前廃帝の人物データ
- 生年
- 449年2月25日
- 在位
- 464年7月12日〜466年1月1日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 465年11月29日まで
- 没年
- 466年1月1日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 465年11月29日)17歳(数え年)長生き順同率246位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱子業幼名法師呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋書 本紀第七 前廢帝紀
- 死因
- 宋書/卷07 本紀第七 前廢帝
- 即位経路
- 宋書/卷07 本紀第七 前廢帝
生涯
どんな皇帝か
宋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、あらゆる悪を一身に集めた者が滅んだのはむしろ幸いだったと評する。
即位まで
孝武帝の長子で、449年に生まれた。453年に父が劉劭の討伐に起つと、都に残っていて囚われ、何度も殺されかけた。父の践祚皇帝の位につくことで皇太子となったが、幼いころから気短で、父にたびたび責められた。書を講じるのを好み、文才もあった。父が太子を廃して新安王劉子鸞を立てる意をほのめかしたときは、袁顗が太子は学問を好むと称えてかばった。464年、父が没したその日に即位したが、璽綬位や官職を示す印とそれを下げるひもを受けても哀しむ様子がなかった。
治世と最期
病の重い母の皇太后に呼ばれても、病人のそばは鬼が多いと言って行かず、皇太后は、どうしてこんな子を産んだのかと怒った。465年、自分を抑えてきた戴法興に死を賜り、自ら宿衛兵を率いて太宰朝廷で最も位の高い大臣の一つの劉義恭や柳元景らを誅し、景和と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。東宮主に皇太子の住む宮殿、また皇太子その人時代に父に愛されなかったとして父の陵を掘ろうとし、太史天文や暦、記録をつかさどった役人が不利だと言うとやめて、陵に糞をまいた。さらに劉子鸞にも死を賜った。
宮人宮中に仕え暮らした女性たちの謝貴嬪を夫人として天子に準ずる儀仗儀式や行列で用いる、旗や武器などの飾り道具を与えたが、実は文帝の娘の新蔡公主だった。山陰公主皇帝の娘が不公平を訴えると、公主のために面首女性に仕える美男の愛人30人を置いた。
叔父の湘東王劉彧らを殿内に囚え、竹籠に入れて量り、劉彧を猪王と呼んだ。裸で縛られ殺されかけた劉彧は、劉休仁の機転で救われた。湘中から天子が出るという訛言世間に広まった根拠のないうわさを厭って南へ巡ろうとし、その前に叔父たちを誅そうとしたので、劉彧の側近の阮佃夫らが、劉子業の側近の寿寂之らと結んで廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることを謀った。465年、華林園の竹堂で鬼を射ていた劉子業は、寿寂之に追われて殺された。太皇太后皇帝の祖母の代の后に贈る称号の令は、劉子業の不仁不孝と暴虐を数え、劉彧に位を継がせた。
史料について
宋書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は劉彧が阮佃夫らとともに寿寂之らと結んだと書くが、阮佃夫伝は、囚われた劉彧は手の打ちようがなく、阮佃夫らが謀ったとする。殺された場所を、南史は華光殿とする。
前廃帝とつながる皇帝

勢力図
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464–465年の地図に、前廃帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元2・大赦3
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。464年7月12日世祖(孝武帝)崩御の当日に太子子業が即位し、大赦。
- 改元465年元号を「永光」とする
- 改元465年元号を「景和」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。465年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。465年皇子誕生を機に大赦、贓汚淫盗もことごとく原除。
- 皇后465年路氏を皇后に立てる(立皇后路氏、四厢奏楽)。
- 反乱466年1月1日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 465年11月29日)景和の政変(湘東王一派による弑逆クーデター)
宋・南北朝の歴代皇帝
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