中国皇帝統計

徳宗天祐皇帝

西遼(宋・遼・西夏・金)|在位 1132–1143年

諱(本名)
耶律大石
在位
1132–1143年
在位期間
10年335日365名中123位
即位経路
建国
死因
不詳
即位時年齢
38歳(数え年)172名中・若い順129位タイ
没年齢
不詳
改元
2332名中78位タイ
大赦
0
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

1124年に自立して王を称し西走、十八部を糾合の上1132年に文武百官に冊立され皇帝に即位(葛児汗、天皇帝)。天祚帝から独立して新国家(西遼)を樹立した典型的な建国。

出典: 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)

死因の経緯

「康国十年殁,在位二十年,庙号德宗」とのみ記載があり、「殁」は単に死去を示すのみで暗殺・処刑等を示す記述はない。金史・皇統四年条には回鶻使者が死去を報告した旨のみ記され死因の言及なし。

出典: 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

耶律大石(徳宗天祐皇帝)の在位中の改元は延慶(即位時建元)・康国(延慶3年からの改元)の計2回。康国十年(1143年)に崩御、在位20年(王号期間含む通算、または皇帝在位期間の通算表現)と記される。国号(大遼→西遼の通称)は史書上の後世呼称であり改元ではないため計上せず。

大赦回数

遼史巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)の耶律大石(徳宗天祐皇帝)に関する記述を通読したが、大石自身の即位時(延慶改元)・康国改元時いずれにも「大赦」の語は見られない。同巻内で「大赦」が明記されるのは耶律淳(北遼・天錫皇帝)の建福改元の場面のみであり、大石とは別人物の事績のため計上しない。daizhigev20側『辽史.txt』(同一原文)・『西夏书事.txt』・『续资治通鉴长编.txt』にも大石自身による大赦の記録は確認できなかった。西遼建国後の内政記録は現存正史では極めて簡略なため、史料上unrecordedの可能性が高い。

立后回数

在位中の他の立后・再冊立の記録は同巻・daizhigev20側の関連史料いずれにも見当たらない。

皇太子廃立回数

遼史巻三十では大石の崩後「子夷列年幼、遣命皇后権国」とあるのみで、生前に子(夷列)を皇太子として正式に冊立した記述も、廃立の記述も存在しない。daizhigev20側の関連史料にも該当記述は見当たらない。

親征回数

原文キャッシュ全体を確認。段落2〜4の西走・可敦城根拠地建設・忽児珊(西域十万の軍)撃破はいずれも1132年の皇帝即位(段落5)以前、王号を称していた建国途上の軍事行動であり、五代十国ブロックのルールに倣い建国前の挙兵としてaccessionRoute領域に属し親征にはカウントしない。即位後(1132〜1143年)唯一の軍事行動は段落6の康国元年の東征だが、「以六院司大王萧斡里剌為兵馬都元帥...率七万騎東征」とあり大石自身が親率したのではなく将軍萧斡里剌に委任した遠征(大石は都城建設のため班師東帰し出征していない)。よって即位後に大石自身が親征した事例は原文に見当たらず0件。

反乱鎮圧回数

原文キャッシュには即位後(1132〜1143年)の国内反乱・部族反乱の鎮圧記事は一切なし。段落6の東征も金への旧領回復を掲げた対外戦争(西遼vs金)であり、仮に鎮圧領域だとしても対等勢力間の戦争として除外対象。

被反乱回数

原文キャッシュに即位後の弑逆・クーデター・部族反乱等の記述は一切なし。段落1〜2の天祚帝との軋轢(秦晋王淳擁立を巡る叱責、萧乙薛・坡里括殺害)は大石が皇帝に即位する前(王号自立前後)の出来事であり、建国前の挙兵としてaccessionRoute領域に属するため被反乱にはカウントしない。

遷都回数

遼史(耶律大石伝)を通読。虎思斡耳朶定都(建国時の定都、1134年)から末代天禧皇帝の代まで一貫した都。

即位時年齢・没年齢

遼史巻三十(耶律大石伝)に「以甲辰歳二月五日即位、年三十八」とあり、皇帝即位(葛児罕・天祐皇帝号、延慶改元)時の年齢38歳が直接記載されている。没年は「康国十年殁、在位二十年」とあり、康国元年=延慶三年(1134年)からの逆算で康国十年=1143年(月日は原文に記載なし)。没年齢の直接記載はない。

在位中の出来事(3件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1132年2月5日【皇帝即位(改元同時)】起児漫にて文武百官が大石を帝に冊立、甲辰歳2月5日即位(年38)、突厥式号「葛児罕」を称し、漢式尊号「天祐皇帝」を追上、「延慶」に改元。

【皇帝即位(改元同時)】起児漫にて文武百官が大石を帝に冊立、甲辰歳2月5日即位(年38)、突厥式号「葛児罕」を称し、漢式尊号「天祐皇帝」を追上、「延慶」に改元。これが最初の建元(正式な皇帝即位に伴うもの)。なお1124年可敦城での「王」自称時(皇帝ではない段階)には独自の年号を建てた記録は見えないため、この期間の改元は別途カウントしない。

出典: 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)

立后1132年2月5日皇帝即位(延慶改元)と同時に、元妃蕭氏を昭徳皇后に冊立。

皇帝即位(延慶改元)と同時に、元妃蕭氏を昭徳皇后に冊立。「又西至起児漫、文武百官冊立大石為帝、以甲辰歳二月五日即位、年三十八、号葛児罕。復上漢尊号曰天祐皇帝、改元延慶。追謚祖父為嗣元皇帝、祖母為宣義皇后、冊元妃蕭氏為昭徳皇后」。

出典: 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)

改元1134年【皇帝在位中】延慶三年、東方への班師・築城(虎思斡耳朵建都)を機に「延慶」を「康国」に改元(同年を康国元年とした)。

【皇帝在位中】延慶三年、東方への班師・築城(虎思斡耳朵建都)を機に「延慶」を「康国」に改元(同年を康国元年とした)。原文:「延慶三年、班師東帰、馬行二十日、得善地、遂建都城、号虎思斡耳朵、改延慶為康国元年」。月日の記載はなし。

出典: 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)

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