本文へスキップ

宋・南北朝第2代

少帝劉義符

在位 422–424年(2年11日)422年6月26日 〜 424年7月7日

日本は古墳時代

劉義符は劉宋の武帝の長子で、422年、父が没したその日に位に即いた。

少帝の人物データ

生年
406年
在位
  • 422年6月26日〜424年7月7日
2年11日長い順258位/365人即位の年齢は不詳
没年
424年8月4日19歳(数え年)長生き順同率237位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 武帝劉裕宋・南北朝少帝は武帝の子
次代
  • 文帝宋・南北朝文帝は少帝の弟
呼び名
姓劉諱義符幼名車兵呼び名の見方

出典

在位
宋書 本紀第四 少帝紀(南史 巻一 宋本紀上で廃位日の干支「乙酉」を補完確認)
死因
宋書/卷04 本紀第四 少帝
即位経路
宋書/卷04

生涯

どんな皇帝か

424年、の徐羨之らに営陽王へ廃され、幽閉先の呉郡で殺された。南史の論は、父が厳しく教えなかったうえ、染まりやすい質で欲するままにふるまい、転落は不幸ではないと評する。

即位まで

武帝の長子で、406年に京口で生まれ、晩年まで男子のなかった武帝はその誕生を甚だ喜んだ。膂力があって騎射を善くし、音律を解した。晋の恭帝の娘の司馬茂英を妻とした。武帝ので皇太子に立てられた。422年、父は死の床で、徐羨之と傅亮に異心は無かろうが、異変があるなら謝晦だと戒めて没し、劉義符はその日に即位した。徐羨之・謝晦・傅亮が輔政にあたり、劉義符は喪の悲しみを理由に訴訟の裁きも重臣に委ねる詔を出した。

治世と最期

在位中、北魏の侵攻で虎牢が陥ちると、滑台で固守して死んだ陽瓚を、古の忠烈もこれに過ぎるものはないと称えた。范泰が、後園で武備を習い小人と狎れていると封事で諫めたが、容れなかったものの、とがめもしなかった。

424年、を謀る徐羨之らは、まず廬陵王の劉義真をに落として新安へ移した。同じ年、皇太后の令として、喪中の歓楽や浪費、鞭で罪なき者を打って笑ったことなどが数えられ、劉義符は営陽王に廃された。

兵が雲龍門から入ったとき、劉義符は華林園に店を並べて自ら酒を売るなどして遊んだあと、龍舟で寝ていた。兵に指を傷つけられ、呉郡に幽閉された。やがて徐羨之らは邢安泰に金昌亭で殺させ、力のあった劉義符は逃げ出したが、門の閂で打ち倒されて死んだ。劉義真も新安で殺された。劉義符の殺害をすでに議していた傅亮は、蔡廓の警告で止める使いを馳せたが間に合わなかった。徐羨之と傅亮は426年に文帝に誅された。

史料について

廃位の令を、宋書と南史は皇太后の令として載せ、資治通鑑は徐羨之らが皇太后の令と称したとする。劉義真の死を、少帝紀は廃位の前に置き、劉義真の本伝は廃位の後とする。

少帝とつながる皇帝

南北朝の勢力図(422年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

422–424年の地図に、少帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・改元1・大赦2
  1. 422年6月26日即位当日の大赦。
  2. 改元423年元号を「景平」とする
  3. 423年改元(景平元年制定)に伴う大赦。
  4. 反乱424年7月〜424年8月徐羨之・傅亮・謝晦らによる廃位・弑殺クーデター

宋・南北朝の歴代皇帝

歴代8人の一覧

年表

南北朝の時代を年表で見る

宋・南北朝が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。