中国皇帝統計

少帝

宋・南北朝|在位 422–424年

諱(本名)
劉義符
在位
422–424年
在位期間
2年12日365名中261位タイ
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
19歳(数え年)269名中・長寿順240位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

武帝の嫡子(太子)として通常の父子継承。「永初三年五月癸亥,武帝崩,是日,太子即皇帝位」(宋書卷四)。

出典: 宋書/卷04補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

廃位直後、顧命大臣・徐羨之らが中書舍人邢安泰を使って殺害。「六月癸丑,徐羨之等使中書舍人邢安泰弒帝於金昌亭。帝有勇力,不即受制,突走出昌門,追以門關踣之,致殞。時年十九」(宋書卷四 少帝)。政権内部の顧命大臣による謀殺のため暗殺。

出典: 宋書/卷04 本紀第四 少帝補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位に伴う最初の建元(景平への改元)を1回としてカウント。少帝在位中に使用された元号は「永初」(継続使用、父武帝期からの持ち越し)と「景平」(自ら制定)の2つだが、プロジェクトの数え方基準(新元号への切り替え1回=1件)に従うと、少帝自身が制定した元号は景平のみのためcount=1。

大赦回数

本紀に「大赦」と明記された記事は上記2件のみ。他に恩赦関連の記述として(1)景平元年秋七月丁丑「以旱,詔赦五歳刑以下罪人」(旱害に伴う特定刑期以下限定の減刑であり「大赦」ではないため除外)、(2)景平二年、少帝廃位当日の記事「是日,赦死罪以下」(死罪以下の恩赦だが「大赦」の語を用いておらず、また既に廃位された後=少帝自身の在位中の行為とは言えない出来事のため除外)があるが、いずれも大赦回数には計上しなかった。

立后回数

宋書卷四を通読したが、少帝自身が皇后を冊立したとする記事は見当たらない。本紀に見える「皇后」関連の記述は、(1)「尊皇太后曰太皇太后」「尊所生張夫人為皇太后」(いずれも太后号の追尊であり皇后冊立ではない)、(2)「孝懿皇后祔葬於興寧陵」(父武帝の正妻・孝懿皇后臧氏の合葬記事であり少帝自身の皇后ではない)のみ。少帝は永初三年(422年、17歳前後)に即位し景平二年(424年、19歳)で崩御しており、在位2年余りの短い治世中に自身の皇后を立てた記録はない。よってcount=0。

皇太子廃立回数

宋書卷四(少帝紀)を通読したが、少帝自身が皇太子(皇太弟等を含む)を立てた記事も、それを廃した記事も見当たらない。少帝自身は即位前に武帝の皇太子であった(「武帝受禅,立為皇太子」)が、これは武帝在位下での立太子であり少帝自身の治世の出来事ではない。在位中に自ら皇太子を冊立した記録がないため廃立の対象となる皇太子も存在せず、count=0。なお少帝自身が「営陽王」に廃されて臣下に弑殺される事件(景平二年)は、皇帝本人の廃位であって皇太子の廃立ではないためこの項目には計上しない。

親征回数

宋書卷四本紀(少帝紀)の在位期間(永初三年五月~景平二年六月、422~424年)の記述を確認したが、少帝自身が「帝自将」「親征」等で出陣した記述は見当たらない。北魏との河南・虎牢方面の戦闘(檀道済北征等)はいずれも将軍への派遣で、少帝本人は終始建康に在り、該当記事なし。

反乱鎮圧回数

在位中の宋書帝紀本文に見える唯一の国内反乱記事。北魏(虜)との戦闘は対等な独立政権間の対外戦争のため除外した。

被反乱回数

廃位に至った庐陵王義真(劉義真)の誅殺は義真自身が反乱を起こしたわけではなく、執政(徐羨之ら)が使者を派遣して誅殺した政治的粛清であり、反乱には該当しないため計上していない。

遷都回数

宋書本紀を通読。劉宋建国(建康定都、建国時の定都)から479年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年(406年、義熙二年)・没年齢19歳(「時年十九」)はいずれも直接記載。即位時年齢の直接記載は本紀中になし。

在位中の出来事(5件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦422年6月26日即位当日の大赦。

即位当日の大赦。原文:「永初三年五月癸亥,武帝崩,是日,太子即皇帝位。大赦;尊皇太后曰太皇太后」(宋書卷四)。

出典: 宋書/卷04 本紀第四 少帝

改元423年1月28日永初三年(422年)五月に武帝崩御と同日に即位した後は父の元号「永初」をそのまま使用し続け、翌年正月己亥朔に至って初めて改元、新元号「景平」を制定した。

永初三年(422年)五月に武帝崩御と同日に即位した後は父の元号「永初」をそのまま使用し続け、翌年正月己亥朔に至って初めて改元、新元号「景平」を制定した。原文:「明年春正月己亥朔,大赦,改元為景平元年」(宋書卷四)。以後、景平二年(廃位の年)まで改元の記事はなく、少帝在位中の建元・改元はこの1回のみ。日付はsxtwlによる干支計算で「景平元年正月己亥朔」が0423-01-28(干支:己亥)と確認済み。

出典: 宋書/卷04 本紀第四 少帝

大赦423年1月28日改元(景平元年制定)に伴う大赦。

改元(景平元年制定)に伴う大赦。原文:「明年春正月己亥朔,大赦,改元為景平元年」(宋書卷四)。

出典: 宋書/卷04 本紀第四 少帝

反乱鎮圧423年2月孫法光の乱

首謀者: 孫法光

結果: 鎮圧成功

宋書卷四:景平元年(423年)二月「辛未,富陽人孫法光反,寇山陰,會稽太守褚淡之遣山陰令陸劭討敗之」。富陽の民・孫法光が挙兵し会稽郡山陰を侵したが、会稽太守褚淡之の命で山陰令陸劭が討伐し撃破した。少帝本人は出陣していない(皇帝側による鎮圧のためsuppressionに計上)。

被反乱424年5月〜424年6月徐羨之・傅亮・謝晦らによる廃位・弑殺クーデター

首謀者: 徐羨之(傅亮・謝晦・檀道済が共謀、王弘・邢安泰・潘盛らが内応)

結果: 少帝は廃位(営陽王に貶される)され幽閉されたのち弑殺された

宋書卷四:景平二年(424年)夏五月乙酉、太后令により廃位を宣言。『始徐羨之、傅亮將廢帝、諷王弘、檀道濟求赴國訃…道濟、謝晦領兵居前、羨之等隨後、因東掖門開、入自雲龍門…兵士進、殺二侍者於帝側、傷帝指。扶出東皞…遂幽於吳郡』とあり、檀道済・謝晦が兵を率いて宮中に突入し、少帝の側近を殺害・本人も負傷させたうえで廃位・幽閉した、明確に兵力を伴うクーデターである。その後六月癸丑、徐羨之らが中書舍人邢安泰に命じ金昌亭で少帝を弑殺した(『帝有勇力、不即受制、突走出昌門、追以門關踣之、致殞』)。これは権臣による兵力を伴う弑逆・クーデター(例外4)に該当し被反乱には計上するが、鎮圧の主体が皇帝側ではないため反乱鎮圧回数には計上しない。

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