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孝武帝の肖像画

宋・南北朝第4代

孝武帝劉駿

在位 453–464年(11年53日)453年5月20日 〜 464年7月12日

日本は古墳時代

劉駿は宋の文帝の第3子で、父を殺した兄の劉劭の討伐に向かう途中で即位し、まもなく劉劭を誅した。

孝武帝の人物データ

生年
430年9月19日
在位
  • 453年5月20日〜464年7月12日
11年53日長い順121位/365人即位の年齢は不詳
没年
464年7月12日35歳(数え年)長生き順同率162位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 元凶劭宋・南北朝孝武帝は元凶劭の弟
次代
  • 前廃帝宋・南北朝前廃帝は孝武帝の子
呼び名
姓劉諱駿字休龍幼名道民廟号世祖呼び名の見方

出典

在位
宋書 本紀第六 孝武帝紀
死因
宋書/卷06 本紀第六 孝武帝
即位経路
宋書/卷06 本紀第六 孝武帝

生涯

どんな皇帝か

資治通鑑は、機転がきいて決断が早く、学問と文章に優れ騎射も巧みだが、欲には限りがなかったと評する。

即位まで

文帝の第3子で、430年に生まれ、435年に武陵王となった。453年、皇太子の兄劉劭がの兵で宮中に入り、文帝が殺された。西陽の五洲に出ていた劉駿は兵を率いて討伐に向かい、南譙王劉義宣や臧質も兵を挙げた。江夏王劉義恭が投じてを奉ると、新亭で即位した。まもなく都を平定し、劉劭らはみな誅された。

治世と最期

翌454年、臧質に説かれたの劉義宣が挙兵した。劉駿が義宣の娘たちと淫乱したことも原因で、秋冬を期していたが、魯爽が先に叛いたので慌てて兵を挙げたのだった。義宣は江陵で殺された。

自ら政務を見て大臣に任せず、人事や誅罰・恩賞の大事は腹心の戴法興・巣尚之と相談して決めた。459年に竟陵王劉誕が広陵で叛くと、自らを率いて都の宣武堂まで出た。城が陥ちると、城内の成年男子は皆殺しにされた。この乱に乗じて、即位前から厚く遇しながら造営を諫めて不興を買い、怨みを漏らして免官されていた顔竣を罪に陥れ、獄中で死を賜った。

寵愛した殷淑儀が462年に没すると、悲しみのあまり政務をかなり怠った。群臣を連れてたびたび墓を訪れ、悲しく哭けば賞すると言われて声を上げて哭いた劉徳願を豫州にした。宮室を大いに修めて、高祖の旧室を壊して玉燭殿を建て、末年には財貨を貪って終日酒に酔ったが、奏事があれば容儀を正した。464年に玉燭殿で没した。

史料について

義宣の死を、宋書のは死を賜ったとし、義宣伝と資治通鑑は朱修之が殺したとする。資治通鑑は、帝が広陵の士民を大小なく殺せと命じ、沈慶之の願いで五尺以下は助けられたが、なお3000余口が殺されたとする。政務を怠ったとするのは資治通鑑で、宋書の本紀には殷淑儀の記事が無い。宋書と南史の本紀、資治通鑑は死因を書かない。宋書のは、大明の世を民の命を尽くそうとするものだったと厳しく評する。

孝武帝とつながる皇帝

南北朝の勢力図(453年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

453–464年の地図に、孝武帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱5・親征2・皇后1・改元2・大赦11
  1. 453年2月〜453年5月元凶劉劭(簒奪政権・建康)
  2. 453年5月20日
  3. 皇后453年6月皇后を立てる
  4. 反乱453年9月蕭簡の広州反乱(劉劭党類)
  5. 改元454年元号を「孝建」とする
  6. 454年
  7. 454年
  8. 反乱454年劉義宣・臧質・魯爽・徐遺寶の反乱
  9. 455年
  10. 456年
  11. 改元457年元号を「大明」とする
  12. 457年
  13. 459年
  14. 459年竟陵王劉誕(広陵城)
  15. 反乱459年劉季之の反乱(司州)
  16. 反乱459年竟陵王劉誕の反乱(広陵)
  17. 460年
  18. 反乱461年海陵王劉休茂の反乱(雍州)
  19. 462年
  20. 463年
  21. 464年1月( 463年12月)

宋・南北朝の歴代皇帝

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年表

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宋・南北朝が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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