
宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の魏忠賢と乳母の客氏に宮中を任せ、東林党の官僚の獄死を許した明の皇帝である。
天啓帝の人物データ
- 生年
- 1605年
- 在位
- 1620年10月1日〜1627年9月30日
- 没年
- 1627年9月30日23歳(数え年)長生き順同率216位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓朱諱由校廟号熹宗諡号悊皇帝元号天啓呼び名の見方
出典
- 在位
- 明史 本紀第二十二 熹宗
- 死因
- 明史 本紀二十二(熹宗)
- 即位経路
- 明史 本紀二十二(熹宗)
生涯
即位まで
治世と最期
即位するとすぐ魏忠賢の兄に官を与え、乳母の客氏を奉聖夫人天啓帝が乳母の客氏に与えた称号に封じた。日講官毎日皇帝に書物を講義する役人の孫承宗の講義を聞くたびに心が開けると言い、1621年に廷臣が承宗を兵部に推しても講筵皇帝に学者が書物を講じる場から離さなかった。同じ年の大婚で客氏を宮外へ出すよう求められると、皇后は幼く乳母の保護が要ると言って決めるのを延ばした。張皇后は客氏と魏忠賢の過失を言い、1623年に身ごもると、二人は宮人宮中に仕え暮らした女性たちを入れ替えて子を損なわせた。あるとき、読んでいた書を問われた皇后が趙高伝ですと答えると、帝は黙った。
1624年に楊漣が魏忠賢の大罪24か条を弾劾したが、帝は容れず、翌日楊漣を厳しく責めた。1625年には楊漣と左光斗らが捕らえられて獄死し、全国の東林書院が壊された。帝は大工仕事を何年も好み、その最中に奏事されると、お前たちでうまくやれと言い、忠賢が威福罰と恩賞を思いのままに与える力をふるった。
1627年、病が重くなっても群臣に魏忠賢は忠貞だと語り、弟の信王を召して後を託し、乾清宮で没した。
史料について
楊漣の弾劾のいきさつを、魏忠賢伝は泣いて訴える忠賢を帝が見分けられずに慰留したとし、楊漣伝は旨を魏広微が起草したとし、王体乾伝は体乾が疏の要の語を読み飛ばしたと書く。木工の話は明史では魏忠賢伝にしか無い。西苑で舟が覆って落水した話を、明史紀事本末は1625年に置き、先撥志始は1626年に置いてこれで病になったとするが、明史と、実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録の該当の年月には無い。明史紀事本末は、信王を堯舜のような君主となれと諭したと書く。明史の賛は、帝が凡庸で気が弱く、女と宦官に権を盗まれ忠良な臣が禍いに遭ったと評する。
天啓帝とつながる皇帝

勢力図
明清交替の勢力図で見る
1620–1627年の地図に、天啓帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・皇后1・改元1・大赦3
- 改元1620年10月1日元号を「天啓」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1620年10月1日即位に伴う大赦。
- 皇后1621年皇后張氏(張皇后、後の懿安皇后)の冊立。
- 反乱1621年奢崇明の乱(永寧宣撫使の反乱、後に安邦彦の乱と合流)
- 反乱1622年安邦彦の乱(水西土司の反乱、「奢安の乱」の一角)
- 反乱1622年徐鴻儒の乱(山東白蓮教徒の反乱)
- 反乱1622年于弘志の乱(武邑の反乱)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1623年皇子誕生に伴う大赦(天啟三年閏十月壬寅)。
- 反乱1624年吳野樵の乱(長興の反乱、知県殺害)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1625年皇子誕生に伴う大赦(天啟五年十月庚子)。
明の歴代皇帝
歴代16人の一覧- 第1代洪武帝朱元璋1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年1457–1464年(復位)病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1566年病死
- 第13代隆慶帝1566–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自害
年表
明・
明が