永楽帝の人物データ
- 生年
- 1360年
- 在位
- 1402年7月17日〜1424年8月12日
- 没年
- 1424年8月12日65歳(数え年)長生き順同率24位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
出典
- 在位
- 明史 本紀第六・
第七 成祖二・ 成祖三 - 死因
- 明史 本紀第七(成祖三)
- 即位経路
- 明史 本紀第五・
第六(成祖一・ 二)
生涯
どんな皇帝か
明史の賛は、倹約や災害への素早い救い、人を見抜く力を称えながら、建文の年号を消し去ったころの道に外れた行いは覆い隠せないとする。
即位まで
太祖の四男で、1370年に燕王に封じられ、1380年に北平へ赴いた。堂々とした容貌に見事な髭をたくわえ、知恵と勇気を備え、誠意をもって人に任せた。太祖の死後、建文帝が諸王王に取り立てられた皇族たちを次々に廃すると、身の危険を感じて狂ったふりをし、病と称した。1399年、北平の役人を殺して九門を奪い、斉泰・黄子澄を奸臣として兵を挙げた。1402年に都の南京が落ちると、宮中に火が起こり、建文帝は行方が知れなくなった。燕王は即位し、斉泰・黄子澄・方孝孺を殺してその一族を滅ぼした。即位の詔を求められた方孝孺が、建文帝の居所や、なぜその子や弟を立てないのかを問うと、自ら焼け死んだ、これは自分の家の事だと答え、筆を投げ捨てられると怒って磔にさせた。方孝孺に連座罪人の家族や関係者まで一緒に罰せられることして、一族や親友が数百人殺された。
史料について
建文帝の行方は恭閔帝本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分による。同じ本紀は、火の中から帝と后の遺体を出して葬ったと書き、地下道から逃れたという説も並べる。成祖本紀は、建文帝を葬ったとだけ記す。十族が誅されたという言い方は、明史に無い。
治世と最期
即位後も、逆らう臣には厳しかった。帰順して官に留まった旧臣の景清が刃を懐に入朝し、旧主の仇を討ちたかったと答えると、磔にして一族を誅し、連座は郷里にまで広がった。解縉は1410年に漢王の訴えで獄に入れられた。1415年、名簿を見た永楽帝がまだ生きているのかと言うと、紀綱が雪の中に埋めて殺した。
皇后の徐氏は徐達の娘で、挙兵のときは北平で将校や民の妻たちに鎧を着せて城を守らせた。民を休ませよという進言は聞き入れたが、弟の徐増寿に爵位を贈ることに反対されても聞かず、皇后の死後は皇后を立てなかった。自分に似ていると見ていた次男の高煦ではなく長男(仁宗)を皇太子に立て、のちに不法を重ねた高煦を庶人官位や身分を持たない、ふつうの民に落とそうとしたときは、仁宗が泣いて救った。
外に向けては鄭和を西洋へ遣わし、都を北京へ移して、自らモンゴルへ5度出兵した。1405年に鄭和らを西洋へ遣わしたのは、建文帝が海外に逃れたかと疑ってその足取りを追い、あわせて国威を示すためだった。親征君主が自ら軍を率いて戦いに出ることでは、1410年に本雅失里と阿魯台を、1414年に瓦剌の馬哈木を破った。1420年、北京を都とすることを天下に布告した。1424年の親征は敵を見ずに引き返し、帰りに榆木川で危篤となって没した。軍が外にあったため喪は伏せられ、錫を溶かして作った棺に納めて帰路についた。
永楽帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱10・遷都1・親征5・皇后1・改元1・大赦2
- 改元1402年8月元号を「永楽」とする
- 皇后1402年12月皇后を立てる
- 反乱1403年柳州山賊の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1407年天下の殊死以下を赦した。
- 反乱1407年潯柳蛮の乱
- 反乱1408–1409年簡定の乱(交阯反乱)
- 反乱1409–1414年陳季擴の乱(交阯反乱)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1410年韃靼(本雅失里・
阿魯台) - 反乱1410年哈剌馬牙の乱(粛州衛反乱)
- 反乱1413–1414年思州・
靖州苗の乱 - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1414年瓦剌(オイラト、馬哈木)
- 反乱1415年広西蛮の乱
- 反乱1418年黎利の乱(交阯反乱)
- 反乱1420年唐賽児の乱(山東反乱)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1421年
- 遷都1421年南京(応天府) → 北京(順天府)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1422年韃靼(阿魯台)
- 反乱1422年柳州蛮の乱(再発)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1423年韃靼(阿魯台)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1424年4月〜1424年8月韃靼(阿魯台)
明の歴代皇帝
歴代16人の一覧- 第1代洪武帝朱元璋1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年1457–1464年(復位)病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1566年病死
- 第13代隆慶帝1566–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自害
年表
明・
明が
