中国皇帝統計

後廃帝

宋・南北朝|在位 472–477年

後廃帝の肖像
諱(本名)
劉昱
在位
472–477年
在位期間
5年83日365名中187位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
15歳(数え年)269名中・長寿順255位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
7267名中60位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
3289名中146位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

明帝の太子として通常の父子継承。「太子即皇帝位,大赦天下」(宋書卷九)。

出典: 宋書/卷09 本紀第九 後廢帝補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

元徽五年(477年)七月、蕭道成が結んだ側近・楊玉夫らが就寝中の帝を殺害。側近(帝自身の近侍)による謀殺のため暗殺に分類。

出典: 宋書/卷09 本紀第九 後廢帝補記: zh.wikisource.org+WebSearchで補完

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位中の改元は元徽への1回のみ。泰豫年号は先帝明帝の代からの継続使用であり、昱自身の即位に伴う新規建元ではない。

大赦回数

本紀中「大赦天下」と明記された全7件を採用(部分的・地域限定の恩赦は含めない)。西暦日付は寿星天文暦(sxtwl)による干支→西暦換算で、既知の在位開始日(0472-05-11=庚子)・崩御日(0477-08-01=戊子)と完全一致することを確認済みであり、換算の信頼性は高い。

立后回数

本紀中で立后が明記されているのは江氏の1件のみ。

皇太子廃立回数

後廢帝劉昱自身の治世(泰豫元年〜元徽五年)中に皇太子・皇太弟等が立てられた記述、および廃立の記述は本紀中に見当たらない。本紀冒頭の「泰始二年,立為皇太子」は昱自身が父・明帝の太子であった時期(即位前)の記事であり、本項目(在位中に立てた皇太子の廃立)には該当しない。

親征回数

宋書卷九本紀の在位期間(泰豫元年472年~元徽五年477年)を通読したが、帝自身が軍を率いて出征した記述(「帝自将」「親征」等)は一切なし。桂陽王劉休范の乱・建平王劉景素の乱の鎮圧はいずれも張敬兒・黄回・陳顕達ら将軍が担当し、当時10代前半(即位時10歳・死没時15歳)の帝本人が出陣した形跡はない。該当記事なしのため0件。

反乱鎮圧回数

いずれも宋書本紀に鎮圧の主体(将軍への派遣)・結果(斬殺・解厳)が明記されており高信頼。なお泰豫元年十二月の「索虜寇義陽」(北魏の侵攻を司州刺史王瞻が撃破)は南北朝間の対外戦争のため除外。元徽五年四月の豫州刺史阮佃夫・歩兵校尉申伯宗・硃幼による「謀廃立」は実際の挙兵に至らず摘発・処刑(下獄死・伏誅)のみで終わった謀反計画のため除外。同年六月の沈勃・杜幼文・孫超之・杜叔文の誅殺は、本紀末尾の太后令・史臣評にある通り帝自身が理由なく側近を虐殺したもので、相手側に反乱の実態がなく皇帝が攻撃の主体(例外3類似)であるため除外。

被反乱回数

3件目の弑逆事件は本人が犠牲者となった事件であり、deathCause・退位経緯と内容が重複するが、ルールにより別軸として重複計上する。日付は本紀に「七月七日」「七月戊子夜」と明記されており高精度。

遷都回数

宋書本紀を通読。劉宋建国(建康定都、建国時の定都)から479年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年月日(大明七年正月辛丑、463年)・没年齢15歳(「時年十五」)はいずれも直接記載。即位時年齢の直接記載は本紀中になし。

在位中の出来事(14件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦472年5月11日即位に伴う大赦。

即位に伴う大赦。原文:「泰豫元年四月己亥,太宗崩。庚子,太子即皇帝位,大赦天下」。庚子の西暦換算は既存の在位開始日(0472-05-11)と一致(sxtwlによる干支検証済み)。

出典: 宋書 本紀第九 後廢帝

立后472年7月15日江氏の立后。

江氏の立后。原文:「〔泰豫元年六月〕乙巳,尊皇后曰皇太后,立皇后江氏」。乙巳はsxtwlで泰豫元年六月内に一致(472-07-15)。廃后および再冊立の記述はない。

出典: 宋書 本紀第九 後廢帝

改元473年2月13日元徽への改元。

元徽への改元。原文:「元徽元年春正月戊寅朔,改元,大赦天下」。戊寅朔はsxtwlで元徽元年正月朔に一致(473-02-13)。即位時(泰豫元年四月庚子)は先帝明帝が制定した「泰豫」年号をそのまま踏襲しており、昱自身による建元の記述はないためカウントしない。

出典: 宋書 本紀第九 後廢帝

大赦473年2月13日改元に伴う大赦。

改元に伴う大赦。原文:「元徽元年春正月戊寅朔,改元,大赦天下」。sxtwlで元徽元年正月朔=戊寅を確認、西暦473-02-13に対応。

出典: 宋書 本紀第九 後廢帝

反乱鎮圧474年5月〜474年6月桂陽王劉休范の乱

首謀者: 劉休範(桂陽王・太尉・江州刺史、明帝の弟)

結果: 鎮圧成功

元徽二年五月壬午、太尉・江州刺史桂陽王劉休范が挙兵。新亭塁を攻めるも安成王(後の順帝、当時齐王蕭道成の指揮下)らが大破し、越騎校尉張敬兒が休范を斬った。杜黒蠡・丁文豪ら残党は硃雀航方面で劉勔を敗死させ、王道隆も戦死したが、羽林監陳顕達らが東府城の残党を撃破し、丁酉(同月末)に解厳・大赦。荊州刺史沈攸之ら諸州刺史も義兵を発して救援、六月には江州(尋陽)も平定された。宗室による同一政権内部の帝位を脅かす反乱として計上。

被反乱474年5月〜474年6月桂陽王劉休范の乱

首謀者: 劉休範(桂陽王・太尉・江州刺史、明帝の弟)

結果: 鎮圧され休范は張敬兒に斬られた

鎮圧回数と対称。新亭・硃雀航まで攻め込まれ劉勔・王道隆ら戦死者を出す激戦となった。

大赦474年6月27日桂陽王劉休範の反乱鎮圧・戒厳解除に伴う大赦。

桂陽王劉休範の反乱鎮圧・戒厳解除に伴う大赦。原文:「〔元徽二年五月〕丁酉,詔京邑二縣埋藏所殺賊,並戰亡者,復同京城。是日解嚴,大赦天下,文武賜位一等」。丁酉はsxtwlで元徽二年五月内に一致(474-06-27)。

出典: 宋書 本紀第九 後廢帝

大赦474年12月13日御加元服(元服の儀)に伴う大赦。

御加元服(元服の儀)に伴う大赦。原文:「〔元徽二年〕十一月丙戌,御加元服,大赦天下」。丙戌はsxtwlで元徽二年十一月内に一致(474-12-13)。

出典: 宋書 本紀第九 後廢帝

大赦476年2月19日親耕(籍田)の儀に伴う大赦。

親耕(籍田)の儀に伴う大赦。原文:「四年春正月己亥,車駕躬耕籍田,大赦天下」。己亥はsxtwlで元徽四年正月内に一致(476-02-19)。

出典: 宋書 本紀第九 後廢帝

反乱鎮圧476年7月建平王劉景素の乱

首謀者: 劉景素(建平王・征北将軍・南徐州刺史)

結果: 鎮圧成功

元徽四年七月戊子、征北将軍・南徐州刺史建平王劉景素が京城(京口)に拠って反乱。内外戒厳、騎将軍任農夫・領軍将軍黄回らが北討し、鎮軍将軍齊王蕭道成が総統。乙未に京城を陥落させ景素を斬殺、同日中に解厳・大赦。宗室による同一政権内部の反乱として計上。

被反乱476年7月建平王劉景素の乱

首謀者: 劉景素(建平王・征北将軍・南徐州刺史)

結果: 鎮圧され景素は斬殺された

鎮圧回数と対称。

大赦476年8月14日建平王劉景素の反乱鎮圧に伴う大赦。

建平王劉景素の反乱鎮圧に伴う大赦。原文:「〔元徽四年秋七月〕乙未,克京城,斬景素,同逆皆伏誅;其日解嚴。丙申,大赦天下,封賞各有差」。丙申はsxtwlで元徽四年七月内に一致(476-08-14)。

出典: 宋書 本紀第九 後廢帝

被反乱477年7月7日蕭道成(斉王)と王敬則による弑逆クーデター

首謀者: 蕭道成(齊王・領軍將軍・尚書左僕射)/直閤將軍王敬則

結果: 帝は仁寿殿にて刺殺され廃位(死後「蒼梧郡王」に追封)、蕭道成が実権掌握

元徽五年七月七日、実権を握る齊王蕭道成が直閤將軍王敬則と共謀し、帝の側近(左右)楊玉夫・楊萬年ら二十五人を篭絡。新安寺で泥酔し仁寿殿東の氈幄で寝入った帝を、楊玉夫・楊萬年が帝自身の防身刀で斬殺、王敬則を介して蕭道成に首級を届けた。蕭道成は禁軍指揮権(鎮軍將軍として建平王景素の乱討伐で総統衆軍を務めた実績あり)を背景に事後に武装して宮城に入り、皇太后令の形で禅譲・廃立を正当化した。ルール本文が例外4の典型例として名指しする「後廃帝の廃殺」に該当し、朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆クーデターとして被反乱回数に計上(鎮圧の主体が皇帝側でないため鎮圧回数には計上しない)。

大赦477年7月18日沈勃・杜幼文・孫超之・杜叔文の誅殺に伴う大赦。

沈勃・杜幼文・孫超之・杜叔文の誅殺に伴う大赦。原文:「〔元徽五年〕六月甲戌,誅司徒左長史沈勃、散騎常侍杜幼文、游擊將軍孫超之、長水校尉杜叔文,大赦天下」。甲戌はsxtwlで元徽五年六月内に一致(477-07-18)。

出典: 宋書 本紀第九 後廢帝

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