中国皇帝統計

文帝

宋・南北朝|在位 424–453年

文帝の肖像
諱(本名)
劉義隆
廟号
太祖
在位
424–453年
在位期間
28年187日365名中28位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
47歳(数え年)269名中・長寿順93位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
17267名中11位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
10225名中38位タイ
被反乱
11289名中43位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:文帝

即位の経緯

少帝廃位後、顧命大臣(徐羨之ら)に迎えられて即位。「百官備法駕奉迎,入奉皇統」「還於中堂即皇帝位」(宋書卷五 文帝)。

出典: 宋書/卷05 本紀第五 文帝補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

元嘉三十年(453年)二月、実子の皇太子劉劭が近侍・張超之らを率いて上閤殿に侵入し弑逆。皇族による謀殺のため暗殺に分類。

出典: 宋書/卷99 列伝 二凶(劉劭)/宋書/卷05 本紀第五 文帝補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位中に使用された年号は「元嘉」のみ(即位に伴う建元1回のみをカウント)。

大赦回数

「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみを計上(17回)。元嘉三年二月「係囚見徒,一皆原赦」(在監の囚人のみ対象)、元嘉十年七月「曲赦益・梁・秦三州」、元嘉二十八年十一月「曲赦二兗・徐・豫・青・冀六州」等、対象者・対象地域が限定された部分的な赦は対象外とした。原典の年号・干支日は特定できたが、干支日からグレゴリオ暦日への正確な変換ができるオンラインツール(中央研究院『兩千年中西曆轉換』sinocal.sinica.edu.tw)が調査時点でサーバーメンテナンス中のため利用不可であり、即位当日(既知のreigns.startDateと一致する1件)を除きdateはnullとし、原文の年号・月・干支日をnoteに記載した。崩御(元嘉三十年二月甲子、453-03-16)直前までを対象とし、崩御後の出来事はliu-song-liushao側に帰属させた。

立后回数

在位中の立后は元嘉元年の袁皇后冊立1回のみ。皇后袁氏崩御(元嘉十七年)後、再冊立の記事は崩御(元嘉三十年)まで本紀中に見当たらない。

皇太子廃立回数

元嘉六年(429年)三月丁巳に皇子劭を皇太子に冊立した記事はあるが、文帝在位中(崩御直前まで)に皇太子を廃した記事は本紀中に見当たらない。皇太子劭はむしろ元嘉三十年二月甲子(453-03-16)に父帝を弑逆して即位するに至った(この簒奪期間の出来事はliu-song-liushao側に帰属させる)。

親征回数

宋書卷五本紀の全文を確認。『帝自将』『親征』等に相当する『上親率六師西征』の記述があるのは元嘉三年の謝晦討伐のみ。対北魏戦争(元嘉七年・二十七年・二十九年)は太尉江夏王義恭や諸将が指揮し文帝本人の出征は確認できない。

反乱鎮圧回数

宋書卷五本紀の全文(元嘉元年〜三十年)を確認し、服属民・郡県官・藩属異民族による武装蜂起10件を反乱として算入した。除外した事案: (1)徐羨之・傅亮の誅殺(元嘉三年正月、文帝自身が先制して権臣を武力粛清、例外3に該当し反乱不成立)、(2)徐佩之謀反(元嘉三年十二月、『謀反…皆伏誅』とのみあり実際の挙兵の記述がなく密告・摘発のみとみて除外)、(3)檀道済誅殺(元嘉十三年、権臣の先制粛清、例外3)、(4)劉湛誅殺(元嘉十七年、劉義康擁立を図った謀議とみられるが挙兵前の粛清、例外3)、(5)范曄謀反(元嘉二十二年、孔煕先らとの謀議が挙兵前に発覚し摘発されたのみ)。また索虜(北魏)との戦争(元嘉七年北伐、二十七年北伐と北魏軍の瓜歩来寇、二十九年北伐)は対等な南北朝廷間の統一戦争として鎮圧・被反乱いずれからも除外した。仇池(楊難当)の2件は宋官職を帯びた藩属異民族の離反として算入したが、半独立勢力としての性格もあり confidence medium とした。

被反乱回数

反乱鎮圧回数の10件全てが対称的に被反乱にも該当すると判定した上で、朝廷内部の権力者(皇太子)による兵力を伴う弑逆=例外4に該当する劉劭の弑逆(453年)を追加した。この事案は鎮圧の主体が文帝側ではあり得ない(文帝自身が弑殺された)ため反乱鎮圧回数には含めていない(食い違いの正当な理由(4)に該当)。

遷都回数

宋書本紀を通読。劉宋建国(建康定都、建国時の定都)から479年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年(407年、義熙三年)・没年齢47歳(「時年四十七」)はいずれも直接記載。即位時年齢の直接記載は本紀中になし。

在位中の出来事(41件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元424年9月17日即位当日(景平二年八月丁酉、中堂にて皇帝に即位)に、同日を元嘉元年八月丁酉として「改景平二年為元嘉元年」と改元。

即位当日(景平二年八月丁酉、中堂にて皇帝に即位)に、同日を元嘉元年八月丁酉として「改景平二年為元嘉元年」と改元。以後、崩御(元嘉三十年二月甲子、453-03-16)まで年号は「元嘉」のまま継続し、追加の改元記事は本紀中に見当たらない。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦424年9月17日即位当日(景平二年=元嘉元年八月丁酉、中堂にて皇帝に即位)に「大赦天下,改景平二年為元嘉元年」と明記。

即位当日(景平二年=元嘉元年八月丁酉、中堂にて皇帝に即位)に「大赦天下,改景平二年為元嘉元年」と明記。建元と同時の大赦(既知のreigns.startDateと一致)。

出典: 宋書本紀第五 文帝

反乱鎮圧426年1月〜426年2月謝晦の乱

首謀者: 謝晦(荊州刺史)

結果: 鎮圧成功(謝晦を捕縛・誅殺)

文帝擁立の功臣であった謝晦が、共謀者徐羨之・傅亮の誅殺を受けて荊州で挙兵。文帝自ら親征し、到彦之・檀道済の軍が隠磯で撃破、延頭で謝晦を捕らえ誅殺した。

被反乱426年1月〜426年2月謝晦の乱

首謀者: 謝晦(荊州刺史)

結果: 鎮圧され謝晦は誅殺

反乱鎮圧回数と同一事案。文帝が親征して鎮圧した唯一の反乱。

親征426年2月〜426年3月荊州刺史謝晦

対象: 荊州刺史謝晦

結果: 勝利(謝晦を延頭で捕らえ京師に送り誅殺)

元嘉三年正月丙寅、司徒徐羨之・尚書令傅亮の誅殺と同日に、荊州刺史謝晦討伐のため到彦之・檀道済を派遣すると共に『上親率六師西征,大赦天下』と明記。二月庚申(是日)に車駕発京師、戊辰に隠磯で謝晦軍を撃破、己卯に延頭で謝晦を捕らえ京師に送り誅殺。三月辛巳、車駕還宮。本紀中で皇帝自らの出征が明記された唯一の事例(対北魏の元嘉七年・二十七年・二十九年の北伐はいずれも将軍派遣のみで文帝本人は出征していない)。

反乱鎮圧432年9月妖賊趙広の乱(益州)

首謀者: 趙広

結果: 鎮圧成功(州府がこれを討平)

元嘉九年秋九月、妖賊趙広が益州に侵寇し郡県を陥没させたが、州府がこれを討平したと明記(『州府討平之』)。文帝の親征ではなく地方官府による鎮圧。

被反乱432年9月妖賊趙広の乱(益州)

首謀者: 趙広

結果: 州府により鎮圧

反乱鎮圧回数と同一事案。

反乱鎮圧433年11月〜434年4月氐楊難当の漢川侵寇(第一次)

首謀者: 楊難当(氐族、宋の秦州刺史)

結果: 鎮圧成功(蕭思話が撃破し梁州平定)

楊難当は元嘉七年に宋から冠軍将軍・秦州刺史に任じられた氐族の首長。元嘉十年冬十一月に漢川へ侵寇し梁州を占拠したが、元嘉十一年夏四月、梁・秦二州刺史蕭思話が撃破し梁州平定。宋官職を帯びた藩属異民族の離反として算入したが、仇池国は魏・宋間を去就した半独立的性格も強く解釈の余地がある(confidence medium)。

被反乱433年11月〜434年4月氐楊難当の漢川侵寇(第一次)

首謀者: 楊難当

結果: 蕭思話に撃破され梁州平定

反乱鎮圧回数と同一事案(confidence medium、藩属異民族の半独立的性格に留意)。

反乱鎮圧434年1月亡命馬大玄の乱

首謀者: 馬大玄

結果: 鎮圧成功(州郡が討平)

元嘉十一年春正月、亡命の馬大玄が数百人の徒党を率いて秦・梁二州に侵寇したが、州郡がこれを討平した。

被反乱434年1月亡命馬大玄の乱

首謀者: 馬大玄

結果: 州郡により鎮圧

反乱鎮圧回数と同一事案。

反乱鎮圧435年9月蜀郡賊張尋の乱

首謀者: 張尋

結果: 結果不明(討平の記述なし)

元嘉十二年九月、蜀郡の賊張尋が寇(侵犯)したとの記事のみで、以後の討伐・鎮圧結果は本紀中に明記がない。小規模な地方賊のため詳細記録を欠くとみられる(confidence medium)。

被反乱435年9月蜀郡賊張尋の乱

首謀者: 張尋

結果: 結果不明

反乱鎮圧回数と同一事案(confidence medium)。

反乱鎮圧441年11月〜442年5月氐楊難当の漢川侵寇(第二次)

首謀者: 楊難当

結果: 鎮圧成功(劉真道・裴方明が撃破し仇池平定)

元嘉十八年冬十一月、楊難当が再び漢川に侵寇。同年十二月に龍驤将軍裴方明・梁秦二州刺史劉真道を派遣し討伐、元嘉十九年五月に撃破し仇池平定。元嘉十年の第一次侵寇とは年を隔てた別件として計上(confidence medium、性格は上記と同様)。

被反乱441年11月〜442年5月氐楊難当の漢川侵寇(第二次)

首謀者: 楊難当

結果: 劉真道・裴方明に撃破され仇池平定

反乱鎮圧回数と同一事案(confidence medium)。

反乱鎮圧441年12月晋寧太守公爨松子の反乱

首謀者: 公爨松子(晋寧太守)

結果: 鎮圧成功(寧州刺史徐循が討平)

元嘉十八年十二月、寧州(現雲南方面)晋寧太守の公爨松子が反叛したが、寧州刺史徐循がこれを討平した。宋の郡太守という服属官の離反。

被反乱441年12月晋寧太守公爨松子の反乱

首謀者: 公爨松子(晋寧太守)

結果: 徐循に鎮圧

反乱鎮圧回数と同一事案。

反乱鎮圧446年8月掲陽赭賊の乱

首謀者: 不明(掲陽の賊集団)

結果: 結果不明(討平の記述なし)

元嘉二十三年八月、掲陽の赭賊が建安郡を攻め城府を焼いたとの記事のみで、以後の鎮圧結果は本紀に明記がない(confidence medium)。

被反乱446年8月掲陽赭賊の乱

首謀者: 不明(掲陽の賊集団)

結果: 結果不明

反乱鎮圧回数と同一事案(confidence medium)。

反乱鎮圧447年10月豫章胡誕世の反乱

首謀者: 胡誕世

結果: 鎮圧成功(檀和之が討平)

元嘉二十四年冬十月、豫章の胡誕世が反乱を起こし太守桓隆之を殺害したが、前交州刺史檀和之が豫章に帰還する途上でこれを討平した。

被反乱447年10月豫章胡誕世の反乱

首謀者: 胡誕世

結果: 檀和之に鎮圧

反乱鎮圧回数と同一事案。

反乱鎮圧451年4月〜451年8月亡命司馬順則の斉王僭称

首謀者: 司馬順則

結果: 鎮圧成功(梁鄒平定、司馬順則を斬殺)

元嘉二十八年夏四月、亡命の司馬順則が自ら斉王と号し梁鄒城に拠ったが、同年八月癸亥に梁鄒が平定され斬られた。皇帝位(王号)僭称を伴う反乱として算入。

被反乱451年4月〜451年8月亡命司馬順則の斉王僭称

首謀者: 司馬順則

結果: 鎮圧され斬殺

反乱鎮圧回数と同一事案。

被反乱453年3月16日皇太子劉劭による弑逆(巫蠱事件を発端とするクーデター)

首謀者: 劉劭(皇太子)

結果: 文帝弑殺・崩御。劉劭は即日『太初』と改元して簒奪即位したが、約2か月後に弟の劉駿(孝武帝)の討伐軍に敗れ捕縛・処刑された(liu-song-liushao側に記録)。

元嘉三十年二月甲子(453年3月16日)、皇太子劉劭が近侍張超之らに兵を授けて上閤殿に侵入させ文帝を弑逆。『宋書』本紀第五文帝末尾は『上崩於含章殿,時年四十七』と簡潔に記すのみだが、『宋書』卷99列伝第59二凶(劉劭伝)に武装クーデターの経緯が詳述され、既存データセットのliu-song-liushao側deathCause(暗殺)・accessionRoute(簒奪)とも整合する。皇太子という朝廷内部の権力者が兵力を用いて皇帝を弑逆した例外4に該当するため被反乱にのみ算入し、鎮圧主体が文帝側になり得ない(文帝が死亡)ため反乱鎮圧回数には計上しない。

大赦日付不詳元嘉二年(425年)正月丙寅、「車駕祠南郊,大赦天下」と明記(丙寅は直前の徐羨之等奉表帰政の記事に付された干支で、南郊祭祀・大赦が同日か近日かは原文からは断定しづらい)。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉三年(426年)正月丙寅、謝晦討伐のため親征に際し「上親率六師西征,大赦天下」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉六年(429年)三月戊午、皇太子劭冊立の直後に「大赦天下,賜文武位一等」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉八年(431年)六月乙丑、「大赦天下」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉十年(433年)正月己未、「大赦天下」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉十二年(435年)正月辛酉、「大赦天下」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉十三年(436年)三月庚申、檀道済誅殺の直後に「大赦天下」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉十四年(437年)正月辛卯、「車駕親祠南郊,大赦天下」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉十六年(439年)十二月乙亥、「皇太子冠,大赦天下」と明記。

元嘉十六年(439年)十二月乙亥、「皇太子冠,大赦天下」と明記。皇太子劭の元服に伴う大赦。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉十七年(440年)十月戊午、劉湛誅殺の直後に「大赦天下,文武賜爵一級」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉十九年(442年)四月甲戌、「以久疾愈,始奉初祠,大赦天下」と明記。

元嘉十九年(442年)四月甲戌、「以久疾愈,始奉初祠,大赦天下」と明記。皇帝の病気快癒を機とした大赦。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉二十一年(444年)正月己亥、「大赦天下,諸逋債在十九年以前,一切原除」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉二十三年(446年)四月丁未、「大赦天下」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉二十四年(447年)正月甲戌、「大赦天下,文武賜位一等」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉二十六年(449年)三月丁巳、故郷丹徒(京口)巡幸に際する詔に「其大赦天下」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

大赦日付不詳元嘉二十七年(450年)十一月丁未、北魏との戦い(劉康祖の敗死等)を受け「大赦天下」と明記。

出典: 宋書本紀第五 文帝

立后日付不詳元嘉元年(424年)九月丙子、「立妃袁氏為皇后」と明記。

元嘉元年(424年)九月丙子、「立妃袁氏為皇后」と明記。即位後まもなく正妃袁氏を皇后に冊立。同皇后は元嘉十七年(440年)七月壬子に崩じており(本紀に「皇后袁氏崩」と明記、九月壬子に長寧陵へ葬送)、以後崩御(元嘉三十年)まで新たな皇后冊立の記事はない。

出典: 宋書本紀第五 文帝

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。