建文帝の人物データ
- 生年
- 1377年
- 在位
- 1398年6月30日〜1402年7月13日
- 没年
- 不詳
- 死因
- 諸説あり死因について史書の記述が食い違い、一つに絞れない。同じ死因17人/365人
- 呼び名
- 姓朱諱允炆廟号恵宗諡号恭閔恵皇帝元号建文呼び名の見方
出典
- 在位
- 明史 本紀第四 恭閔帝
- 死因
- 明史 本紀第四(恭閔帝)
- 即位経路
- 明史 本紀第四(恭閔帝)
生涯
即位まで
洪武帝の孫で、懿文太子の第二子である。生まれつき聡明で学問を好み、父の病を昼も夜もそばを離れずに看た。父が没したあと、1392年に皇太孫位を継ぐ者と定められた皇帝の孫に立てられた。洪武帝に請うて、重すぎる律の73条を改めさせた。皇太孫のころ、黄子澄に、重兵を持ち法を守らない叔父の諸王王に取り立てられた皇族たちをどうすべきかと問うた。1398年に洪武帝が没すると即位し、翌年を建文元年とした。
治世と最期
即位するとすぐ斉泰と黄子澄を政治に加え、方孝孺を翰林院学者を集め、文書や学問を担った役所に招いた。寛大な政治を行うよう詔し、罪ある者を赦して未納の賦を免じた。即位の年から叔父の周王らが次々に庶人官位や身分を持たない、ふつうの民に落とされ、湘王は自焚して死んだ。帝は燕王の上書君主に意見を書いて差し出すことを読んで心を痛め、燕を削れば天下にどう申し開きするのかとためらって襲撃は取りやめたが、斉泰と黄子澄の謀で燕の兵力を削る配置は進められた。
1399年、北平の燕王朱棣が兵を挙げた。李景隆が大敗を重ねても、帝は召還して赦し、黄子澄が泣いて罰するよう請うても聞かなかった。1401年、燕王が罷兵を求める書を送ると、帝はこれを許さず、使者の武勝は獄に下された。
1402年、燕兵を恐れさせた徐輝祖を、燕兵はもう北へ去ったという噂を聞いて召還し、続く霊璧の戦いで大敗した。燕王の軍が南京に迫ると谷王と李景隆が金川門を開き、宮中に火が上がって、建文帝の行方は分からなくなった。
史料について
武勝の件は書によって違い、方孝孺伝・明史紀事本末・明太宗実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録は帝が罷兵に傾いたが孝孺に止められたとし、方孝孺伝は武勝を誅したとし、実録は孝孺が命を偽って武勝を獄に下させたとする。最期を、明史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は燕王が火の中から帝と后の遺体とされるものを出させたと書くとともに、地下道から逃れたという説を併せて記す。明太宗実録は帝が宮を閉ざして自ら焼け死んだとし、胡濙伝は逃れたと言う者もいたので永楽帝が行方を探らせたと記す。明史紀事本末は実録を曲筆事実を曲げて書くこととして退け、出亡説を採る。明史の賛は、帝が学を好み、諫めを受けると深く自らを責め、重い賦を減らしたことなどを評価する。
建文帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱2・皇后1・改元1・大赦1
- 改元1398年6月30日元号を「建文」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1398年6月30日
- 反乱1399年8月〜1402年7月靖難の役(燕王棣の挙兵)
- 皇后日付不詳皇后を立てる
- 反乱日付不詳麓川刀干孟の乱
明の歴代皇帝
歴代16人の一覧- 第1代洪武帝朱元璋1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年1457–1464年(復位)病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1566年病死
- 第13代隆慶帝1566–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自害
年表
明・
明が
