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遼第1代

太祖耶律阿保機

在位 916–926年(10年173日)916年3月17日 〜 926年9月6日

日本は平安時代

契丹の迭剌部から出て帝位に即いた遼の初代皇帝である。

太祖の人物データ

生年
872年
在位
  • 可汗907年〜916年
  • 皇帝916年3月17日〜926年9月6日
10年173日長い順129位/365人皇帝になった年齢は不詳
没年
926年9月6日55歳(数え年)長生き順同率56位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 痕徳菫可汗太祖と痕徳菫可汗に血縁はない
次代
  • 太宗遼太宗は太祖の子
呼び名
姓耶律諱億字阿保機幼名啜里只呼び名の見方
目立つ記録

出典

在位
遼史 本紀一・二 太祖上下(即位:本紀一 太祖上/崩御:本紀二 太祖下)
死因
遼史 巻二(太祖紀下)
即位経路
遼史 巻一(太祖紀上)

生涯

どんな皇帝か

遼史の賛は、東は海から西は流沙まで威を及ぼしたとし、叛いた弟たちの死を許して再び用いたことを人君の度量と称えたが、同じは逆党への苛烈な刑も記す。

即位まで

契丹の迭剌部の人で、872年に生まれた。生まれたときの体は三歳児のようで、祖母は自分の子として養い、帳幕に隠して他人に見せなかった。成長すると目の光は人を射るようで、三百斤の弓を引いた。として軍国の事を任され、が没すると群臣に請われて三たび辞したのち、907年に天を祭って皇帝の位に即いた。916年、群臣にを奉られ、神冊とした。

史料について

即位の経緯を、新五代史は、八部が阿保機を選んで代わらせ、九年後に交代を迫られて旗鼓を渡したのち、塩池で諸部の大人を殺して、以後は交代しなかったとする。

治世と最期

弟の剌葛らは911年、912年と謀反しては赦された。913年にまた叛くと、急追を求める諸将に、遠く逃げれば故郷を思って心は必ず離れると言った。この年には逆党を生き埋めやにした。翌年、捕らえた三百余人に一日宴を賜って好きなことをさせてから刑を論じ、剌葛と迭剌哥は弟として杖打って釈し、謀に加わった解里らは絞殺させた。

919年、遠征の途中で母の病を聞くと一日に六百里を駆けて戻り、看病した。926年、渤海は世仇だとして征討し、降った王を優礼して釈したが、王は再び叛いて城を攻め落とされた。渤海の地は東丹とされ、皇太子の倍に治めさせた。

後唐の荘宗の死を告げる使者に泣き、わが子は遊興にふけってこうなったと語った。漢語ができるが、部の者が怯弱になるのを恐れて口にしないとも言った。扶余府で病み、926年に没した。

史料について

東丹とした地を、遼史は渤海国とし、新五代史と資治通鑑は扶余の一城とする。漢語の言葉は新旧の五代史にある。使者の扱いを、新旧の五代史は、幽州を与えれば侵さないと言って先に帰るよう告げたとし、資治通鑑は、黄河以北や鎮・定・幽州を求めて断られると囚え、殺そうとして韓延徽に諫められたとする。病名を、旧五代史の契丹伝はとする。

太祖とつながる皇帝

五代十国の勢力図(916年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

916–926年の地図に、太祖が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱5・親征7・改元3・大赦2
  1. 916年突厥・吐渾・党項・小蕃・沙陀諸部、および朔州・蔚州・新州・武州・嬀州・儒州
  2. 改元916年3月17日元号を「神冊」とする
  3. 916年3月17日神冊建元・皇帝尊号確立と同日に大赦。
  4. 917年幽州(節度使周徳威/後の後唐勢力)
  5. 反乱917年於骨里の乱
  6. 919年烏古部
  7. 920年党項諸部(叛乱鎮圧)
  8. 反乱920年党項諸部の叛乱(920年)
  9. 921–922年後唐(晋)国境地帯:居庸関・古北口・檀州・順州・涿州・定州・望都等
  10. 改元922年元号を「天賛」とする
  11. 924年吐渾・党項・阻卜・回鶻(浮図城・甘州)等西域方面諸部
  12. 925–926年渤海国(大諲譔)
  13. 反乱926年渤海旧地・安辺府等三府の叛乱(926年3月)
  14. 反乱926年渤海旧地・南海府等二府の再叛乱(926年5月)
  15. 反乱926年鉄州刺史衛鈞の乱
  16. 改元926年3月元号を「天顕」とする
  17. 926年3月天顯改元・渤海平定と同日に大赦。

遼の歴代皇帝

歴代9人の一覧

年表

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遼が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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