世宗の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 947年5月16日〜951年10月7日
- 没年
- 951年10月7日34歳(数え年)長生き順同率169位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 契丹名耶律兀欲幼名兀欲呼び名の見方
出典
- 在位
- 遼史 本紀五 世宗(巻5)
- 死因
- 遼史 巻五(世宗紀)
- 即位経路
- 遼史 巻五(世宗紀)
生涯
どんな皇帝か
遼史の賛は、中くらいの才の主で、南伐を急いで慎重さと備えを欠き、禍を招く道があったが、孝友寛慈で君主の度量はあったと評する。
即位まで
太宗の兄の倍の長子で、太宗に子のように愛された。容貌が堂々として施しを好み、人望が集まった。947年に太宗が欒城で没すると、翌日に鎮陽の柩の前で即位した。述律太后は太弟君主の跡継ぎに立てられた弟の李胡に兵を率いて拒がせたが、前鋒に敗れ、潢河の横渡で双方が対峙した。屋質が双方を責め、李胡の暴戻を挙げて阮を推したので、太后は即位を許した。のち太后と李胡を祖州へ移した。
史料について
資治通鑑は、太宗の子がいるのに兄の子として太后の命も無く立ったので、阮は内心不安だったとする。資治通鑑と新五代史は和議を書かず、資治通鑑は石橋で太后の兵が大敗したとし、新五代史は太后の兵の多くが阮の側へ逃げたとし、ともに太后を阿保機の墓所に幽閉したとする。
治世と最期
948年、劉哥らの謀反が発覚した。劉哥は博の席で阮を殺そうとして囚われたが、阮は首に鎖をかけたまま博をしながら本当に反したのかと問い、劉哥が誓うと赦した。屋質が争ったので取り調べさせると、劉哥は罪に服し、烏古部へ流された。
察割が父と不仲のふりをして泣いて訴えると、阮は憐れんで恩遇し、屋質が奸邪を上表しても信じなかった。950年に自ら南伐し、951年にまた南へ攻めようとしたとき、諸部は皆望まなかったが阮が強いた。
951年、祥古山の行宮皇帝が都の外で泊まる仮の宮殿で父を祭り、群臣が酔ったところで察割が反し、阮は殺された。
史料について
劉哥の件を、遼史の屋質伝は袖に刃を隠して進んだとし、誓いの中身を書かない。殺した者を、資治通鑑と新五代史は燕王述軋が察割らとともにとし、場所も遼史と違う。遼史は、燕王に封じられていた者を、酔って察割に従ったにすぎないとする。
世宗とつながる皇帝

勢力図
五代十国の勢力図で見る
947–951年の地図に、世宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征2・皇后1・改元1・大赦2
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。947年10月
- 改元947年11月1日元号を「天禄」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。949年
- 皇后950年皇后を立てる
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。950年後漢(劉知遠政権、五代十国の対等勢力)南部国境
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。951年10月4日〜951年10月7日後周(郭威政権、五代十国の対等勢力)南部国境
- 反乱951年10月7日察割の乱
遼の歴代皇帝
歴代9人の一覧年表
遼・
遼が