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後廃帝の肖像画

宋・南北朝第7代

後廃帝劉昱

在位 472–477年(5年82日)472年5月11日 〜 477年8月1日

日本は古墳時代

劉昱は宋の明帝の長子で、即位後に暴虐を重ね、蕭道成の意を受けた王敬則と結んだ側近に斬られた。

後廃帝の人物データ

生年
463年3月1日
在位
  • 472年5月11日〜477年8月1日
5年82日長い順185位/365人10歳で即位(数え年)
没年
477年8月1日15歳(数え年)長生き順同率252位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 明帝宋・南北朝後廃帝は明帝の子
次代
  • 順帝宋・南北朝順帝は後廃帝の弟
呼び名
姓劉諱昱字徳融幼名慧震別名蒼梧王呼び名の見方

出典

在位
宋書 本紀第九 後廢帝紀
死因
宋書/卷09 本紀第九 後廢帝
即位経路
宋書/卷09 本紀第九 後廢帝

生涯

どんな皇帝か

宋書のは、を隠して忍び歩いた劉昱を前廃帝と対比し、身を滅ぼした理は同じだと結ぶ。

即位まで

明帝の長子で、463年に生まれ、466年に皇太子に立てられた。生母の陳妙登は明帝の寵愛が衰えると李道児に与えられ、迎え戻されてから劉昱を生んだので、民間では李氏の子と呼ばれ、劉昱も李将軍と名乗った。幼いころから学問を怠けて遊びを好み、長じると意に沿わない左右を自ら打った。明帝はそのたび生母に鞭打たせた。472年、父の死の翌日に即位し、袁粲と褚淵が補佐したが、阮佃夫らが権勢をふるって賄賂が横行した。

史料について

生母の件を、宋書の后妃伝は地の文で書き、は、明帝は子をなせず陳妙登はもと李道児の妾だったという噂として書く。南史は噂の形を取らず、もと李道児の妾を明帝が納れたとする。賄賂が横行したとするのは資治通鑑である。

治世と最期

474年に桂陽王劉休範が挙兵すると蕭道成が新亭で破り、476年には建平王劉景素の反乱も鎮まった。手先は器用で、金銀の細工や裁縫は見事にこなし、笛も手に取るとすぐ調子が合った。

元服後に振る舞いが変わり、476年以後は毎日宮外へ出て、民は昼も門を閉ざした。殺すことを楽しみ、何もない日は不機嫌になった。477年、皇太后から賜った毛扇が粗末だと嫌って毒殺しようとしたが、喪に服せばもう遊びに出られないと左右に言われてやめた。同じ年、自ら兵を率いて杜幼文や沈勃らの家を襲って誅した。沈勃は劉昱の耳をつかみ、罪は桀や紂を越えると罵って殺された。

裸で昼寝していた蕭道成の腹に的を描き、進言で鏃のない矢に替えて臍を射た。蕭道成を殺そうとしたときは、生母に、殺したら誰がおまえのために力を尽くすかと罵られてやめた。477年、蕭道成が王敬則とを謀り、側近の楊玉夫らが酔って眠る劉昱を斬り、首は蕭道成に届けられた。

史料について

沈勃らを襲ったわけを、宋書は杜幼文の管弦を聴いて憎んだためとし、資治通鑑は同謀の告発、南史は沈勃の財宝を奪うためとする。沈勃の罵りは資治通鑑と南史にある。蕭道成の腹を射た話と生母の諫めは、資治通鑑や南史などにあり、宋書には無い。

後廃帝とつながる皇帝

南北朝の勢力図(472年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

472–477年の地図に、後廃帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱3・皇后1・改元1・大赦7
  1. 472年5月11日即位に伴う大赦。
  2. 皇后472年7月15日江氏の立后。
  3. 改元473年元号を「元徽」とする
  4. 473年改元に伴う大赦。
  5. 474年桂陽王劉休範の反乱鎮圧・戒厳解除に伴う大赦。
  6. 474年御加元服(元服の儀)に伴う大赦。
  7. 反乱474年桂陽王劉休范の乱
  8. 476年親耕(籍田)の儀に伴う大赦。
  9. 476年建平王劉景素の反乱鎮圧に伴う大赦。
  10. 反乱476年建平王劉景素の乱
  11. 477年7月18日沈勃・杜幼文・孫超之・杜叔文の誅殺に伴う大赦。
  12. 反乱477年8月1日蕭道成(斉王)と王敬則による弑逆クーデター

宋・南北朝の歴代皇帝

歴代8人の一覧

年表

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宋・南北朝が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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