前廃帝
宋・南北朝|在位 464–466年
- 諱(本名)
- 劉子業
- 在位
- 464–466年
- 在位期間
- 1年173日365名中277位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 17歳(数え年)269名中・長寿順249位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
孝武帝の太子として通常の父子継承。「八年閏五月庚申,世祖崩,其日,太子即皇帝位」(宋書卷七)。
出典: 宋書/卷07 本紀第七 前廢帝補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
景和元年(465年)十一月、湘東王劉彧(後の明帝)が阮佃夫・李道兒と共謀し、近侍・壽寂之を使って華林園竹林堂で殺害。「寂之懷刀直入…帝欲走,寂之追而殞之。時年十七」(宋書卷七 前廃帝)。政権内部(皇族・近侍)による謀殺のため暗殺。
出典: 宋書/卷07 本紀第七 前廢帝補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位(大明八年閏五月)時点では父帝の元号「大明」をそのまま踏襲しており新規建元ではないため、即位建元としてはカウントしていない(この点は他の宋皇帝と扱いを揃えるため要確認)。在位中に大明→永光→景和と2回改元。
大赦回数
「赦揚・南徐二州」(景和元年十一月壬寅頃)と「曲赦徐州」(景和元年冬十月丙寅前後)は地域限定の恩赦(曲赦・特定州のみ)であり全国規模の大赦ではないため対象外とした。
立后回数
永光元年六月丙辰「追崇献妃為皇后」は亡くなった献妃(生母格)への死後の追尊であり、在世の皇后を正式に冊立する立后儀礼とは性質が異なるためカウントに含めない。
皇太子廃立回数
本紀中に前廃帝在位中の皇太子(皇太弟・皇太孫等含む)冊立および廃立の記述は見当たらない。
親征回数
宋書卷七 前廃帝紀を通読したが、皇帝本人が戦場に赴いて指揮した親征に該当する記事は見当たらない。景和元年八月癸酉「帝自率宿卫兵,诛太宰江夏王义恭、尚书令、骠骑大将军柳元景、尚书仆射颜师伯、廷尉刘德愿」は宮中の禁軍を率いた宮廷内クーデター的な誅殺であり、外部への軍事遠征ではない(また相手はまだ反乱していないため例外3に該当し反乱鎮圧側からも除外)。景和元年九月己酉「车驾讨征北将军、徐州刺史义阳王昶,内外戒严。昶奔于索虏」は皇帝の名で徐州の義陽王昶を討伐する動員令が出た記事だが、直後の「戊午、是日解严、车驾幸瓜步」「冬十月丙寅、车驾还宫」からは皇帝の実際の移動は建康近郊の瓜步への巡幸にとどまり、徐州まで親征した形跡がない。義陽王昶は交戦前に索虏(北魏)へ逃亡しており実戦も生じていない。よって親征としては計上しなかった(confidence: medium、判断が分かれ得るため)。
反乱鎮圧回数
在位中(大明八年閏五月〜景和元年十一月)に前廃帝側が実際の武装蜂起を鎮圧した記事は見当たらない。太宰江夏王義恭・柳元景・顔師伯・劉徳願の誅殺、新安王子鸾の賜死、義陽王昶への討伐発動(昶は交戦前に北魏へ逃亡)、南平王敬猷・廬陵王敬先・安南侯敬渊の賜死はいずれも太皇太后の廃立の令(卷七掲載)で『遂纵戮上宰,殄害辅臣…子鸾兄弟…枉加屠酷…昶茂亲作捍,横相征讨…宗室密戚,遇若婢仆…南平一门,特钟其酷』と明記される通り、対象側が挙兵・反乱した事実はなく、帝自身が疑心暗鬼から先制して武力粛清した事例(規則の例外3=皇帝が攻撃の主体)に該当するため、鎮圧回数には含めない。
被反乱回数
在位中に前廃帝自身が被害者となった武力クーデターは景和元年十一月戊午夜の弑殺1件のみ。義陽王昶の一件は帝側が先制した攻撃であり昶は挙兵していないため被反乱には含めない(例外3)。
遷都回数
宋書本紀を通読。劉宋建国(建康定都、建国時の定都)から479年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
没年齢17歳は本紀に「時年十七」と直接記載(景和元年十一月戊午夜、弑殺)。生年月日の記載(元嘉二十六年正月甲申生)はあるが干支日のグレゴリオ暦換算は未実施のためbirthDateは保留。即位時年齢の直接記載は本紀中になし。
在位中の出来事(7件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱466年1月1日景和の政変(湘東王一派による弑逆クーデター)
首謀者: 湘東王劉彧(のちの明帝)
結果: 前廃帝は華林園竹林堂で寿寂之に殺害され(時年十七)、廃位。翌日太皇太后令により湘東王劉彧が擁立され即位(明帝)。
宋書卷七:『太宗与左右阮佃夫、王道隆、李道兒密结帝左右寿寂之、姜产之等十一人,谋共废帝。戊午夜,帝于华林园竹堂射鬼…寿寂之怀刀直入,姜产之为副。帝欲走,寂之追而殒之,时年十七。』太皇太后令でも『潜运宏规,义士投袂,独夫既殒,悬首白旗』と兵を伴う政変として描写。皇帝本人の側近(十一人)による武力を伴う弑逆クーデターであり、プロンプトの指示に明記された例外4の典型例(宋の前廃帝・後廃帝の廃位・弑殺)に該当するため被反乱に計上。ただし鎮圧主体は反乱者側(湘東王一派)であり皇帝側ではないため反乱鎮圧回数には計上しない。日付は既存データセットのreigns[].endDate(0466-01-01、景和元年十一月戊午夜)に合わせた。
改元永光元年正月乙未朔大明九年を永光元年に改元。
出典: 宋書本紀第七 前廢帝
改元永光元年八月癸酉太宰江夏王義恭・柳元景・顔師伯・劉徳願らを誅殺した同日、永光元年を景和元年に改元。
出典: 宋書本紀第七 前廢帝
大赦大明八年閏五月庚申世祖(孝武帝)崩御の当日に太子子業が即位し、大赦天下。
出典: 宋書本紀第七 前廢帝
大赦永光元年正月乙未朔改元(大明→永光)に伴い大赦天下。
出典: 宋書本紀第七 前廢帝
大赦景和元年十一月丁未皇子誕生を機に大赦天下、贓汚淫盗もことごとく原除。
出典: 宋書本紀第七 前廢帝
立后景和元年十一月壬寅路氏を皇后に立てる(立皇后路氏、四厢奏楽)。
出典: 宋書本紀第七 前廢帝