順帝
宋・南北朝|在位 477–479年
- 諱(本名)
- 劉準
- 在位
- 477–479年
- 在位期間
- 1年295日365名中272位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 13歳(数え年)269名中・長寿順260位
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 3回225名中129位タイ
- 被反乱
- 3回289名中146位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:順帝
即位の経緯
後廃帝暗殺の翌日、蕭道成が皇太后の名で安成王劉準を迎え即位させた。
出典: 宋書/卷10 本紀第十 順帝補記: zh.wikisource.org+WebSearchで補完
死因の経緯
退位後、汝陰王として監視下に置かれていたところ、蕭道成配下の警備兵が殺害。『資治通鑑』卷135に「或走馬過汝陰王之門、衛士恐有爲亂者奔入殺王、而以疾聞、上不罪而賞之」とあり、事後に蕭道成が褒賞したことから黙認・教唆の疑いが強い。正式な裁判・公的処断ではなく突発的殺害+隠蔽(史書上は「殂」と婉曲表現)のため暗殺に分類。
出典: 資治通鑑/卷135;宋書/卷10 本紀第十 順帝補記: zh.wikisource.org(本紀は「殂」とのみ記述)+資治通鑑の詳細記事
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
順帝は元徽五年七月に即位(前帝の元徽の年号を引き継ぐ)、翌年に升明と改元。升明三年四月に斉へ禅譲するまで升明のまま、以降の改元はなし。
大赦回数
「大赦天下」と明記された箇所のみを計上。「曲赦荆州」(地域限定の赦)、立后時の「減死罪一等,五歳刑以下悉原」(部分的恩赦)、逋調免除等の租税免除記事は対象外とした。
立后回数
廃后・再冊立の記事はなし。
皇太子廃立回数
順帝(劉準)在位中に皇太子が立てられた記録はなく、廃立の記事も見当たらない。禅譲直前の「進世子為太子」は齐王(蕭道成)の世子を斉国の太子に進めた記事であり、劉宋の皇太子ではないため対象外。
親征回数
宋書卷十順帝紀には「帝自将」「親征」等、皇帝本人が出陣したことを示す記述は見られない。順帝は泰始五年(469年)生まれで、元徽五年(477年)七月即位時は満8歳前後、建元元年(479年)五月に13歳(数え年)で没した幼帝であり、実権は齊王(蕭道成)が掌握していた。軍事行動はすべて蕭道成配下の諸将(黄回・張敬兒等)が担っており、皇帝親征の記録は皆無。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
昇明元年(477年)十二月、荊州刺史沈攸之の挙兵を契機に、司徒袁粲(建康・石頭城)、呉郡太守劉遐(呉郡)がほぼ同時に蜂起し、いずれも齊王蕭道成配下の将軍によって鎮圧された。3件とも実質的には蕭道成の専権に対する反発だが、宋書は順帝の朝廷に対する「反」として記録しているため、順帝紀の反乱鎮圧としてカウントした。なお、昇明二年(478年)十一月の臨沣侯劉晃の「謀反」、昇明三年(479年)二月の臨川王綽の「謀反」は、いずれも「謀反、○○及党与皆伏誅」とのみ記され、挙兵・武力衝突を示す記述がなく密告・摘発による粛清の可能性が高いため、未然に発覚した謀反計画とみなし本カウントから除外した(confidence medium の理由)。
被反乱回数
反乱鎮圧回数と同一の3件(沈攸之・袁粲ら・劉遐)を対称的に計上した。順帝は蕭道成の傀儡であり実際の軍事対応は蕭道成配下が担ったが、これらの反乱はいずれも順帝の朝廷(正統政権)に対する挙兵として宋書に記録されているため被反乱として計上した。禅譲後(479年四月以降、汝阴王として丹陽宮に幽閉された後の建元元年五月の死去)に関する事件は在位期間外のため対象外とした。臨沣侯劉晃・臨川王綽の両「謀反」は挙兵・武力衝突の記述を欠くため除外(鎮圧回数と同様の理由)。
遷都回数
宋書本紀を通読。劉宋建国(建康定都、建国時の定都)から479年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
没年齢13歳は本紀に「時年十三」と直接記載(建元元年五月己未)。本紀冒頭の生年記載(泰始五年七月癸丑生=469年)は「時年十三」と数え年計算上矛盾する(469年生まれなら479年時点で数え11歳のはず)。他の原典(南史・資治通鑑)で追加確認したが、南史も同一の生年記載「泰始五年七月癸丑生」を引き写しているのみで独自の年齢記載はなく、資治通鑑(卷135)の崩御記事にも年齢の言及がないため、矛盾を解消する独立した情報源は見つからなかった(2026-07-16ユーザー指示により追加確認済み)。宋書内部の誤記・混乱の可能性が高いと判断し、没年齢「時年十三」のみ採用、birthDateへの採用は見送る。
在位中の出来事(10件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧477年12月〜478年1月沈攸之の乱
首謀者: 沈攸之(車騎大将軍・荊州刺史)
結果: 鎮圧成功
昇明元年(477年)十二月丁巳、荊州刺史沈攸之が挙兵(举兵反)。将軍黄回らを南討に派遣し、翌昇明二年(478年)正月に沈攸之は郢城から敗走(自郢城奔散)、華容県民に斬殺され(斬送之)、雍州刺史張敬兒が江陵を攻略しその子光琰を斬り「荊州平」(荊州平定)に至った。挙兵時期に弟の沈登之も呉興で呼応して蜂起した(作乱于吴兴)が呉興太守沈文秀に討たれており、同一の乱の波及として本件に含めた。乱の鎮圧主体は齊王蕭道成配下の将軍らであり、皇帝本人の親征ではない。
反乱鎮圧477年12月袁粲・劉秉らの石頭反乱
首謀者: 袁粲(司徒)ほか劉秉・劉述・王蘊
結果: 鎮圧成功(首謀者は誅殺)
沈攸之挙兵と同月(昇明元年十二月)壬申日、司徒袁粲が石頭城に拠って反す(据石头反)。尚書令劉秉・黄門侍郎劉述・冠軍王蘊がこれに合流し、黄回・孫曇瓘・王宜興・任候伯・彭文之らが密かに呼応、中領軍劉韞・卜伯興らも殿内で同謀した。齊王配下の軍主蘇烈らが石頭を陥落させ袁粲を斬殺、劉秉・劉述・王蘊も追撃の末捕縛・誅殺された。同時に殿内の劉韞らも齊王が誅殺。呼応者のうち逃亡していた屯騎校尉王宜興(昇明元年閏月)・孫曇瓘(昇明二年十月)は後日捕縛・誅殺されており、これらは本件の余波として同一事件に含めた。沈攸之とは首謀者・蜂起地点(建康の石頭城)が異なるため別件として計上。実質的には蕭道成の専権に対する反発だが、宋書は「反」として朝廷(順帝の治世)に対する反乱として記録している。
反乱鎮圧477年12月呉郡太守劉遐の反乱
首謀者: 劉遐(呉郡太守)
結果: 鎮圧成功(討ち斬られる)
沈攸之・袁粲の挙兵と同時期(昇明元年十二月、乙亥前後)、呉郡太守劉遐が郡に拠って反す(据郡反)。輔国将軍張環がこれを討伐し斬った(討斬之)。首謀者・蜂起地点(呉郡)が沈攸之・袁粲のいずれとも異なるため独立の事件として計上した。
被反乱477年12月〜478年1月沈攸之の乱
首謀者: 沈攸之(車騎大将軍・荊州刺史)
結果: 鎮圧され沈攸之は敗死
反乱鎮圧回数と対称の事件。荊州刺史という服属する地方長官による離反・挙兵であり、対等な独立政権同士の抗争には当たらない。
被反乱477年12月袁粲・劉秉らの石頭反乱
首謀者: 袁粲(司徒)ほか劉秉・劉述・王蘊
結果: 鎮圧され首謀者は誅殺
反乱鎮圧回数と対称の事件。司徒・尚書令等、朝廷内の重臣による兵力を伴う蜂起。
被反乱477年12月呉郡太守劉遐の反乱
首謀者: 劉遐(呉郡太守)
結果: 鎮圧され劉遐は斬殺
反乱鎮圧回数と対称の事件。
改元478年升明元年、改元(元徽から升明への改元)。
升明元年、改元(元徽から升明への改元)。即位翌年の最初の改元。
出典: 宋書本紀第十 順帝
大赦478年升明元年、改元と同時に大赦天下、文武に位二等を賜う。
出典: 宋書本紀第十 順帝
大赦478年沈攸之の反乱鎮圧(石頭城の袁粲らの乱平定)後、甲戌の日に大赦天下。
出典: 宋書本紀第十 順帝
立后478年10月升明二年冬十月壬寅、皇后謝氏を立てる。
出典: 宋書本紀第十 順帝