仁宗・洪熙帝
明|在位 1424–1425年

- 諱(本名)
- 朱高熾
- 在位
- 1424–1425年
- 在位期間
- 264日365名中308位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 47歳(数え年)172名中・若い順154位
- 没年齢
- 48歳(数え年)269名中・長寿順89位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
永楽2年に皇太子冊立(成祖の長子)、監国を長年務め、成祖崩御後、正規の手続きで即位。
出典: 明史 本紀第八(仁宗)
死因の経緯
「庚辰,帝不豫…辛巳,大漸,遺詔傳位皇太子。是日,崩於欽安殿,年四十有八」。急な発病から2日で崩御。房事による急死説は明史本紀・列伝いずれにも明記されておらず正史の範囲では確認できない後世の推測(野史由来)と判断。
出典: 明史 本紀第八(仁宗)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位約10ヶ月(永楽22年8月即位〜洪熙元年5月崩御)で、洪熙年号のみ。即位建元1回のみをカウントした。西暦換算日は未確定のためdateはnullとした。
大赦回数
「乙亥,赦兀良哈罪」は兀良哈(モンゴル部族)の罪に限定した特赦であり、全国規模の「大赦天下」ではないため対象外とした。太子時代の「擅赦罪人」との讒言は仁宗自身の在位中の大赦事跡ではないため除外。
立后回数
在位中の皇后冊立はこの1件のみ確認。廃后・再冊立の記載は無い。
皇太子廃立回数
永楽二十二年冬十月壬子に「立长子瞻基为皇太子」と立太子の記載はあるが、これは冊立であり廃立(廃止)には該当しない。仁宗の在位中に皇太子が廃された記載は本紀中に見当たらず、崩御後は皇太子瞻基(宣宗)がそのまま即位した。
親征回数
明史本紀第八(仁宗)在位期間(永楽22年8月〜洪熙元年5月、約10ヶ月)を通読。広西の叛蛮討伐は鎮遠侯顧興祖、交阯の黎利との戦闘は都指揮方政・陳忠、北辺巡邊は陽武侯薛禄と、いずれも将軍への派遣によるものであり、仁宗本人が「帝親征」「上親征」等の形で自ら軍を率いて出陣した記載は本紀中に見当たらない。皇太子時代(監国)に成祖の北征を留守で支えた記述はあるが、これは即位前・自身が皇帝でない時期の出来事のため対象外。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
交阯・黎利の乱(方政・陳忠らが黎利に敗退、伍雲・陳忠戦死)は仁宗在位中に鎮圧できないまま崩御しており、判定基準の例外(2)「未鎮圧のまま在位終了」に該当するためrebellionSuppressionCountには含めず、rebellionSufferedCountのみに計上した。
被反乱回数
同一の広西叛蛮の乱はrebellionSuppressionCountにも計上(両面計上)。交阯・黎利の乱は在位中に鎮圧未完了のため被反乱のみに計上(suffered=2 > suppression=1)。北辺のモンゴル系勢力(瓦剌・韃靼等)との衝突は本紀中に確認できず該当なし。
遷都回数
明史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(南京→北京の遷都は永楽帝の代の出来事として計上済み。洪武帝期の鳳陽「中都」構想は未完成のまま放棄され実行されず)。
即位時年齢・没年齢
没年齢は明史本紀第八(仁宗)に原文直接記載:「辛巳,大漸,遺詔傳位皇太子。是日,崩於欽安殿,年四十有八」(数え年48歳)。生年は明記なしのため逆算値:崩御年(洪熙元年=1425年)と没年齢48歳から、1425-48+1=1378年(洪武11年)と算出(月日不詳のため年精度)。即位時年齢も逆算値:即位年(永楽22年=1424年、reigns.startDate=1424-09-07)と算出生年1378年から、1424-1378+1=47歳(数え年)と算出。
在位中の出来事(6件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳永楽二十二年八月丁巳、成祖崩御を受けて即位。
永楽二十二年八月丁巳、成祖崩御を受けて即位。「丁巳,即皇帝位。大赦天下,以明年为洪熙元年」とあり、即位に伴い翌年を洪熙元年とする建元を布告。仁宗一代を通じ洪熙以外の年号への改元記載は無い。
立后日付不詳永楽二十二年冬十月己酉、「册妃张氏为皇后」と記載。
永楽二十二年冬十月己酉、「册妃张氏为皇后」と記載。妃であった張氏を皇后に正式冊立。
反乱鎮圧日付不詳広西叛蛮の乱
首謀者: 不詳(広西の少数民族反乱勢力、史料に個人名の記載なし)
結果: 鎮圧成功
「辛酉,鎮遠侯顧興祖充総兵官,討広西叛蛮」(永楽22年8月)で討伐を開始し、「丙寅,鎮遠侯顧興祖破平楽、潯州蛮」(同年12月)で平楽・潯州の蛮を撃破し鎮圧に成功した。明の直接統治下(広西)における少数民族の蜂起であり服属民の反乱として計上(皇帝本人の親征ではなく将軍〔顧興祖〕の派遣によるものだが、鎮圧の主体は皇帝側〔政権側〕であるため計上対象)。
被反乱日付不詳広西叛蛮の乱
首謀者: 不詳(広西の少数民族反乱勢力、史料に個人名の記載なし)
結果: 反乱側敗北(平楽・潯州の蛮が鎮遠侯顧興祖に撃破された)
「辛酉,鎮遠侯顧興祖充総兵官,討広西叛蛮」(永楽22年8月)、「丙寅,鎮遠侯顧興祖破平楽、潯州蛮」(同年12月)。明の直接統治下(広西)で発生した少数民族の蜂起であり服属民の反乱として計上。同一事件をrebellionSuppressionCountにも計上。
被反乱日付不詳交阯・黎利の乱
首謀者: 黎利
結果: 反乱側優勢のまま仁宗崩御、未鎮圧
「九月癸酉,交阯都指揮方政與黎利戦於茶籠州,敗績,指揮同知伍雲力戦死」「丁亥,黎利寇清化,都指揮同知陳忠戦死」。交阯(ベトナム北部)は永楽5年(1407年)以降、交阯布政使司として明の直接統治下に置かれた領域であり、黎利の蜂起は服属民の反乱として被反乱に計上する対象。仁宗の在位約10ヶ月の間、明側はいずれの戦闘でも敗退・戦死者を出しており鎮圧に成功した記載がなく、在位終了(崩御)までに鎮圧未完了のため、判定基準の例外(2)「未鎮圧のまま在位終了」に該当し、rebellionSuppressionCountには計上しない。反乱はその後宣宗(洪熙元年5月〜)の代に継続し、最終的に宣徳2年(1427年)の交阯放棄・黎朝独立に至る(この帰結は宣宗側の記録として別途扱うべき事案)。