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天啓帝の肖像画

明第16代

天啓帝朱由校

在位 1620–1627年(6年364日)1620年10月1日 〜 1627年9月30日

日本は江戸時代

の魏忠賢と乳母の客氏に宮中を任せ、東林党の官僚の獄死を許した明の皇帝である。

天啓帝の人物データ

生年
1605年
在位
  • 1620年10月1日〜1627年9月30日
6年364日長い順同率157位/365人16歳で即位(数え年)
没年
1627年9月30日23歳(数え年)長生き順同率216位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
次代
呼び名
姓朱諱由校廟号熹宗諡号悊皇帝元号天啓呼び名の見方

出典

在位
明史 本紀第二十二 熹宗
死因
明史 本紀二十二(熹宗)
即位経路
明史 本紀二十二(熹宗)

生涯

即位まで

泰昌帝の長子で、母は選侍王氏であり、万暦帝の長孫として生まれた。母は父の即位の前年に没した。1620年に父が没すると、李選侍が乾清宮に居座ったため、左光斗らが明け渡しを求め、選侍が移ったあとに天啓帝は即位した。即位すると、選侍が生母を凌虐したとに述べ、朕と選侍は仇があると言った。

治世と最期

即位するとすぐ魏忠賢の兄に官を与え、乳母の客氏をに封じた。の孫承宗の講義を聞くたびに心が開けると言い、1621年に廷臣が承宗を兵部に推してもから離さなかった。同じ年の大婚で客氏を宮外へ出すよう求められると、皇后は幼く乳母の保護が要ると言って決めるのを延ばした。張皇后は客氏と魏忠賢の過失を言い、1623年に身ごもると、二人はを入れ替えて子を損なわせた。あるとき、読んでいた書を問われた皇后が趙高伝ですと答えると、帝は黙った。

1624年に楊漣が魏忠賢の大罪24か条を弾劾したが、帝は容れず、翌日楊漣を厳しく責めた。1625年には楊漣と左光斗らが捕らえられて獄死し、全国の東林書院が壊された。帝は大工仕事を何年も好み、その最中に奏事されると、お前たちでうまくやれと言い、忠賢がをふるった。

1627年、病が重くなっても群臣に魏忠賢は忠貞だと語り、弟の信王を召して後を託し、乾清宮で没した。

史料について

楊漣の弾劾のいきさつを、魏忠賢伝は泣いて訴える忠賢を帝が見分けられずに慰留したとし、楊漣伝は旨を魏広微が起草したとし、王体乾伝は体乾が疏の要の語を読み飛ばしたと書く。木工の話は明史では魏忠賢伝にしか無い。西苑で舟が覆って落水した話を、明史紀事本末は1625年に置き、先撥志始は1626年に置いてこれで病になったとするが、明史と、の該当の年月には無い。明史紀事本末は、信王を堯舜のような君主となれと諭したと書く。明史の賛は、帝が凡庸で気が弱く、女と宦官に権を盗まれ忠良な臣が禍いに遭ったと評する。

天啓帝とつながる皇帝

明清交替の勢力図(1620年)

勢力図

明清交替の勢力図で見る

1620–1627年の地図に、天啓帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱5・皇后1・改元1・大赦3
  1. 改元1620年10月1日元号を「天啓」とする
  2. 1620年10月1日即位に伴う大赦。
  3. 皇后1621年皇后張氏(張皇后、後の懿安皇后)の冊立。
  4. 反乱1621年奢崇明の乱(永寧宣撫使の反乱、後に安邦彦の乱と合流)
  5. 反乱1622年安邦彦の乱(水西土司の反乱、「奢安の乱」の一角)
  6. 反乱1622年徐鴻儒の乱(山東白蓮教徒の反乱)
  7. 反乱1622年于弘志の乱(武邑の反乱)
  8. 1623年皇子誕生に伴う大赦(天啟三年閏十月壬寅)。
  9. 反乱1624年吳野樵の乱(長興の反乱、知県殺害)
  10. 1625年皇子誕生に伴う大赦(天啟五年十月庚子)。

明の歴代皇帝

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