太宗の人物データ
- 生年
- 902年
- 在位
- 927年12月11日〜947年5月15日
- 没年
- 947年5月15日46歳(数え年)長生き順同率99位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
出典
- 在位
- 遼史 本紀三 太宗上/本紀四 太宗下
- 死因
- 遼史 巻四(太宗紀下)
- 即位経路
- 遼史 巻三(太宗紀上)
生涯
どんな皇帝か
遼史の論賛は威徳を称え、汴に入った後も驕らず三失の訓があったと讃える。
即位まで
太祖の第二子で、922年に天下兵馬大元帥全国の軍を率いる最高司令官の位を授けられた。926年に父が没すると、母の述律后が軍国の事を摂した。927年、兄の倍が群臣を率いて大元帥が継ぐべきだと母に請い、母が聞き入れて太宗が即位した。
史料について
即位の事情を、遼史の倍の伝は、倍が母の意向を知って譲ったとする。資治通鑑は、徳光を立てたい母が酋長に選ばせ、倍は怒って唐へ奔ろうとしたが止められ、母は罪に問わなかったとする。
治世と最期
935年に皇后を亡くし、その冬、寺の観音画像が父母と兄の施入したものと知って、昔は父母兄弟とここで見たのに今は私ひとりだと悲しんだ。
936年、後唐に討たれた石敬瑭に救いを求められて出兵し、石敬瑭を大晋皇帝に冊して、手を執って父子の約を結んだ。938年、晋から十六州を献じられた。942年の初め、叛いた朔州を攻め落とすと、囲んでいた将が城下で戦死していたので、怒って城中の丁壮を誅させた。同じ年、母の病を聞くと駆けつけて看病し、湯薬は必ず自ら味をみた。
944年と945年にも晋と戦い、945年は大風の中で反撃を受けて退いた。946年に自ら南伐し、947年の初めに晋の大軍を降した。晋の皇帝石重貴を負義侯に降して黄龍府に送り、汴で国号を大遼と定めた。北へ帰る途中、この行には三つの失があったと語った。947年に高邑で病み、欒城で没した。
史料について
割地の約を、資治通鑑は、石敬瑭が臣と称して父礼で仕え、盧龍一道と雁門以北を割くと約したとし、遼史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は936年の条に書かない。三つの失を、遼史は黎陽渡で侍臣に語ったとし、資治通鑑と旧五代史は河陽の乱を聞いたときの言葉とし、挙げる中身と順も違う。最期を、資治通鑑・旧五代史・新五代史は殺胡林で没し、遺体は割かれて塩漬けにされ、北へ運ばれたとする。
太宗とつながる皇帝

勢力図
五代十国の勢力図で見る
927–947年の地図に、太宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・親征6・皇后1・改元2・大赦3
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。927年12月21日即位に伴う大赦。
- 皇后927年12月29日皇后を立てる
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。928年後唐(李嗣源)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。934–935年後唐(雲州・
武州方面) - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。936–937年後唐→石敬瑭擁立(後晋建国)
- 改元938年元号を「会同」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。938年
- 反乱941–942年趙崇(振武軍節度副使)の朔州反乱
- 反乱941–942年吐谷渾夷離菫蘇の反乱(叛入晋)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。944年後晋(第一次南伐)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。944–945年後晋(第二次南伐)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。946–947年後晋(第三次南伐・
滅亡) - 改元947年2月24日元号を「大同」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。947年2月24日
遼の歴代皇帝
歴代9人の一覧年表
遼・
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