遼の太祖の八代孫で、遼の滅亡のさなかに西へ去り、西遼と呼ばれる国を建てた皇帝である。
徳宗天祐皇帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 王1124年〜1132年
- 皇帝1132年〜1143年
- 没年
- 1143年年齢不詳
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 仁宗正徳皇帝西遼仁宗正徳皇帝は徳宗天祐皇帝の子
- 呼び名
- 姓耶律諱大石字重徳廟号徳宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 遼史 巻三十 天祚皇帝紀四下(西遼始末付録)
- 死因
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
- 即位経路
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
生涯
即位まで
遼の太祖の八代孫で、遼と漢の文字に通じ、騎射に長けた。進士官吏登用の試験に受かった人の称号に登って翰林応奉詔などの文を作った学者の役職となり、大石林牙と呼ばれた。1122年、金兵が迫って天祚帝が逃れると、大石は諸大臣とともに秦晋王の淳を帝に立て、淳の死後はその妻の蕭徳妃を立てた。天祚帝は蕭徳妃を誅し、なぜ淳を立てたかと大石を責めた。大石が、陛下は国を捨てて遁れた、淳を十人立てても太祖の子孫であり、他人に命乞いするよりましだと答えると、天祚帝は答えられずに赦した。1123年に金に捕らえられて縛られ、道案内をさせられたが、その年のうちに金から戻った。1124年、天祚帝が再び兵を出そうとすると、時を待てと諫めたが聞かれず、蕭乙薛と坡里括を殺して自立し、西へ去った。
史料について
捕らえられた年を、金史の粘割韓奴伝は前年とする。宋の洪皓の松漠紀聞は、金に降った大石が粘罕と双六で争い、殺されるのを恐れて妻を捨てて逃げたとするが、遼史と金史にこの話は無い。
治世と最期
可敦城で諸部を集め、金に仇を報いて国土を回復しようと呼びかけて、精兵一万余を得た。尋思干で西域諸国の十万の兵と向き合うと、敵は多いが謀が無いと将士に説き、三方から攻めて破った。起児漫で百官朝廷のすべての役人に帝に立てられ、天佑皇帝と号して延慶と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
延慶三年に東へ引き返して都城を建て、康国と改元した。康国元年には、遼の嗣君たちが楽しみに耽って国を崩したと述べ、蕭斡里剌に七万騎で東征させた。東征軍は一万余里を行っても得るものが無く引き返し、大石は、天が従わないのだ、運命だと言った。康国十年に没し、廟号皇帝の死後、祖先をまつる祭りで呼ぶための名は徳宗とされた。
史料について
遼史は没した年を書くだけで、死因も最期の様子も書かない。遼史天祚帝紀の論と賛は、遠く国を建てたことを認めつつ、天祚帝の在世中に君を立てたことを批判し、淳や雅里よりはましだが命脈をかろうじて延ばしたにすぎないと評する。
徳宗天祐皇帝とつながる皇帝
在位中の出来事
皇后1・改元2
- 改元1132年元号を「延慶」とする
- 皇后1132年皇帝即位(延慶改元)と同じ条で、元妃蕭氏を昭徳皇后に冊立した。
- 改元1134年元号を「康国」とする
西遼の歴代皇帝
歴代5人の一覧- 第1代徳宗天祐皇帝耶律大石1132–1143年不詳
- 第2代蕭塔不煙皇帝を名乗っていない1143頃–1150年頃
- 第3代仁宗正徳皇帝1150–1163年不詳
- 第4代耶律普速完皇帝を名乗っていない1163頃–1177年頃
- 第5代天禧皇帝1177–1211年病死
年表
遼・
西遼が