中国皇帝統計

明帝

宋・南北朝|在位 466–472年

諱(本名)
劉彧
廟号
太宗
在位
466–472年
在位期間
6年123日365名中166位
即位経路
簒奪
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
34歳(数え年)269名中・長寿順171位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
7267名中60位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
5225名中88位タイ
被反乱
6289名中82位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:明帝

即位の経緯

宋書明帝紀本文に「上先已與腹心阮佃夫、李道兒等密共合謀」と、自ら前廃帝暗殺を主導したと明記される。事件直後に建安王劉休仁らに擁立される形式を取るが、追加の学術的通説調査(中国語圏の百科・研究解説)でも「政變奪位」「弑君篡位」という簒奪的評価が優勢であり、当時の政敵・義嘉政権(劉子勛)も公然と簒奪と非難し全国的支持を得た事実が残る(ユーザー承認済み:形式上の擁立の側面も併記)。

出典: 宋書/卷08 本紀第八 明帝補記: zh.wikisource.org+現代学術的通説(zh.wikipedia「宋明帝」等)

死因の経緯

泰豫元年(472年)、臨終に遺詔を残した後「上崩于景福殿,時年三十四」(宋書卷八 明帝)。

出典: 宋書/卷08 本紀第八 明帝補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

本紀第八(明帝)より改元は即位に伴う建元「泰始」(元年十二月丙寅)と、崩御直前の「泰豫」(元年正月甲寅朔、疾患理由)の計2回。劉子勛(義嘉政権)が並立期間(466年1月〜9月)に立てたとされる別年号(義嘉)は劉子勛側の出来事として本カウントには含めていない。

大赦回数

『宋書』本紀第八(明帝)より「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみ抽出(計7回)。「曲赦」(吳・吳興・義興・晉陵四郡、浙江東五郡、豫州、揚・南徐二州、江・郢・荊・雍・湘五州、豫・南豫二州、青・冀二州、徐・兗・青・冀四州、廣州、揚・南徐・兗・豫四州等)は地域限定のため除外。また「原赦揚、南徐二州囚系」(泰始二年三月癸丑)も地域限定のため除外。劉子勛(義嘉政権)並立期間(466年1月〜9月、宋書紀年では泰始元年十二月末〜泰始二年八月)中に明帝側から出された全国規模の大赦は即位当日(泰始元年十二月丙寅)のみで、それ以外の大赦(泰始二年九月癸巳)は劉子勛平定(八月己卯)後に発せられたものであり、両者とも明帝自身の出来事として計上した。この期間中に劉子勛側が発したとみられる大赦の記事は本紀(明帝紀)中には見当たらなかった。

立后回数

本紀第八(明帝)中に皇后冊立の記載は「立皇后王氏」(泰始元年十二月戊寅)の1回のみ。廃后および再冊立の記載は見当たらない。

皇太子廃立回数

本紀第八(明帝)中に「立皇子昱為皇太子」(泰始二年十月戊寅)の立太子記事はあるが、廃太子(皇太子廃立)の記載は見当たらないため0回とした。

親征回数

宋書卷八本紀に「帝自将」「親征」「帝率衆」等、明帝本人が戦場に出陣したことを示す記述は見当たらない。義嘉の乱鎮圧時に『泰始二年(466年)丙午、車駕親御六師、出顿中兴堂』(皇帝みずから六軍を統べ、建康近郊の中興堂に出て駐屯した)との記述があるが、これは建康近郊での親率・鼓舞の儀礼的行動であり、実際の戦場(赭圻・鵲尾・浓湖・寿陽等)へ赴いた形跡はなく、実戦部隊の指揮は司徒建安王休仁・沈攸之・呉喜・張永ら諸将が担った。厳密な『親征』基準(皇帝本人が戦場に赴く)を満たさないと判断し、0件とした。

反乱鎮圧回数

義嘉の乱を中心に、宋書巻八本紀(明帝紀)に明記される独立した蜂起5件を計上した。義嘉の乱の粒度判断(複数戦線を1件に集約)については上記イベントnote参照。交州の李長仁の割拠は本紀上に明確な鎮圧記録がなく(隣接文の『討平之』は文脈上、広州の祅賊事件に係ると判断)、鎮圧回数には含めず被反乱側にのみ計上した(詳細は被反乱側note参照)。

被反乱回数

鎮圧回数側5件に加え、鎮圧記録が確認できない交州・李長仁の割拠(例外2:未鎮圧のまま在位終了)を1件追加し、計6件とした。義嘉の乱の集約粒度については鎮圧回数側note参照。

遷都回数

宋書本紀を通読。劉宋建国(建康定都、建国時の定都)から479年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

没年齢34歳は本紀に「時年三十四」と直接記載(泰豫元年四月己亥)。生年月日の記載(元嘉十六年十月戊寅生)はあるが干支日のグレゴリオ暦換算は未実施のためbirthDateは保留。即位時年齢の直接記載は本紀中になし。

在位中の出来事(21件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧466年1月〜466年12月義嘉の乱(劉子勛の対立政権蜂起)

首謀者: 晋安王劉子勛(義嘉政権、謀主・鄧琬)

結果: 鎮圧成功(主要部分)。泰始二年八月己卯、司徒建安王休仁が大破し偽尚書袁顗を斬り、江・郢・荊・雍・湘五州を平定。劉子勛・安陸王子綏・臨海王子頊・邵陵王子元らを賜死、党与を悉く誅した。九月癸巳に六軍解厳(戒厳解除)、十二月には劉勔が豫州の要地寿陽を陥落させ豫州も平定完了。ただし北方戦線は失敗:徐州の薛安都は索虜(北魏)を引き入れて張永・沈攸之を大破し、淮北四州及び豫州淮西の地を永久に喪失した。同時に反乱側に加わった青州刺史沈文秀・冀州刺史崔道固の戦線も本紀上で明確な奪還記録がなく、最終的に北魏に帰した(南朝側の反乱鎮圧としては未完)。

粒度について:本反乱は晋安王劉子勛を新帝として奉じるという単一の目的のもとに、鎮軍長史鄧琬(謀主)、雍州刺史袁顗、豫州刺史殷琰、青州刺史沈文秀、冀州刺史崔道固、徐州刺史薛安都、湘州行事何慧文、広州刺史袁曇遠、益州刺史蕭恵開、梁州刺史柳元怙、及び東方の呉郡・呉興・義興・晋陵・山陽太守ら、多数の武将・刺史が同時多発的に呼応した大規模内乱である。討伐側の呉喜・沈攸之・張永・建安王休仁・桂陽王休範・巴陵王休若らはいずれも南討・北討・東討の各方面軍指揮官であり反乱の首謀者ではないため、これらの副将ごとに個別カウントはせず、劉子勛を首謀者とする一つの反乱として集約した(対立政権首謀者liu-song-liuzixunの記録では、この挙兵は自身の親征、敗死は自身の被反乱として計上される想定)。

被反乱466年1月〜466年12月義嘉の乱(劉子勛の対立政権蜂起)

首謀者: 晋安王劉子勛(義嘉政権、謀主・鄧琬)

結果: 皇帝側(明帝)が最終的に主要五州を制圧し子勛らを賜死させたが、北方(徐・青・冀州)は北魏に奪われる結果となった。即位直後(泰始元年末〜二年)に国土の大半が呼応した宋朝史上最大級の内乱であった。

鎮圧回数側と同一事案・同一粒度で計上(詳細は鎮圧回数側note参照)。

改元466年1月9日泰始元年十二月丙寅、上即皇帝位、詔に「可大赦天下,改景和元年為泰始元年」(即位に伴う最初の建元、景和→泰始)。

出典: 宋書本紀第八

大赦466年1月9日泰始元年十二月丙寅、上即皇帝位、詔に「可大赦天下,改景和元年為泰始元年」(即位に伴う大赦・改元と同時)。

泰始元年十二月丙寅、上即皇帝位、詔に「可大赦天下,改景和元年為泰始元年」(即位に伴う大赦・改元と同時)。劉子勛(義嘉政権)挙兵はこの数日後(戊寅日)であり、本大赦は明帝自身の即位に伴うもので劉子勛側の出来事ではない。

出典: 宋書本紀第八

反乱鎮圧466年2月永世県の史逸宗の反乱

首謀者: 史逸宗(永世県の民)

結果: 鎮圧成功。殿中将軍陸攸之が討平した。

義嘉の乱の東方戦線(呉郡・呉興・義興等の太守蜂起)とほぼ同時期・近接地域(義興郡内の永世県)での蜂起だが、首謀者が郡太守ではなく無位の一民(史逸宗)であり、討伐将も別(陸攸之)であるため、義嘉の乱本体とは別件として個別カウントした。信頼度は中(記述が簡略で義嘉の乱の一部として扱うべきとの見方もあり得る)。

被反乱466年2月永世県の史逸宗の反乱

首謀者: 史逸宗(永世県の民)

結果: 鎮圧された(陸攸之による)。

鎮圧回数側と同一。

反乱鎮圧467年7月薛安都の子・薛伯令による雍州四郡占拠

首謀者: 薛伯令(薛安都の子)

結果: 鎮圧成功。刺史巴陵王休若が討ち斬った。

薛安都本人は前年(泰始二年)に義嘉の乱側として徐州で北魏を引き入れ離反済み(義嘉の乱に集約)。本件はその子が翌年に雍州で別途起こした蜂起であり、時期・首謀者・鎮圧者が異なるため独立事案として計上した。

被反乱467年7月薛安都の子・薛伯令による雍州四郡占拠

首謀者: 薛伯令(薛安都の子)

結果: 鎮圧された(巴陵王休若による)。

鎮圧回数側と同一。

反乱鎮圧468年3月広州における祅賊(妖賊)の蜂起・刺史殺害

首謀者: 不詳(祅賊/妖賊)

結果: 鎮圧成功。龍驤将軍陳伯紹が討平した(刺史羊南〈南史では羊希〉を殺害された後の討伐)。

同じ文中で交州の李長仁の割拠にも言及されるが、地域・首謀者が異なる別事案と判断し分けて計上した。

被反乱468年3月広州における祅賊(妖賊)の蜂起・刺史殺害

首謀者: 不詳(祅賊/妖賊)

結果: 刺史羊南(南史は羊希)が殺害される被害を受けたが、陳伯紹により鎮圧された。

鎮圧回数側と同一。

被反乱468年3月交州における李長仁の割拠・自立

首謀者: 李長仁(交州の土豪)

結果: 未鎮圧のまま推移したとみられる。宋書列伝(徐爰伝)には、交州刺史張牧の病死後、土人李長仁が『乱を為し』北来の流寓者を悉く誅したこと、後に明帝(太宗)崩御(472年)後もなお交州の情勢が落ち着いていなかったことを示唆する記述があり、明帝在位中に朝廷が実効支配を回復した形跡は本紀・列伝いずれにも見当たらない。李長仁没後は李叔献が後を継ぎ、劉宋末期まで交州の半独立状態が続いたとみられる。

被反乱の対称基準の例外2(未鎮圧のまま在位終了)に該当すると判断し、鎮圧回数には計上せず被反乱回数にのみ計上した。confidence medium(討伐記録の不在から未鎮圧と推定した間接的判断のため)。

反乱鎮圧471年2月合肥における妖寇宋逸の乱

首謀者: 宋逸

結果: 鎮圧成功。汝陰太守王穆之は殺害されたが、郡県の兵により討平された。

地方の宗教的・盗賊的小蜂起とみられる。

被反乱471年2月合肥における妖寇宋逸の乱

首謀者: 宋逸

結果: 汝陰太守王穆之が殺害される被害を受けたが、郡県の兵により鎮圧された。

鎮圧回数側と同一。

改元日付不詳泰豫元年正月甲寅朔、「上有疾不朝会。

泰豫元年正月甲寅朔、「上有疾不朝会。以疾患未痊,故改元」(泰始→泰豫、帝の病気を理由とした改元)。

出典: 宋書本紀第八

大赦日付不詳泰始二年九月癸巳、「六軍解厳。

泰始二年九月癸巳、「六軍解厳。大赦天下,賜民爵一級」。同年八月己卯に劉子勛(義嘉政権)が平定された後の大赦であり、明帝側の出来事として計上。

出典: 宋書本紀第八

大赦日付不詳泰始三年八月癸卯、詔に「可大赦天下」。

出典: 宋書本紀第八

大赦日付不詳泰始四年正月己未、「車駕親祠南郊,大赦天下」。

出典: 宋書本紀第八

大赦日付不詳泰始五年正月癸亥、「車駕躬耕藉田。

泰始五年正月癸亥、「車駕躬耕藉田。大赦天下,賜力田爵一級」。

出典: 宋書本紀第八

大赦日付不詳泰始六年二月甲寅、「大赦天下,巧注従軍,不在赦例」。

出典: 宋書本紀第八

大赦日付不詳泰始七年八月庚寅、「以疾愈,大赦天下」(帝の病気平癒による大赦)。

出典: 宋書本紀第八

立后日付不詳泰始元年十二月戊寅、「崇太后為崇憲皇太后,立皇后王氏」(王氏の立后。

泰始元年十二月戊寅、「崇太后為崇憲皇太后,立皇后王氏」(王氏の立后。同日に劉子勛挙兵の記事もあるが、立后自体は明帝による正式冊立であり明帝側の出来事)。

出典: 宋書本紀第八

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