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宋・南北朝第6代

明帝劉彧

在位 465–472年(6年122日)466年1月9日 〜 472年5月10日 ( 465年12月7日から)

日本は古墳時代

劉彧は宋の文帝の第十一子で、甥の前廃帝が殺されたあと即位し、反乱には寛く臨んだが、晩年は皇族を次々に死なせた。

明帝の人物データ

生年
439年
在位
  • 466年1月9日〜472年5月10日 465年12月7日から
6年122日長い順165位/365人即位の年齢は不詳
没年
472年5月10日34歳(数え年)長生き順同率169位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 前廃帝宋・南北朝明帝は前廃帝の叔父
次代
  • 後廃帝宋・南北朝後廃帝は明帝の子
呼び名
姓劉諱彧字休炳幼名栄期廟号太宗呼び名の見方

出典

在位
宋書 本紀第八 明帝紀
死因
宋書/卷08 本紀第八 明帝
即位経路
宋書/卷08 本紀第八 明帝

生涯

どんな皇帝か

宋書のは、文帝以来の兄弟の不和の先例に拠って明帝が皇族の大枝を刈り落とし、幼い君主が孤立して帝位が移ったと論じる。

即位まで

文帝の第十一子で、439年に生まれた。生母を早く亡くして太后の宮で育ち、孝武帝の代に弟たちの多くが疑われるなか一人親しまれた。読書と文章を好んだ。前廃帝の代には、太っていて猪王と呼ばれ、殺されかけたが劉休仁の取りなしで助かった。465年、腹心の阮佃夫らとひそかにはかり、阮佃夫らが寿寂之らと結んで、寿寂之が前廃帝を殺した。まもなく即位し、泰始とした。

治世と最期

即位直後に甥の晋安王劉子勛が尋陽で挙兵して帝に立てられ、四方が呼応した。反乱側に身内がいる将帥にもを任せたので皆が尽力し、平定後も反乱側の多くを生かして才ある者を用いた。466年に反乱を平らげ、劉子勛らは死んだ。同じ年、孝武帝の子たちに次々と死を賜った。

宮中の宴で女性を裸にして興じ、扇で顔を隠した王皇后に言い返されて激怒した。晩年は忌み言葉が数百千に及び、白門と口にした江謐に、お前の家の門を白くしてやると言った。

471年、強情な弟の劉休祐を除こうとして雉狩りで駆け去らせ、寿寂之らに追わせた。諸将が殴り殺すと、帝は落馬は容易ではないと言って医者を遣わした。同じ年、後継ぎを案じて劉休仁にも薬を賜って死なせ、詔には謀反と言わざるを得なかったが事実ではないと記した。のちに人に、除かざるを得なかったと語って泣いた。472年、自分の死後を案じての王景文にも死を賜った。同じ年、袁粲・褚淵らに後事を託して没した。

史料について

劉子勛の最期を、宋書のは死を賜ったとし、子勛伝は討伐軍に誅されたとする。資治通鑑は、劉休仁の進言のあと孝武帝の子たちに一斉に死を賜り、その二十八子が尽きたとするが、宋書の本紀にはこの進言が無い。劉休仁の死を、宋書の本紀は罪あって自殺したと書く。

明帝とつながる皇帝

南北朝の勢力図(465年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

465–472年の地図に、明帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱6・皇后1・改元2・大赦7
  1. 反乱466年1月( 465年12月)〜466年12月義嘉の乱(劉子勛の対立政権蜂起)
  2. 改元466年1月9日( 465年12月7日)元号を「泰始」とする
  3. 466年1月9日( 465年12月7日)
  4. 皇后466年1月21日( 465年12月19日)皇后を立てる
  5. 反乱466年2月永世県の史逸宗の反乱
  6. 反乱467年薛安都の子・薛伯令による雍州四郡占拠
  7. 反乱468年広州における祅賊(妖賊)の蜂起・刺史殺害
  8. 反乱468年交州における李長仁の割拠・自立
  9. 反乱471年合肥における妖寇宋逸の乱
  10. 改元472年1月26日元号を「泰豫」とする
  11. 日付不詳
  12. 日付不詳
  13. 日付不詳
  14. 日付不詳
  15. 日付不詳
  16. 日付不詳

宋・南北朝の歴代皇帝

歴代8人の一覧

年表

南北朝の時代を年表で見る

宋・南北朝が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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