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遼第3代

世宗耶律阮

在位 947–951年(4年144日)947年5月16日 〜 951年10月7日

日本は平安時代

遼の太祖の長子耶律倍の長子で、太宗の死後に即位し、951年に一族の察割に殺された皇帝である。

世宗の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 947年5月16日〜951年10月7日
4年144日長い順197位/365人即位の年齢は不詳
没年
951年10月7日34歳(数え年)長生き順同率169位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 太宗遼世宗は太宗の甥
次代
  • 穆宗遼穆宗は世宗の従兄弟
呼び名
契丹名耶律兀欲幼名兀欲呼び名の見方

出典

在位
遼史 本紀五 世宗(巻5)
死因
遼史 巻五(世宗紀)
即位経路
遼史 巻五(世宗紀)

生涯

どんな皇帝か

遼史の賛は、中くらいの才の主で、南伐を急いで慎重さと備えを欠き、禍を招く道があったが、孝友寛慈で君主の度量はあったと評する。

即位まで

太宗の兄の倍の長子で、太宗に子のように愛された。容貌が堂々として施しを好み、人望が集まった。947年に太宗が欒城で没すると、翌日に鎮陽の柩の前で即位した。述律太后はの李胡に兵を率いて拒がせたが、前鋒に敗れ、潢河の横渡で双方が対峙した。屋質が双方を責め、李胡の暴戻を挙げて阮を推したので、太后は即位を許した。のち太后と李胡を祖州へ移した。

史料について

資治通鑑は、太宗の子がいるのに兄の子として太后の命も無く立ったので、阮は内心不安だったとする。資治通鑑と新五代史は和議を書かず、資治通鑑は石橋で太后の兵が大敗したとし、新五代史は太后の兵の多くが阮の側へ逃げたとし、ともに太后を阿保機の墓所に幽閉したとする。

治世と最期

948年、劉哥らの謀反が発覚した。劉哥は博の席で阮を殺そうとして囚われたが、阮は首に鎖をかけたまま博をしながら本当に反したのかと問い、劉哥が誓うと赦した。屋質が争ったので取り調べさせると、劉哥は罪に服し、烏古部へ流された。

察割が父と不仲のふりをして泣いて訴えると、阮は憐れんで恩遇し、屋質が奸邪を上表しても信じなかった。950年に自ら南伐し、951年にまた南へ攻めようとしたとき、諸部は皆望まなかったが阮が強いた。

951年、祥古山ので父を祭り、群臣が酔ったところで察割が反し、阮は殺された。

史料について

劉哥の件を、遼史の屋質伝は袖に刃を隠して進んだとし、誓いの中身を書かない。殺した者を、資治通鑑と新五代史は燕王述軋が察割らとともにとし、場所も遼史と違う。遼史は、燕王に封じられていた者を、酔って察割に従ったにすぎないとする。

世宗とつながる皇帝

五代十国の勢力図(947年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

947–951年の地図に、世宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・親征2・皇后1・改元1・大赦2
  1. 947年10月
  2. 改元947年11月1日元号を「天禄」とする
  3. 949年
  4. 皇后950年皇后を立てる
  5. 950年後漢(劉知遠政権、五代十国の対等勢力)南部国境
  6. 951年10月4日〜951年10月7日後周(郭威政権、五代十国の対等勢力)南部国境
  7. 反乱951年10月7日察割の乱

遼の歴代皇帝

歴代9人の一覧

年表

遼・西夏・金の時代を年表で見る

遼が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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