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洪熙帝の肖像画

明第4代

洪熙帝朱高熾

在位 1424–1425年(264日)1424年9月7日 〜 1425年5月29日

日本は室町時代

弟たちに讒言されながら父の留守を守り、即位すると寛大な政治を行ったが翌年に没した明の皇帝である。

洪熙帝の人物データ

生年
1378年
在位
  • 1424年9月7日〜1425年5月29日
264日長い順301位/365人47歳で即位(数え年)
没年
1425年5月29日48歳(数え年)長生き順同率88位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
次代
呼び名
姓朱諱高熾廟号仁宗諡号昭皇帝元号洪熙呼び名の見方

出典

在位
明史 本紀第八 仁宗
死因
明史 本紀第八(仁宗)
即位経路
明史 本紀第八(仁宗)

生涯

即位まで

成祖の長子で、母は仁孝文皇后である。祖父の洪武帝に試され、軍民の利害に関わるだけを報告して文字の誤りは問わず、孫には君主の見識があると喜ばれた。靖難の役ではとして北平を守り、李景隆の大軍から城を守った。父は次子の高煦と三子の高燧を寵し、の黄儼は世子が朝廷と通じていると密告したが、世子が封を開けずに送った朝廷の書を見て、父は危うく子を殺すところだったと嘆いた。1404年に皇太子に立てられた。体が肥えて足を病み、孝陵で何度も足を踏み外すと、高煦が前の人がつまずけば後の人は気をつけると言い、の宣宗がさらに後の人も気をつけていますと応じた。父の怒りを買って何度も廃されかけたが、妃の張氏のおかげで免れた。1416年に高煦がに落とされかけたときは涙を流して救い、1420年には北京へ向かう途中で飢えた民を見て、税を取る暇などあるかと言い、官の粟を出させた。1423年に配下が高燧を立てようと謀ったときも、高燧は関わっていないと弁じた。1424年に父が楡木川で没し、により即位した。

史料について

孝陵の逸話は漢王高煦伝が年を書かずに載せる。

治世と最期

即位とともに大赦し、西洋などを罷めた。建文帝の諸臣の家族で奴とされた者を赦して民とした。1425年、山東などの民の食が乏しいと聞くと、民の窮を救うのは焚を救い溺を拯うようなものだと言い、夏税などを半ば免じる詔を遅らせなかった。

弋謙の直言に怒って言葉も顔色も厳しくしたが、罪を求める声は退け、楊士奇に諫められて弋謙を朝参から外すにとどめた。のちに直言が減ったのを見て、過ちを認める敕を出し、朝参を元に戻した。李時勉のには激怒して金瓜で打たせ、肋骨を折らせた。同じ1425年に病み、危篤の床でも李時勉に辱められたと怒り、その日のうちに欽安殿で没した。

史料について

建文帝の諸臣の家族の赦免を、明史紀事本末は方孝孺らを忠臣と語っていたからだとする。明史の賛は、用いた人と行った政の善は書き切れないほどで、天が年を貸せば文帝・景帝に並んだと評する。谷応泰は善政をたたえつつ、弋謙や李時勉の件を挙げて仁宗の失を問う。

洪熙帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱2・皇后1・改元1・大赦1
  1. 改元1424年9月7日元号を「洪熙」とする
  2. 1424年9月7日
  3. 皇后1424年10月29日皇后を立てる
  4. 反乱日付不詳広西叛蛮の乱
  5. 反乱日付不詳交阯・黎利の乱

明の歴代皇帝

歴代16人の一覧

年表

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