中国皇帝統計

光宗・泰昌帝

明|在位 1620年

光宗・泰昌帝の肖像
諱(本名)
朱常洛
在位
1620年
在位期間
29日365名中361位
即位経路
世襲
死因
諸説あり
即位時年齢
39歳(数え年)172名中・若い順133位タイ
没年齢
39歳(数え年)269名中・長寿順137位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

神宗長子。「争国本」を経て皇太子の地位が確定しており、神宗崩御の遺詔により即位。

出典: 明史 本紀二十一(神宗二)

死因の経緯

即位直後、鄭貴妃の宮中内侍・崔文升が下剤「大黄」を進め体調が急激に悪化。世論は鄭貴妃の指示による陰謀を疑ったが、明史自身も「其實出於文升果否,未知也」と断定を避けている。その後、李可灼が丹薬「紅丸」を進上し服用直後は「平善」だったが翌朝崩御(在位1ヶ月、明末三大案の一つ「紅丸案」)。「中外皆恨可灼甚」とあるが公式に暗殺・弑逆と断定した記述はなく、方従哲を弑逆と弾劾する上奏と弁護派で朝議が紛糾した。医療過誤説と毒殺・陰謀説が正史内部でも並存し一つに絞れないため諸説あり。

出典: 明史 本紀二十一(神宗二・泰昌紀)/列伝(方従哲伝・崔文升伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

泰昌年号の建元は即位時の1回のみカウント。なお本紀末尾に『熹宗即位、従廷臣議、改万暦四十八年八月後為泰昌元年』とあり、光宗没後に熹宗・廷臣の議により万暦48年8月以降(光宗の在位期間)を遡って泰昌元年と改称する措置が取られているが、これは新元号への切替ではなく既存の『泰昌』の適用開始時期を遡及的に変更したものであり、かつ光宗自身の在位中の行為ではなく没後に熹宗が行った措置のため、改元回数には別途カウントしていない。

立后回数

光宗本紀部分(◎光宗~葬庆陵)には皇后冊立の記事が見当たらない。在位わずか1ヶ月で立后の記録なし。

皇太子廃立回数

光宗自身が皇太子として立てられた記事(万暦29年10月立太子)はあるが、廃立(廃止)された記録はない。万暦31年『妖書』事件で『神宗欲易太子』との風説が流れ動揺したが、実際に廃されることなく沙汰止みとなった(『狱乃解』)。光宗在位1ヶ月の間に皇太子(皇長子由校、のちの熹宗)が立てられた記述もなく、廃立事例は0件。

親征回数

在位約1ヶ月(万暦48年8月丙午朔即位〜9月乙亥朔崩御)の本紀本文を通読したが、親征(帝親自将/帝親征等)に該当する記事は皆無。在位中の主な出来事は即位・大赦・鉱税廃止・人事(大学士任命)・体調不良と紅丸案による崩御のみで軍事親征の記録なし。

反乱鎮圧回数

在位中(1620年8月末〜9月末)に反乱鎮圧の記事なし。皇太子時代に発生した『妖書案』『梃撃案』は宮中の政争・刺客事件であり武装反乱ではなく、かつ即位前(皇太子期)の出来事のためaccessionRoute/皇太子廃立領域の話であり本カウント対象外。

被反乱回数

在位中に反乱・クーデターにより脅かされた記録なし。崩御自体は紅丸案(鄭貴妃側近の関与を疑う説あり)による毒殺疑惑だが、明史も『其実出於文升果否、未知也』として断定を避けており、兵力を伴うクーデターや武装反乱としての明記はないためrebellionSufferedCountには計上しない(deathCauseフィールドで別途扱い済み)。

遷都回数

明史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(南京→北京の遷都は永楽帝の代の出来事として計上済み。洪武帝期の鳳陽「中都」構想は未完成のまま放棄され実行されず)。

即位時年齢・没年齢

原文冒頭『万暦十年八月生』(生年月まで判明、日は原文に記載なし)。原文末尾『九月乙亥朔、崩於乾清宮、在位一月、年三十有九』により没年齢39歳(数え年)が直接記載されている。即位(万暦48年8月丙午朔=1620年)と崩御(同年9月乙亥朔)が同一干支年内のため、数え年は即位時・没時ともに39歳で一致する。deathDateは既存reigns[0].endDate(1620-09-26、day精度で検証済み)と整合。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1620年9月6日万暦48年8月丙午朔、即位に伴い建元。

万暦48年8月丙午朔、即位に伴い建元。原文「八月丙午朔、即皇帝位。大赦天下、以明年為泰昌元年」(次年=1621年を泰昌元年とする)。

大赦1620年9月6日万暦48年8月丙午朔、即位の日に大赦。

万暦48年8月丙午朔、即位の日に大赦。原文「八月丙午朔、即皇帝位。大赦天下、以明年為泰昌元年。蠲直省被災租賦」。全国規模の大赦であり本紀(光宗部分)中で確認できる大赦はこの1件のみ。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。