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文帝の肖像画

魏(三国)第1代

文帝曹丕

在位 220–226年(5年201日)220年12月10日 〜 226年6月29日

日本は弥生時代

後漢の献帝から位を譲られて魏を建てた皇帝である。

文帝の人物データ

生年
187年
在位
  • 220年12月10日〜226年6月29日
5年201日長い順176位/365人34歳で即位(数え年)
没年
226年6月29日40歳(数え年)長生き順同率129位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
(易姓)
先代
  • 献帝後漢文帝は献帝の外戚
次代
  • 明帝魏明帝は文帝の子
呼び名
姓曹諱丕字子桓廟号高祖呼び名の見方

出典

在位
三國志 魏書二 文帝紀
死因
三國志 魏書二 文帝紀
即位経路
三國志 魏書二 文帝紀

生涯

どんな皇帝か

文学を好んで自ら百篇近い著述を仕上げ、儒者たちに千余篇の皇覧を編ませた。陳寿は、文才に富み博識多芸だったとし、度量の広さと公平さが加われば古の賢主に遠くないと評する。

即位まで

曹操の太子で、187年に譙で生まれた。冀州が平定されると、袁熙の妻だった甄氏を鄴でめとって寵愛し、明帝が生まれた。211年に・副となった。曹操は才ある弟の曹植を何度も太子にしかけたが、曹植は気ままで酒に節度がなく、曹丕は術を用い本心を偽って身を飾り、側近も口添えしたので、217年に魏の太子に立てられた。220年、曹操が没すると丞相と魏王を継ぎ、延康とした。魏王のときに、陳羣の建議での法が定められた。同じ年、献帝は衆望が魏にあるとして位を譲り、曹丕は辞退の令を重ねた。繁陽に築いた壇で即位して黄初と改元し、献帝を山陽公とした。

史料について

九品官人の法の制定は三国志の陳羣伝にあり、は書かない。辞退の令は、裴注に引く献帝伝による。後継が決まった経緯は曹植伝による。賈詡伝は、曹操に後継を問われた賈詡が袁紹・劉表父子のことを考えていたと答え、曹操が大笑して太子が定まったと書く。

治世と最期

220年、狩りが多すぎると諫めた戴陵に大いに怒り、戴陵は死罪を一等減じられた。221年、弟の曹植が酔って使者を脅したと訴えられると、太后のために爵を落とすにとどめた。魏に戻った于禁を慰めつつ、曹操の陵に于禁が降る姿を描かせておき、それを見た于禁は恥じて病死した。

同じ221年、寵愛を失って怨みを口にした夫人の甄氏に大いに怒り、死を賜った。222年、劉備が七百余里に陣を連ねたと聞くと、劉備は兵を知らないと言い、7日後に劉備が敗れたという報せが届いた。同じ年、婦人やが政に関わるのを禁じ、郭氏を皇后に立てた。さらに首陽山に自分の陵を定め、封土も寝殿も設けず金銀を納めないを命じた。

若いころ借りようとして意に沿わなかった曹洪を恨み、獄に下った曹洪を死罪にしかけたが、卞太后が郭皇后を通じて迫り、免官と爵位・封土の削減にとどめた。喪中の狩りを諫めた鮑勛の上奏を破って狩りに出たこともあり、のちに鮑勛を、重臣が助命を願っても許さず誅した。明帝は母が死を賜ったため、長く後継に立てられなかった。226年に病が重くなると明帝を皇太子に立て、曹真・陳羣・曹休・司馬懿に後を託して没した。

史料について

甄氏の死を、三国志の本紀は卒したとだけ書く。死を賜った話は后妃伝による。明帝のをめぐり、裴注に引く魏末伝には、母鹿を射た文帝に子鹿を射よと言われた明帝が泣いて断り、文帝が立てる意を固めた話がある。同じ注の魏略は、文帝が京兆王を後継に考えたと伝える。七歩詩の逸話は三国志の本文にも注にも無く、世説新語に見える。

文帝とつながる皇帝

三国の勢力図(220年)

勢力図

三国の勢力図で見る

220–226年の地図に、文帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・親征3・皇后1・改元1・大赦1
  1. 改元220年12月10日元号を「黄初」とする
  2. 220年12月10日
  3. 反乱221年鄭甘の反乱
  4. 皇后222年皇后を立てる
  5. 222–223年孫権(呉)
  6. 224年孫権(呉)
  7. 反乱225年利成郡兵蔡方の反乱
  8. 225年4月〜226年1月( 225年11月)孫権(呉)

魏の歴代皇帝

歴代5人の一覧

年表

三国の時代を年表で見る

魏が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「受禅(易姓)」の18名をデータベースで見る

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