太宗
遼|在位 927–947年
- 諱(本名)
- 耶律堯骨(耶律徳光)
- 在位
- 927–947年
- 在位期間
- 19年160日365名中58位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 26歳(数え年)172名中・若い順97位タイ
- 没年齢
- 46歳(数え年)269名中・長寿順99位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 6回112名中8位タイ
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
太祖の嫡長子で皇太子であった人皇王耶律倍を差し置き、母后(淳欽皇后述律氏)の意向で即位。正式な皇太子であった倍は即位できず後に後唐に亡命した。
出典: 遼史 巻三(太宗紀上)
死因の経緯
後晋(開封)遠征からの北帰中、暑さで水土に適応できなかったと自ら述べ、高邑で発病、9日後に欒城で崩御。
出典: 遼史 巻四(太宗紀下)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
太宗は即位当初、先代太祖の元号「天顕」をそのまま継続使用(有司の改元要請を不許)し、在位中に会同(938年)・大同(947年)の2回、正式に改元を行った。即位に伴う建元は行われなかった(先代元号継続)ため、カウントに含めていない。
大赦回数
遼史巻三・巻四全文に「大赦」と明記される全国規模の恩赦を精査。「曲赦系囚」(天顕4年7月)は部分的な赦のため対象外とした。
立后回数
天顕8年(933)7月戊寅条に「行納后禮」の記事があるが、後妃伝で太宗の皇后は靖安皇后蕭氏一人のみと確認され、彼女は天顕十年正月に崩御するまで在位し続けたため、この「納后禮」は別人の立后ではなく、契丹の婚礼六礼における正式な「納后儀」(礼志に詳述される儀礼)を執行した記事と判断し、二重カウントしなかった。皇后は在位中この1人のみ、廃后・再冊立の記録もない。
皇太子廃立回数
天顕5年(930)3月乙亥、皇弟李胡を「壽昌皇太弟」(法定推定継承者に相当)に冊立(「冊皇弟李胡爲壽昌皇太弟,兼天下兵馬大元帥」)。以後、大同元年(947)4月の崩御直前まで「皇太弟」として一貫して言及され(例:「皇太弟遣使問軍前事」)、廃立の記事は本紀中に見られない。なお本紀の一部(天顕十一年・会同2年・4年)に「皇太子」の語も散見されるが、太宗自身の実子で正式に皇太子・皇太弟に冊立された記録は李胡以外になく、他に廃立対象となる皇太子(孫)の冊立記事も存在しないため、廃立回数は0と判断した。
親征回数
遼史巻三・巻四(太宗紀)を通読し「自将」「上親征」等の明示的表現や戦闘中の「上」主語の存在を基準に6回を計上。天顕3年(928)の唐征は交戦に至らず班師したが自将の事実が明記されているため計上した。後晋との戦争は944/945/946-947の3回の別個の出兵・帰還サイクル(それぞれ「还次南京」で一旦終結)に分けてカウント(同一相手でも年をまたぐ再出兵は別カウントとする五代十国ブロックの先例を踏襲)。党項討伐(会同8年)は皇太弟李胡が実戦指揮し皇帝自身の出征ではないため除外。
反乱鎮圧回数
遼史本紀を通読し「叛」の明示と兵力行使を伴う事例のみ計上。密告・摘発のみで終わった涅里衮(泥离衮)の謀反・逃亡計画は兵力行使を伴わないため除外。後晋内部の反乱(安重荣・范延广・安从进)は遼ではなく晋の国内問題のため対象外。宋遼西夏金ブロックの対外戦争除外ルールに従い、唐・晋との戦争(=対等勢力間の戦争)はpersonalCampaignCountのみに計上し本フィールドには含めない。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の2事件を被反乱側として計上。人皇王倍の亡命(天顕6年)は海路での平和的逃亡で武力衝突を伴わないため対象外。
遷都回数
遼史本紀・志を通読。太祖耶律阿保機の上京臨潢府定都(建国時の定都)から1125年の滅亡まで上京が一貫した主都(五京制は複都制の陪都)。
即位時年齢・没年齢
生年:遼史巻三(太宗紀上)冒頭「太宗孝武惠文皇帝,諱徳光…唐天復二年生」(唐天復2年=902年、年のみ判明、月日記載なし)。没年齢:遼史巻四(太宗紀下)末尾「戊辰,次高邑,不豫。丁丑,崩於欒城,年四十六」(大同元年四月丁丑、原文に明記された「時年」相当の記述)。丁丑の日付をsxtwlで換算すると947年5月15日で、既存データのendDate(0947-05-15)と一致。即位時年齢(26歳相当)は原文に「時年」等の明記がないため、参考計算値として本文中に含めずaccessionAgeはnullとした。
在位中の出来事(16件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦927年12月21日天顕2年11月壬申、即位に伴う大赦。
天顕2年11月壬申、即位に伴う大赦。「壬申,御宣政殿,群臣上尊號曰嗣聖皇帝。大赦。有司請改元,不許」(改元は拒否したが大赦のみ実施)。
出典: 遼史 巻三(太宗紀上)
立后927年12月29日天顕2年12月庚辰、即位直後に「尊皇太后爲太皇太后,皇后爲應天皇太后,立妃蕭氏爲皇后」。
天顕2年12月庚辰、即位直後に「尊皇太后爲太皇太后,皇后爲應天皇太后,立妃蕭氏爲皇后」。この蕭氏が後の靖安皇后(列伝・后妃伝に「太宗靖安皇后蕭氏,小字温,淳欽皇后弟室魯之女。帝爲大元帥,納爲妃,生穆宗。及即位,立爲皇后」とあり,天顕十年〔936〕正月崩御まで在位した唯一の皇后)。
出典: 遼史 巻三(太宗紀上)
親征928年後唐(李嗣源)
対象: 後唐(李嗣源)
結果: 戦闘に至らず撤退(唐の講和使者到着のため杏埚で班師)
天顕3年(928)十一月辛丑「自将伐唐」、十二月甲寅「次杏埚,唐使至,遂班师」。実際の交戦なく引き返したが、皇帝自ら軍を率いて出征した事実は明記されている。
親征934年〜935年後唐(雲州・武州方面)
対象: 後唐(雲州・武州方面)
結果: 武州の陽城城・洼只城を降伏させ地方を平定、皇后崩御のため帰還
天顕9年(934)秋八月壬午「自将南伐」。霊丘等を略地し十一月に武州陽城・洼只城を降す。天顕10年(935)正月に皇后が行在で崩じたため戦役を終える。
親征936年〜937年後唐→石敬瑭擁立(後晋建国)
対象: 後唐→石敬瑭擁立(後晋建国)
結果: 後唐を滅ぼし石敬瑭を後晋皇帝に冊立、燕雲十六州を獲得
天顕11年(936)八月庚午「自将以援敬瑭」。晋安寨で唐将張敬達を破り降伏させ、十一月に石敬瑭を大晋皇帝に冊立。後唐末帝李従珂は自焚。天顕12年(937)正月凱旋の途上「上亲征」して大同軍節度判官呉巒の抵抗を降す(同一戦役の帰路として1回にまとめた)。
改元938年12月17日【皇帝在位中】会同元年11月丙寅、「大赦,改元會同」。
【皇帝在位中】会同元年11月丙寅、「大赦,改元會同」。即位以来使用してきた先代(太祖)以来の元号「天顕」から「会同」への改元。なお天顕2年(927)の即位時には「有司請改元,不許」とあり、太宗自身は当初改元せず先代の元号(天顕)を継続使用したため、この即位時点は改元としてカウントしない。
出典: 遼史 巻四(太宗紀下)
大赦938年12月17日会同元年11月丙寅、皇帝・皇太后への上尊号に伴い「大赦,改元會同」。
会同元年11月丙寅、皇帝・皇太后への上尊号に伴い「大赦,改元會同」。天顕→会同への改元と同時の大赦。
出典: 遼史 巻四(太宗紀下)
反乱鎮圧941年〜942年趙崇(振武軍節度副使)の朔州反乱
首謀者: 趙崇
結果: 宣徽使褭古只に朔州を包囲させる(褭古只は攻城中に戦死)、翌年正月に朔州を攻略して鎮圧
会同4年(941)六月「振武军节度副使赵崇逐其节度使耶律画里,以朔州叛,附晋」。会同5年(942)正月「攻拔朔州」で鎮圧完了。将軍主導で皇帝自身の親征ではないためpersonalCampaignCountには含めない。
反乱鎮圧941年〜942年吐谷渾夷離菫蘇の反乱(叛入晋)
首謀者: 吐谷渾夷離菫蘇
結果: 西南路招討使を派遣して討伐、翌年に吐谷渾側が降伏
会同4年(941)五月「吐谷浑夷离堇苏等叛入晋」。会同5年(942)二月に明王隈恩を西南路招讨使として討伐を命じ、同年十一月「吐谷浑请降」で帰順。将軍主導で皇帝自身の親征ではない。
被反乱941年〜942年趙崇(振武軍節度副使)の朔州反乱
首謀者: 趙崇
結果: 節度使耶律画里を追放し朔州を占拠して後晋に帰属したが、翌年遼軍に鎮圧された
rebellionSuppressionCountと同一事件。遼が任命した地方官による武力反乱であり服属民の反乱として被反乱側にも計上。
被反乱941年〜942年吐谷渾夷離菫蘇の反乱(叛入晋)
首謀者: 吐谷渾夷離菫蘇
結果: 遼に服属していた吐谷渾部族が離反して後晋に投じたが、討伐後に帰順
rebellionSuppressionCountと同一事件。遼に服属する部族の反乱・離反として被反乱側にも計上。なお会同3年(940)「边将奏破吐谷浑,擒其长」という別の吐谷渾関連記事もあるが「叛」の語がなく事件の輪郭が不明瞭なため、この件とは別に計上せず対象外とした。
親征943年〜944年後晋(第一次南伐)
対象: 後晋(第一次南伐)
結果: 澶州近郊の戚城で後晋軍を撃破するも決定的勝利に至らず南京へ帰還
会同6年(943)末に伐晋を議し出征、会同7年(944)三月「上以精兵出其左」「上復以劲骑突其中军」等、戚城での戦闘に皇帝自ら参戦。四月「还次南京」で終結。
親征945年後晋(第二次南伐)
対象: 後晋(第二次南伐)
結果: 白団衛村の戦いで大風の中晋軍の反撃を受け皇帝自身も敗走、南京へ帰還
会同8年(945)正月出征、邢・洺・磁三州を攻略するも三月の白団衛村の戦いで「上乘奚车退十余里…获一橐驼乘之乃归」と皇帝自身が敗走。四月「还次南京」で終結。
親征946年〜947年後晋(第三次南伐・滅亡)
対象: 後晋(第三次南伐・滅亡)
結果: 後晋を滅ぼし出帝重貴を捕虜とし開封に入城、国号を大遼と改称。北帰の途中で発病し崩御
会同9年(946)八月「自将南伐」。鎮州で杜重威らを降し、大同元年(947)正月開封入城、後晋滅亡。国号を大遼に改め会同を大同に改元。四月に北帰の途につくが高邑で発病、欒城で崩御。
改元947年2月24日【皇帝在位中】大同元年2月丁巳朔、「建國號大遼,大赦,改元大同」。
【皇帝在位中】大同元年2月丁巳朔、「建國號大遼,大赦,改元大同」。会同から大同への改元(国号を大遼と定めたのは改元とは別の国号変更であり、改元回数には含めない)。この4か月後の同年4月に崩御。
出典: 遼史 巻四(太宗紀下)
大赦947年2月24日大同元年2月丁巳朔、「建國號大遼,大赦,改元大同」。
大同元年2月丁巳朔、「建國號大遼,大赦,改元大同」。国号を大遼と定め、会同→大同への改元と同時に大赦を実施(開封入城後)。
出典: 遼史 巻四(太宗紀下)