
弟たちに讒言されながら父の留守を守り、即位すると寛大な政治を行ったが翌年に没した明の皇帝である。
洪熙帝の人物データ
- 生年
- 1378年
- 在位
- 1424年9月7日〜1425年5月29日
- 没年
- 1425年5月29日48歳(数え年)長生き順同率88位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓朱諱高熾廟号仁宗諡号昭皇帝元号洪熙呼び名の見方
出典
- 在位
- 明史 本紀第八 仁宗
- 死因
- 明史 本紀第八(仁宗)
- 即位経路
- 明史 本紀第八(仁宗)
生涯
即位まで
成祖の長子で、母は仁孝文皇后である。祖父の洪武帝に試され、軍民の利害に関わる章奏臣下が皇帝に差し出す意見書や報告書だけを報告して文字の誤りは問わず、孫には君主の見識があると喜ばれた。靖難の役では世子王や諸侯の跡継ぎとして北平を守り、李景隆の大軍から城を守った。父は次子の高煦と三子の高燧を寵し、宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の黄儼は世子が朝廷と通じていると密告したが、世子が封を開けずに送った朝廷の書を見て、父は危うく子を殺すところだったと嘆いた。1404年に皇太子に立てられた。体が肥えて足を病み、孝陵で何度も足を踏み外すと、高煦が前の人がつまずけば後の人は気をつけると言い、皇太孫位を継ぐ者と定められた皇帝の孫の宣宗がさらに後の人も気をつけていますと応じた。父の怒りを買って何度も廃されかけたが、妃の張氏のおかげで免れた。1416年に高煦が庶人官位や身分を持たない、ふつうの民に落とされかけたときは涙を流して救い、1420年には北京へ向かう途中で飢えた民を見て、税を取る暇などあるかと言い、官の粟を出させた。1423年に配下が高燧を立てようと謀ったときも、高燧は関わっていないと弁じた。1424年に父が楡木川で没し、遺詔皇帝が死に際に残した命令により即位した。
史料について
孝陵の逸話は漢王高煦伝が年を書かずに載せる。
治世と最期
即位とともに大赦し、西洋宝船明が海外へ使いを送った大型の船などを罷めた。建文帝の諸臣の家族で奴とされた者を赦して民とした。1425年、山東などの民の食が乏しいと聞くと、民の窮を救うのは焚を救い溺を拯うようなものだと言い、夏税などを半ば免じる詔を遅らせなかった。
弋謙の直言に怒って言葉も顔色も厳しくしたが、罪を求める声は退け、楊士奇に諫められて弋謙を朝参から外すにとどめた。のちに直言が減ったのを見て、過ちを認める敕を出し、朝参を元に戻した。李時勉の上疏皇帝に意見を書いて差し出すことには激怒して金瓜で打たせ、肋骨を折らせた。同じ1425年に病み、危篤の床でも李時勉に辱められたと怒り、その日のうちに欽安殿で没した。
史料について
建文帝の諸臣の家族の赦免を、明史紀事本末は方孝孺らを忠臣と語っていたからだとする。明史の賛は、用いた人と行った政の善は書き切れないほどで、天が年を貸せば文帝・景帝に並んだと評する。谷応泰は善政をたたえつつ、弋謙や李時勉の件を挙げて仁宗の失を問う。
洪熙帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱2・皇后1・改元1・大赦1
- 改元1424年9月7日元号を「洪熙」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1424年9月7日
- 皇后1424年10月29日皇后を立てる
- 反乱日付不詳広西叛蛮の乱
- 反乱日付不詳交阯・
黎利の乱
明の歴代皇帝
歴代16人の一覧- 第1代洪武帝朱元璋1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年1457–1464年(復位)病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1566年病死
- 第13代隆慶帝1566–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自害
年表
明・
明が