世宗
遼|在位 947–951年
- 諱(本名)
- 耶律兀欲(耶律阮)
- 在位
- 947–951年
- 在位期間
- 4年145日365名中198位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 34歳(数え年)269名中・長寿順171位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
太宗の崩御時、柩を護送していた軍中で正式な後継指名なしに自立して即位。摂政的立場にあった太皇太后(述律后)は激怒し弟の李胡に軍を与えて阻止させ両軍が衝突・対峙する事態となった。実質的には現政権(太后)の意に反した武力を伴う即位のため簒奪と判定(擁立の見方も可能な境界事例)。
出典: 遼史 巻五(世宗紀)
死因の経緯
従兄弟にあたる泰寧王察割による謀反で暗殺。祭祀後の酒宴で群臣が酩酊した隙をつかれた。生母(皇太后)と皇后も同時に殺害された。同一政権内部(皇族)によるクーデター的暗殺。
出典: 遼史 巻五(世宗紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『遼史』巻五(世宗紀)を即位(大同元年四月)から崩御(天禄五年九月)まで通読し、改元の記事は天禄元年九月の1回のみであることを確認した。
大赦回数
『遼史』巻五(世宗紀)本文中に「大赦」「肆赦」の語が現れるのは元年九月・三年正月の計2件のみ(grep確認)。部分的・地域限定の恩赦の記事は見当たらない。
立后回数
本紀中に「册皇后」の語が現れるのは天禄四年の1件のみ(grep確認)。廃后の記事はない。
皇太子廃立回数
『遼史』巻五(世宗紀)を通読したが、世宗自身が皇太子(皇太弟・皇太孫等を含む)を立てた記事は存在しない(二年七月壬申「皇子賢生」=後の景宗の誕生のみで立太子には至っていない)。立太子の事実がないため、当然ながら廃立の記事も存在しない。
親征回数
原文中「自将南伐」と明記された2回のみを親征として計上。天禄三年冬十月の貝州・鄴都方面攻略は「遣諸将率兵攻」で皇帝自身の出征ではないため除外。
反乱鎮圧回数
天禄二年正月の天徳・蕭翰・劉哥・盆都らの謀反、天禄三年正月の蕭翰・公主阿不里の反、はいずれも原文に軍事衝突の記述がなく「誅」「杖」「迁」「瘐死獄中」等の処罰記事のみで、実際の兵力行使に至らず摘発・処断のみで終わった謀反計画と判断し、鎮圧回数には計上しない。即位直後の太后・李胡による武力抵抗(太宗崩御時の柩前即位に対する軍事対峙)は、既存accessionRouteNoteで簒奪的即位の判定根拠として扱われている同一事象であり、accessionRoute領域として扱い二重計上を避けるため反乱鎮圧・被反乱いずれからも除外した。
被反乱回数
deathCauseNoteと同一事象。皇族内部クーデターによる弑逆のため例外4に基づきsufferedのみ1件計上。即位直後の太后・李胡による武力抵抗はaccessionRoute領域として扱い除外(rebellionSuppressionCount側と同じ理由)。天禄二・三年の謀反2件は兵力行使に至らない摘発のみのため除外。
遷都回数
遼史本紀・志を通読。太祖耶律阿保機の上京臨潢府定都(建国時の定都)から1125年の滅亡まで上京が一貫した主都(五京制は複都制の陪都)。
即位時年齢・没年齢
『遼史』巻五(世宗紀)末尾、天禄五年九月癸亥(察割の乱による遇弑)の記事に「帝遇弑,年三十四」と没年齢が明記。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中に見当たらない。
在位中の出来事(7件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元947年9月太宗崩御後、大同元年四月に柩前で即位した当初は先帝(太宗)の元号「大同」をそのまま継続使用し改元しなかった。
太宗崩御後、大同元年四月に柩前で即位した当初は先帝(太宗)の元号「大同」をそのまま継続使用し改元しなかった。同年九月丁卯、太宗を怀陵に葬り柴册礼を行った際に「群臣上尊号曰天授皇帝。大赦,改大同元年为天禄元年」と明記され、正式に「天禄」へ改元した。これが世宗にとって即位に伴う実質的な建元にあたる(この人物は王号等を経ない一段階即位のため【皇帝即位前】等の段階区分注記は不要)。以降天禄五年九月の崩御まで他に改元の記事はない。
出典: 遼史 巻五(世宗紀)
大赦947年9月天禄元年九月丁卯(壬子朔から16日目)、太宗(嗣聖皇帝)を怀陵に葬り柴册礼を行った際、「大赦,改大同元年为天禄元年」と明記。
天禄元年九月丁卯(壬子朔から16日目)、太宗(嗣聖皇帝)を怀陵に葬り柴册礼を行った際、「大赦,改大同元年为天禄元年」と明記。改元と同日に行われた全国規模の大赦。
出典: 遼史 巻五(世宗紀)
大赦949年1月天禄三年正月庚申、「肆赦。
天禄三年正月庚申、「肆赦。内外官各进一阶」と明記。対象を系囚・特定地域等に限定する語はなく、内外百官への加階を伴う記事であることから全国規模の恩赦と判断した(「肆赦」は「大赦」の同義語として本プロジェクトの先例〔梁末帝紀等〕でも計上されている)。
出典: 遼史 巻五(世宗紀)
立后950年天禄四年(是歳)、「册皇后蕭氏」と明記。
天禄四年(是歳)、「册皇后蕭氏」と明記。冊立された皇后の個人名は本紀に記載なし(蕭氏とのみ)。世宗在位中、これ以前・以後に立后・廃后・再冊立の記事は見当たらずこの1回のみ。
出典: 遼史 巻五(世宗紀)
親征950年11月後漢(劉知遠政権、五代十国の対等勢力)南部国境
対象: 後漢(劉知遠政権、五代十国の対等勢力)南部国境
結果: 自将南伐し安平・内丘・束鹿等の城を攻略、大いに戦利品を得て帰還
天禄四年冬十月「自将南伐,攻下安平、内丘、束鹿等城,大獲而還」。対等勢力(中原政権)への対外戦争のため親征のみ計上、鎮圧/被反乱には計上しない。天禄三年冬十月の貝州等攻略は「遣諸将率兵攻」であり皇帝自身の親征ではないため除外。
親征951年10月後漢(劉知遠政権、五代十国の対等勢力)南部国境
対象: 後漢(劉知遠政権、五代十国の対等勢力)南部国境
結果: 自将南伐で帰化州祥古山まで進軍中、行宮での祭祀の酒宴の隙に察割に弑逆され親征は中断
天禄五年九月「自将南伐。壬戌,次帰化州祥古山。癸亥,祭讓國皇帝於行宮。群臣皆醉,察割反,帝遇弑」。対外戦争のため親征のみ計上。
被反乱951年10月7日察割の乱
首謀者: 察割(泰寧王、世宗の従兄弟)
結果: 祭祀後の酒宴で群臣が酩酊した隙に察割が挙兵し世宗を弑逆(生母・皇后も同時に殺害)。世宗死亡のため鎮圧できず、事後の鎮圧は次代穆宗による
天禄五年九月癸亥「群臣皆醉,察割反,帝遇弑,年三十四」。朝廷内部の権力者(皇族)による兵力を伴う弑逆・クーデターであり、既存ルールの例外4に該当するためsufferedのみ計上(世宗自身は鎮圧主体になり得ず死亡)。