太祖・洪武帝
明|在位 1368–1398年

- 諱(本名)
- 朱元璋
- 廟号
- 太祖
- 在位
- 1368–1398年
- 在位期間
- 30年160日365名中24位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 41歳(数え年)172名中・若い順140位タイ
- 没年齢
- 71歳(数え年)269名中・長寿順9位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 35回225名中3位
- 被反乱
- 35回289名中5位
- 遷都
- 0回
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
群雄割拠を制して元を北へ逐い、洪武元年正月に皇帝即位・建国。
出典: 明史 本紀第一・第二(太祖一・二)
死因の経緯
洪武31年閏5月、病篤化により崩御。「閏月癸未,帝疾大漸。乙酉,崩于西宮,年七十有一」。遺詔あり、皇太孫允炆への継承を指示。
出典: 明史 本紀第三(太祖三)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
明史本紀(卷一〜卷三)を通読し「建元」「改元」の語を確認した。太祖が自ら年号を建てたのは即位時の「洪武」のみで、以後崩御(洪武三十一年閏五月)まで改元の記載はない。卷一に見える「龍鳳」(劉福通が擁立した韓林児の年号。至正十五年に『乃用其年号以令軍中』とあり自軍の紀年に借用)や「呉元年」(至正二十七年、丙午の翌年を『以明年為呉元年』とした呼称)は、いずれも太祖自身が制定した独自の年号(正式な『年号』)ではなく、他者の年号の借用または単なる紀年上の呼称に過ぎないため、改元回数にはカウントしていない。
大赦回数
卷一〜卷三で『赦』字を含む全記述を確認した。『大赦』『大赦天下』と明記された3件のみを全国規模の大赦としてカウントした。除外した事例:卷一・至正十九年三月甲午『赦大逆以下』(『天下』の語なく罪状限定的表現)、至正二十七年七月己丑『赦罪囚』(『大赦』の語なし、単なる囚人赦免)、卷二・洪武元年八月己卯『赦殊死以下』(『天下』の語を欠き、大赦の明言もない)、卷三・洪武二十六年九月『赦胡惟庸、蓝玉余党』(胡惟庸・藍玉党類という対象限定の恩赦)。これらはいずれも本紀の文言上「大赦天下」等の全国規模明記を欠く、または対象・罪状が限定されているため除外した。
立后回数
卷一〜卷三で『皇后』の語を含む記述を確認。冊立記事は洪武元年正月の即位当日のもの1件のみで、以後崩御まで再冊立の記載はない。馬皇后(高皇后・孝慈皇后)は洪武十五年八月丙戌に崩御(『皇后崩』)、同年九月庚午に孝陵へ埋葬(『葬孝慈皇后于孝陵』)されたが、その後太祖崩御(洪武三十一年閏五月)までの間、新たな皇后冊立の記載は本紀に見当たらない。
皇太子廃立回数
卷一〜卷三で『皇太子』『太子』『皇太孙』の語を含む記述をすべて確認したが、皇太子を廃した(廃立)とする記載は見当たらない。皇太子標は洪武元年正月乙亥に立てられ(『世子標為皇太子』)、洪武二十五年四月丙子に薨去(原文:『皇太子標薨』)。これは病没であり廃立ではない。同年九月庚寅に『立皇孫允炆為皇太孫』とあるが、これは皇太子標の死去を受けた新たな継承者の冊立であって、既存の皇太子を廃したものではないため、廃立回数にはカウントしない。
親征回数
明史本紀(巻一〜三)を通読し、「帝自将」「太祖自将」「帝親征」「亲督」等、本人が親征したことを示す語を検索した。該当用例(例:巻一・十八年「太祖自将往擊之」〔婺州〕、二十年「太祖自将舟師征陳友諒」、二十三年「太祖自将救安豐」「太祖自将救洪都」、二十四年「復自将征武昌」、二十六年「太祖自将救之」〔江陰〕等)はいずれも洪武元年正月の即位以前(呉国公・呉王時代)の記述であり、規則5に基づきaccessionRouteの領域として扱いpersonalCampaignCountには含めない。洪武元年(1368年)即位以降、崩御(洪武三十一年閏五月)までの本紀を通読したが、皇帝本人が親征したことを示す記述は一件も見当たらなかった。北元・瓦剌への北伐、雲南平定、西南諸蛮の鎮圧はいずれも徐達・常遇春・李文忠・馮勝・藍玉・傅友德・沐英ら将軍が代理で出征し、太祖自身は終始南京(応天)に留まった。よってcount=0とする。
反乱鎮圧回数
明史本紀(巻二〜三)を通読し、洪武元年(1368年)即位後に発生した「叛」「反」「作乱」「軍乱」「賊」「盗」等の国内蜂起(対元・北元残党〔扩廓帖木児・納哈出・也速迭児等〕との対外戦争、倭寇、朝鮮出兵は除外)を悉皆抽出した。西南・湖広・貴州等の少数民族(蛮)の蜂起が大半を占め、同一指導者による断続的な反乱(麓川思倫發・刀干孟、越州蛮阿資、五開蛮×3回等)は史料の記述単位に従い一部を統合して1件として計上した。胡惟庸謀反(洪武十三年)・藍玉謀反(洪武二十六年)は「謀反…坐誅」等、軍事衝突を伴わない粛清の記述のみで挙兵・交戦の記載がないため、規則3-(4)の兵力を伴うクーデターには該当しないと判断し、鎮圧・被反乱いずれにも計上していない。洮州十八族番(第一次・第二次)・陽春蛮・思州蛮の4件は「平」等の明示的な鎮圧確認の語を欠くため個別にconfidence上の留保があるが、以降の本紀に紛争継続の記載がないことから鎮圧成功と推定して計上した(このため全体のconfidenceをmediumとした)。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の反乱群を被反乱側(皇帝側)から集計したもの。全35件はいずれも太祖在位中(洪武元年〜三十一年)に鎮圧・服属回帰により終息しており、崩御時点で未鎮圧のまま残存した反乱はない(例外(2)未鎮圧のまま在位終了には該当せず)。胡惟庸事件・藍玉事件は軍事衝突を伴わない粛清と判断し計上外。北元・瓦剌等モンゴル系残存勢力との戦争は対等な独立外国勢力として除外。詳細な出典・判断根拠はrebellionSuppressionCount.eventsと同一のため参照されたい。
遷都回数
明史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(南京→北京の遷都は永楽帝の代の出来事として計上済み。洪武帝期の鳳陽「中都」構想は未完成のまま放棄され実行されず)。
即位時年齢・没年齢
崩御記事に「閏月癸未,帝疾大漸。乙酉,崩于西宮,年七十有一」とあり、没年齢71歳(数え年)は原文に直接明記。生年は明記されていないが、崩御年(洪武三十一年=1398年)から逆算すると1328年生まれとなり、この生年は本紀中の別の年齢記述(至正四年〔1344年〕条「太祖時年十七」=1344-17+1=1328)とも整合する。至正十二年〔1352年〕条「太祖時年二十四」は1352-24+1=1329となり1年のずれがあるが、数え年計算上の軽微な不整合と判断し、複数箇所で1328年に収束することを重視した。即位時年齢は即位日(洪武元年正月乙亥=reignsのstartDate 1368-01-23と一致)を基準に、1368-1328+1=41歳(数え年)と算出した。
在位中の出来事(75件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1368年1月洪武元年正月乙亥、南郊で天地を祀り即皇帝位。
洪武元年正月乙亥、南郊で天地を祀り即皇帝位。原文:『定有天下之号曰明,建元洪武』。即位に伴う最初の建元。在位中これ以外の改元記載はない。
立后1368年1月洪武元年正月乙亥、即位と同日に馬氏を皇后に冊立。
洪武元年正月乙亥、即位と同日に馬氏を皇后に冊立。原文:『立妃馬氏為皇后,世子標為皇太子。』馬氏はのちの高皇后・孝慈皇后。
反乱鎮圧1369年5月〜1369年8月庆阳張良臣の反乱
首謀者: 張良臣(元降将、明に降ってのち再叛)
結果: 徐達が庆阳を攻略し張良臣を斬殺、陝西平定(鎮圧成功)
巻二・洪武二年五月「張良臣以庆阳降,寻叛」、八月「徐達克庆阳,斩張良臣,陝西平」。
被反乱1369年5月〜1369年8月庆阳張良臣の反乱
首謀者: 張良臣(元降将、明に降ってのち再叛)
結果: 徐達が庆阳を攻略し張良臣を斬殺、陝西平定(鎮圧された)
巻二・洪武二年五月「張良臣以庆阳降,寻叛」、八月「徐達克庆阳,斩張良臣,陝西平」。
反乱鎮圧1370年5月〜1370年10月慈利土官覃垕の乱
首謀者: 覃垕(慈利土官)
結果: 周德興の討伐を受け敗走(垕遁)、鎮圧成功とみなす
巻二・洪武三年五月「慈利土官覃垕作乱」、十月「周德興为征南将軍,討覃垕,垕遁」。以降再叛の記載なし。
被反乱1370年5月〜1370年10月慈利土官覃垕の乱
首謀者: 覃垕(慈利土官)
結果: 周德興の討伐を受け敗走(垕遁)、鎮圧された
巻二・洪武三年五月「慈利土官覃垕作乱」、十月「周德興为征南将軍,討覃垕,垕遁」。
反乱鎮圧1377年11月威茂蛮の反乱
首謀者: 威茂蛮
結果: 丁玉により平定(討平之)
巻二・洪武十年「威茂蛮叛,御史大夫丁玉为平羌将軍,討平之」。
被反乱1377年11月威茂蛮の反乱
首謀者: 威茂蛮
結果: 丁玉により平定された(討平之)
巻二・洪武十年「威茂蛮叛,御史大夫丁玉为平羌将軍,討平之」。
反乱鎮圧1378年6月〜1378年11月五開蛮の反乱(第一次)
首謀者: 五開蛮
結果: 討伐軍により平定(五開蛮平)
巻二・洪武十一年六月己巳「五開蛮叛,殺靖州指揮過興」、十一月「五開蛮平」。
被反乱1378年6月〜1378年11月五開蛮の反乱(第一次)
首謀者: 五開蛮
結果: 討伐軍により平定された(五開蛮平)
巻二・洪武十一年六月己巳「五開蛮叛,殺靖州指揮過興」、十一月「五開蛮平」。
反乱鎮圧1379年1月洮州十八族番の反乱(第一次)
首謀者: 洮州十八族番
結果: 沐英が討伐(以降記載なく鎮圧成功と推定)
巻二・洪武十二年正月「洮州十八族番叛,命沐英移兵討之」。明示的な「平」の語を欠くため確度中。
反乱鎮圧1379年1月松州蛮の反乱
首謀者: 松州蛮
結果: 丁玉により平定(丁玉平松州蛮)
巻二・洪武十二年正月「丁玉平松州蛮」。
被反乱1379年1月洮州十八族番の反乱(第一次)
首謀者: 洮州十八族番
結果: 沐英が討伐(以降記載なく鎮圧成功と推定)
巻二・洪武十二年正月「洮州十八族番叛,命沐英移兵討之」。
被反乱1379年1月松州蛮の反乱
首謀者: 松州蛮
結果: 丁玉により平定された(丁玉平松州蛮)
巻二・洪武十二年正月「丁玉平松州蛮」。
反乱鎮圧1379年7月眉県賊の反乱
首謀者: 眉県賊
結果: 丁玉により平定(討平之)
巻二・洪武十二年七月「丁玉回師討眉県賊,平之」。
被反乱1379年7月眉県賊の反乱
首謀者: 眉県賊
結果: 丁玉により平定された(討平之)
巻二・洪武十二年七月「丁玉回師討眉県賊,平之」。
大赦1380年5月洪武十三年五月乙未、大赦。
洪武十三年五月乙未、大赦。原文:『五月甲午,雷震謹身殿。乙未,大赦。丙申,釈在京及臨濠屯田輸作者。』雷震という異変の翌日に発令。
反乱鎮圧1380年12月陽春蛮の反乱
首謀者: 陽春蛮
結果: 趙庸が討伐(以降記載なく鎮圧成功と推定)
巻二・洪武十三年十一月「南雄侯趙庸鎮広東,討陽春蛮」。明示的な「平」の語なし。
被反乱1380年12月陽春蛮の反乱
首謀者: 陽春蛮
結果: 趙庸が討伐(以降記載なく鎮圧成功と推定)
巻二・洪武十三年十一月「南雄侯趙庸鎮広東,討陽春蛮」。
大赦1381年3月洪武十四年三月丙戌、大赦。
洪武十四年三月丙戌、大赦。原文:『三月丙戌,大赦。辛丑,頒《五経》、《四書》於北方学校。』
反乱鎮圧1381年5月五渓蛮の反乱
首謀者: 五渓蛮
結果: 周德興により平定(討平之)
巻二・洪武十四年五月「五渓蛮叛,江夏侯周德興討平之」。
被反乱1381年5月五渓蛮の反乱
首謀者: 五渓蛮
結果: 周德興により平定された(討平之)
巻二・洪武十四年五月「五渓蛮叛,江夏侯周德興討平之」。
反乱鎮圧1381年10月浙東山賊の反乱
首謀者: 浙東山賊
結果: 唐勝宗により平定(討平之)
巻二・洪武十四年十月己卯「延安侯唐勝宗帥師討浙東山寇,平之」。
被反乱1381年10月浙東山賊の反乱
首謀者: 浙東山賊
結果: 唐勝宗により平定された(討平之)
巻二・洪武十四年十月己卯「延安侯唐勝宗帥師討浙東山寇,平之」。
反乱鎮圧1381年11月広州海賊の反乱
首謀者: 広州海賊
結果: 趙庸により撃破(大破之)
巻二・洪武十四年十一月庚戌「趙庸討広州海寇,大破之」。「倭」の語を伴わず国内海賊として計上。
被反乱1381年11月広州海賊の反乱
首謀者: 広州海賊
結果: 趙庸により撃破された(大破之)
巻二・洪武十四年十一月庚戌「趙庸討広州海寇,大破之」。
反乱鎮圧1383年9月龍泉山賊の反乱
首謀者: 龍泉山賊
結果: 鄧鎮により平定(討平之)
巻二・洪武十六年九月癸亥「申国公鄧鎮为征南将軍,討龍泉山寇,平之」。
被反乱1383年9月龍泉山賊の反乱
首謀者: 龍泉山賊
結果: 鄧鎮により平定された(討平之)
巻二・洪武十六年九月癸亥「申国公鄧鎮为征南将軍,討龍泉山寇,平之」。
大赦1384年3月洪武十七年三月甲子、大赦天下。
洪武十七年三月甲子、大赦天下。原文:『魏国公李文忠卒。甲子,大赦天下。』
反乱鎮圧1385年4月思州蛮の反乱
首謀者: 思州蛮
結果: 湯和・周德興が討伐(以降記載なく鎮圧成功と推定)
巻三・洪武十八年四月丙辰「思州蛮叛,湯和为征虜将軍,周德興为副将軍,帥師従楚王楨討之」。
被反乱1385年4月思州蛮の反乱
首謀者: 思州蛮
結果: 湯和・周德興が討伐(以降記載なく鎮圧成功と推定)
巻三・洪武十八年四月丙辰「思州蛮叛,湯和为征虜将軍,周德興为副将軍,帥師従楚王楨討之」。
反乱鎮圧1385年7月〜1385年10月五開蛮の反乱(第二次)
首謀者: 五開蛮
結果: 楚王楨・湯和により平定(討平五開蛮)
巻三・洪武十八年七月庚辰「五開蛮叛」、十月「楚王楨、信国公湯和討平五開蛮」。
被反乱1385年7月〜1385年10月五開蛮の反乱(第二次)
首謀者: 五開蛮
結果: 楚王楨・湯和により平定された(討平五開蛮)
巻三・洪武十八年七月庚辰「五開蛮叛」、十月「楚王楨、信国公湯和討平五開蛮」。
反乱鎮圧1385年12月〜1389年11月麓川思倫發の反乱(第一次)
首謀者: 思倫發(麓川平緬宣慰使)
結果: 当初都督馮誠が敗績するも、二十一年正月に甯正が撃破し、二十二年十一月に思倫發が入貢謝罪して麓川平定(服属回帰による終息、鎮圧成功)
巻三・洪武十八年十二月癸丑「麓川平緬宣慰使思倫發反,都督馮誠敗績」→二十一年正月辛巳「麓川蛮思倫發入寇馬龍他郎甸,都督甯正撃敗之」→二十二年十一月己卯「思倫發入貢謝罪,麓川平」。同一指導者による継続反乱として一件に統合。
被反乱1385年12月〜1389年11月麓川思倫發の反乱(第一次)
首謀者: 思倫發(麓川平緬宣慰使)
結果: 当初都督馮誠が敗績するも、最終的に思倫發が入貢謝罪して麓川平定(服属回帰)
巻三・洪武十八年十二月癸丑「麓川平緬宣慰使思倫發反,都督馮誠敗績」→二十一年正月「麓川蛮思倫發入寇馬龍他郎甸,都督甯正撃敗之」→二十二年十一月「思倫發入貢謝罪,麓川平」。
反乱鎮圧1388年6月〜1388年10月東川蛮の反乱
首謀者: 東川蛮
結果: 討伐軍により平定(東川蛮平)
巻三・洪武二十一年六月甲子「傅友德为征南将軍,沐英、陳桓为左右副将軍,帥師討東川叛蛮」、十月丁未「東川蛮平」。
被反乱1388年6月〜1388年10月東川蛮の反乱
首謀者: 東川蛮
結果: 討伐軍により平定された(東川蛮平)
巻三・洪武二十一年六月甲子「傅友德为征南将軍,沐英、陳桓为左右副将軍,帥師討東川叛蛮」、十月丁未「東川蛮平」。
反乱鎮圧1388年9月〜1395年1月越州蛮阿資の反乱
首謀者: 阿資(越州蛮)
結果: 断続的な反乱を繰り返したが、洪武二十八年正月に西平侯沐春が阿資を擒斬し越州平定(最終的に鎮圧成功)
巻三・洪武二十一年九月癸巳「越州蛮阿資叛」→二十二年正月「阿資降」→二十四年十二月辛巳「阿資復叛,都督僉事何福討降之」→二十七年十一月「阿資復叛,西平侯沐春撃敗之」→二十八年正月甲子「西平侯沐春擒斬阿資,越州平」。同一指導者の断続的反乱として一件に統合。
被反乱1388年9月〜1395年1月越州蛮阿資の反乱
首謀者: 阿資(越州蛮)
結果: 断続的な反乱の末、洪武二十八年正月に沐春が阿資を擒斬し越州平定(最終的に鎮圧された)
巻三・洪武二十一年九月「越州蛮阿資叛」→二十二年正月「阿資降」→二十四年十二月「阿資復叛」→二十七年十一月「阿資復叛」→二十八年正月「西平侯沐春擒斬阿資,越州平」。
反乱鎮圧1389年2月九渓蛮(夏得忠)の反乱
首謀者: 夏得忠(湖広千戸、九渓蛮と結ぶ)
結果: 靖寧侯葉升により平定、夏得忠伏誅
巻三・洪武二十二年二月癸亥「湖広千戸夏得忠結九渓蛮作乱,靖寧侯葉升討平之,得忠伏誅」。
被反乱1389年2月九渓蛮(夏得忠)の反乱
首謀者: 夏得忠(湖広千戸、九渓蛮と結ぶ)
結果: 靖寧侯葉升により平定され、夏得忠は伏誅
巻三・洪武二十二年二月癸亥「湖広千戸夏得忠結九渓蛮作乱,靖寧侯葉升討平之,得忠伏誅」。
反乱鎮圧1390年1月貴州蛮の反乱
首謀者: 貴州蛮
結果: 唐勝宗により平定(討平之)
巻三・洪武二十三年正月庚辰「貴州蛮叛,延安侯唐勝宗討平之」。
反乱鎮圧1390年1月贛州賊の反乱
首謀者: 贛州賊
結果: 胡海らにより平定(討平之)
巻三・洪武二十三年正月「贛州賊为乱,東川侯胡海充総兵官,普定侯陳桓、靖寧侯葉升为副将,討平之」。
被反乱1390年1月貴州蛮の反乱
首謀者: 貴州蛮
結果: 唐勝宗により平定された(討平之)
巻三・洪武二十三年正月庚辰「貴州蛮叛,延安侯唐勝宗討平之」。
被反乱1390年1月贛州賊の反乱
首謀者: 贛州賊
結果: 胡海らにより平定された(討平之)
巻三・洪武二十三年正月「贛州賊为乱,東川侯胡海充総兵官,普定侯陳桓、靖寧侯葉升为副将,討平之」。
反乱鎮圧1390年2月西番の反乱
首謀者: 西番
結果: 藍玉により平定(討平西番叛蛮)
巻三・洪武二十三年二月戊申「藍玉討平西番叛蛮」。
被反乱1390年2月西番の反乱
首謀者: 西番
結果: 藍玉により平定された(討平西番叛蛮)
巻三・洪武二十三年二月戊申「藍玉討平西番叛蛮」。
反乱鎮圧1390年4月施南・忠建蛮の反乱
首謀者: 施南・忠建蛮
結果: 藍玉により平定(平施南、忠建叛蛮)
巻三・洪武二十三年閏月丙子「藍玉平施南、忠建叛蛮」。
被反乱1390年4月施南・忠建蛮の反乱
首謀者: 施南・忠建蛮
結果: 藍玉により平定された(平施南、忠建叛蛮)
巻三・洪武二十三年閏月丙子「藍玉平施南、忠建叛蛮」。
反乱鎮圧1391年11月〜1392年2月五開蛮の反乱(第三次)
首謀者: 五開蛮
結果: 茅鼎により平定(討平之/都督茅鼎等平五開蛮)
巻三・洪武二十四年十一月甲午「五開蛮叛,都督僉事茅鼎討平之」、二十五年二月「都督茅鼎等平五開蛮」。
被反乱1391年11月〜1392年2月五開蛮の反乱(第三次)
首謀者: 五開蛮
結果: 茅鼎により平定された
巻三・洪武二十四年十一月甲午「五開蛮叛,都督僉事茅鼎討平之」、二十五年二月「都督茅鼎等平五開蛮」。
反乱鎮圧1392年1月都匀・畢節諸蛮の反乱
首謀者: 都匀・畢節諸蛮
結果: 何福により平定(討,平之)
巻三・洪武二十五年正月「何福討都匀、畢節諸蛮,平之」。
被反乱1392年1月都匀・畢節諸蛮の反乱
首謀者: 都匀・畢節諸蛮
結果: 何福により平定された(討,平之)
巻三・洪武二十五年正月「何福討都匀、畢節諸蛮,平之」。
反乱鎮圧1392年4月〜1392年11月建昌衛月魯帖木児の反乱
首謀者: 月魯帖木児(建昌衛指揮)
結果: 藍玉により擒殺、鎮圧成功
巻三・洪武二十五年四月癸丑「建昌衛指揮月魯帖木児叛,指揮魯毅敗之」→七月「瞿能敗月魯帖木児於双狼寨」→十一月甲午「藍玉擒月魯帖木児,誅之」。
被反乱1392年4月〜1392年11月建昌衛月魯帖木児の反乱
首謀者: 月魯帖木児(建昌衛指揮)
結果: 藍玉により擒殺され、鎮圧された
巻三・洪武二十五年四月「建昌衛指揮月魯帖木児叛,指揮魯毅敗之」→十一月「藍玉擒月魯帖木児,誅之」。
反乱鎮圧1394年8月〜1395年1月階・文軍乱
首謀者: 階州・文州の反乱軍
結果: 甯正により平定(階、文寇平)
巻三・洪武二十七年八月丙戌「階、文軍乱,都督甯正为平羌将軍討之」、二十八年正月丙午「階、文寇平」。
被反乱1394年8月〜1395年1月階・文軍乱
首謀者: 階州・文州の反乱軍
結果: 甯正により平定された(階、文寇平)
巻三・洪武二十七年八月丙戌「階、文軍乱,都督甯正为平羌将軍討之」、二十八年正月丙午「階、文寇平」。
反乱鎮圧1395年1月洮州叛番の反乱(第二次)
首謀者: 洮州叛番
結果: 甯正が秦王と共に討伐(以降記載なく鎮圧成功と推定)
巻三・洪武二十八年正月「甯正以兵従秦王樉征洮州叛番」。明示的な「平」の語なし。
被反乱1395年1月洮州叛番の反乱(第二次)
首謀者: 洮州叛番
結果: 甯正が秦王と共に討伐(以降記載なく鎮圧成功と推定)
巻三・洪武二十八年正月「甯正以兵従秦王樉征洮州叛番」。
反乱鎮圧1395年8月龍州趙宗壽の反乱
首謀者: 趙宗壽(龍州士官)
結果: 楊文の討伐を受け趙宗壽が罪に服し来朝(服属回帰による終息)
巻三・洪武二十八年八月丁卯「都督楊文为征南将軍…討龍州士官趙宗壽」、辛巳「趙宗壽伏罪来朝」。
反乱鎮圧1395年8月〜1395年11月奉議・南丹蛮の反乱
首謀者: 奉議・南丹蛮
結果: 楊文により平定(悉平)
巻三・洪武二十八年八月「楊文移兵討奉議、南丹叛蛮」、十一月乙亥「奉議、南丹蛮悉平」。
被反乱1395年8月龍州趙宗壽の反乱
首謀者: 趙宗壽(龍州士官)
結果: 楊文の討伐を受け趙宗壽が罪に服し来朝(服属回帰)
巻三・洪武二十八年八月「都督楊文为征南将軍…討龍州士官趙宗壽」、辛巳「趙宗壽伏罪来朝」。
被反乱1395年8月〜1395年11月奉議・南丹蛮の反乱
首謀者: 奉議・南丹蛮
結果: 楊文により平定された(悉平)
巻三・洪武二十八年八月「楊文移兵討奉議、南丹叛蛮」、十一月乙亥「奉議、南丹蛮悉平」。
反乱鎮圧1396年2月郴・桂蛮の反乱
首謀者: 郴・桂蛮
結果: 胡冕により平定(討,平之)
巻三・洪武二十九年二月癸卯「征虜前将軍胡冕討郴、桂蛮,平之」。
被反乱1396年2月郴・桂蛮の反乱
首謀者: 郴・桂蛮
結果: 胡冕により平定された(討,平之)
巻三・洪武二十九年二月癸卯「征虜前将軍胡冕討郴、桂蛮,平之」。
反乱鎮圧1397年1月〜1397年9月沔県盗(漢・沔)の反乱
首謀者: 沔県盗
結果: 耿炳文により平定(漢、沔寇平)
巻三・洪武三十年正月是月「沔県盗起,詔耿炳文討之」、八月「漢、沔寇平」。
被反乱1397年1月〜1397年9月沔県盗(漢・沔)の反乱
首謀者: 沔県盗
結果: 耿炳文により平定された(漢、沔寇平)
巻三・洪武三十年正月「沔県盗起,詔耿炳文討之」、八月「漢、沔寇平」。
反乱鎮圧1397年2月〜1397年4月水西蛮の反乱
首謀者: 水西蛮
結果: 顧成により平定(討平之/水西蛮平)
巻三・洪武三十年二月庚寅「水西蛮叛,都督僉事顧成为征南将軍,討平之」、四月「水西蛮平」。
被反乱1397年2月〜1397年4月水西蛮の反乱
首謀者: 水西蛮
結果: 顧成により平定された(水西蛮平)
巻三・洪武三十年二月庚寅「水西蛮叛,都督僉事顧成为征南将軍,討平之」、四月「水西蛮平」。
反乱鎮圧1397年3月〜1398年2月古州蛮の反乱
首謀者: 古州蛮
結果: 当初龍里千戸呉得らが戦死するも、最終的に楊文により平定(古州蛮平)
巻三・洪武三十年三月庚辰「古州蛮叛,龍里千戸呉得、鎮撫井孚戦死」、三十一年二月辛丑「古州蛮平,召楊文還」。
被反乱1397年3月〜1398年2月古州蛮の反乱
首謀者: 古州蛮
結果: 当初龍里千戸呉得らが戦死するも、最終的に楊文により平定された(古州蛮平)
巻三・洪武三十年三月庚辰「古州蛮叛,龍里千戸呉得、鎮撫井孚戦死」、三十一年二月辛丑「古州蛮平,召楊文還」。
反乱鎮圧1397年9月〜1398年5月麓川刀干孟の反乱(第二次)
首謀者: 刀干孟(麓川平緬土酋)
結果: 沐春により大敗し、鎮圧成功
巻三・洪武三十年九月戊辰「麓川平緬土酋刀干孟逐其宣慰使思倫發以叛」、三十一年五月丁未「沐春撃刀干孟,大敗之」。
被反乱1397年9月〜1398年5月麓川刀干孟の反乱(第二次)
首謀者: 刀干孟(麓川平緬土酋)
結果: 沐春により大敗させられ、鎮圧された
巻三・洪武三十年九月戊辰「麓川平緬土酋刀干孟逐其宣慰使思倫發以叛」、三十一年五月丁未「沐春撃刀干孟,大敗之」。
反乱鎮圧1398年2月麼些蛮の反乱
首謀者: 麼些蛮
結果: 徐凱により平定(討平麼些蛮)
巻三・洪武三十一年二月甲辰「都督僉事徐凱討平麼些蛮」。
被反乱1398年2月麼些蛮の反乱
首謀者: 麼些蛮
結果: 徐凱により平定された(討平麼些蛮)
巻三・洪武三十一年二月甲辰「都督僉事徐凱討平麼些蛮」。