCountの2件目と同一日の事象)。

出典: 遼史 巻十五(聖宗紀六)

反乱鎮圧1014年〜1015年烏古の乱(開泰三-四年)

首謀者: 烏古部

結果: 鎮圧

開泰三年四月「烏古叛」、開泰四年に耶律世良が烏古を討伐し破る。

反乱鎮圧1014年敵烈八部の乱(二次)

首謀者: 敵烈八部(詳穏稍瓦を殺害)

結果: 招撫により鎮定

開泰三年九月、敵烈八部が詳穏稍瓦を殺害し反乱。耶律吾剌葛が招撫、捕虜を釈放し招諭して鎮定。

被反乱1014年〜1015年烏古の乱(開泰三-四年)

首謀者: 烏古部

結果: 鎮圧

開泰三年四月「烏古叛」、開泰四年に耶律世良が烏古を討伐し破る。

被反乱1014年敵烈八部の乱(二次)

首謀者: 敵烈八部(詳穏稍瓦を殺害)

結果: 招撫により鎮定

開泰三年九月、敵烈八部が詳穏稍瓦を殺害し反乱。招撫により鎮定。

反乱鎮圧1015年于厥の乱

首謀者: 于厥部

結果: 鎮圧(成人男性を殲滅)

開泰四年、于厥部が内徙命令を嫌って反乱、耶律世良がこれを破り丁壮を殲滅。

被反乱1015年于厥の乱

首謀者: 于厥部

結果: 鎮圧(成人男性を殲滅)

開泰四年、于厥部が内徙命令を嫌って反乱、耶律世良がこれを破り丁壮を殲滅。

大赦1017年9月開泰六年九月庚子、上京に還り、皇子(皇孫。

開泰六年九月庚子、上京に還り、皇子(皇孫。原文「属思」、のちの興宗の子か)誕生を機に大赦(改元は伴わない)。

出典: 遼史 巻十五(聖宗紀六)

改元1021年11月開泰九年(太平元年)十一月癸未、大赦とともに改元太平。

出典: 遼史 巻十六(聖宗紀七)

大赦1021年11月開泰九年(太平元年)十一月癸未、文武百僚が尊号「睿文英武遵道至德崇仁廣孝功成治定昭聖神贊天輔皇帝」を上ると同時に大赦・改元太平(eraChangeCountの3件目と同一日の事象)。

出典: 遼史 巻十六(聖宗紀七)

反乱鎮圧1026年〜1027年太平六-七年阻卜諸部反乱

首謀者: 阻卜諸部

結果: 討伐継続、キャッシュ範囲内に明確な終結記述なし

太平六年、甘州回鶻討伐失敗を機に阻卜諸部が一斉反乱、監軍涅里姑・国舅帳太保曷不吕らが戦死。太平七年、蕭恵に再度阻卜討伐を命令。以後の明確な終息記述は原文キャッシュ内に見当たらず。

被反乱1026年〜1027年太平六-七年阻卜諸部反乱

首謀者: 阻卜諸部

結果: 討伐継続、キャッシュ範囲内に明確な終結記述なし

太平六年、甘州回鶻討伐失敗を機に阻卜諸部が一斉反乱、監軍涅里姑・国舅帳太保曷不吕らが戦死。太平七年、蕭恵に再度阻卜討伐を命令。

反乱鎮圧1029年8月〜1030年8月大延琳の乱(興遼国)

首謀者: 大延琳

結果: 鎮圧(東京城攻略・大延琳捕縛)

太平九年八月、東京舎利軍詳穏大延琳が留守蕭孝先らを幽閉し戸部使韓紹勲らを殺害、自立して「興遼国」を号し年号「天慶」を建てた渤海遺民の大反乱。太平十年八月、蕭孝穆らが東京城を攻略し大延琳を捕らえ平定。

被反乱1029年8月〜1030年8月大延琳の乱(興遼国)

首謀者: 大延琳

結果: 鎮圧(東京城攻略・大延琳捕縛)

太平九年八月、東京舎利軍詳穏大延琳が留守蕭孝先らを幽閉し戸部使韓紹勲らを殺害、自立して「興遼国」を号し年号「天慶」を建てた渤海遺民の大反乱。太平十年八月、蕭孝穆らが平定。

親征1004-閏09宋(澶淵の盟)

対象: 宋(澶淵の盟)

結果: 澶州(澶淵)まで進軍、蕭撻凛戦死も宋と講和成立(歳幣銀10万両・絹20万匹)

統和二十二年閏九月南伐、「次固安」「次澶淵」等聖宗自身の進軍記録あり。

反乱鎮圧日付不詳阻卜鹘碾の乱

首謀者: 鹘碾

結果: 投降後に誅殺

統和十八年、阻卜の叛酋鹘碾の弟鉄剌不が部衆を率いて帰順、鹘碾も投降し誅殺された。反乱開始時期はキャッシュ範囲内に記載なし。

被反乱日付不詳阻卜鹘碾の乱

首謀者: 鹘碾

結果: 投降後に誅殺

統和十八年、阻卜の叛酋鹘碾の弟鉄剌不が部衆を率いて帰順、鹘碾も投降し誅殺された。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。