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宣徳帝の肖像画

明第5代

宣徳帝朱瞻基

在位 1425–1435年(9年218日)1425年6月27日 〜 1435年1月31日

日本は室町時代

祖父の永楽帝に目をかけられて育ち、叔父の漢王の挙兵を自ら平らげ、治平と称された明の皇帝である。

宣徳帝の人物データ

生年
1398年
在位
  • 1425年6月27日〜1435年1月31日
9年218日長い順136位/365人28歳で即位(数え年)
没年
1435年1月31日38歳(数え年)長生き順同率143位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
次代
呼び名
姓朱諱瞻基廟号宣宗諡号章皇帝元号宣徳呼び名の見方

出典

在位
明史 本紀第九 宣宗
死因
明史 本紀第九(宣宗)
即位経路
明史 本紀第九(宣宗)

生涯

即位まで

仁宗の長子で、母は張氏である。祖父の永楽帝に目をかけられ、1411年にとなり、以後は永楽帝のや征討に常に従った。祖父の命で武事を習って騎射を好み、説書役の戴綸がこれを諫めるを祖父に出し、祖父がそれを見せたので戴綸を怨んだ。仁宗が即位すると皇太子となり、1425年、仁宗の病で南京から呼び戻されて即位した。

治世と最期

即位の年にの買い付けを止めた。1426年に叔父の高煦が楽安で挙兵すると、楊栄らの勧めでし、高煦は城を出て降った。高煦と諸子は幽閉ののち相継いで皆死んだ。ベトナムでは黎利の反乱に敗れ続け、1427年に黎利を赦して吏士を引き揚げさせた。

1428年、胡皇后に位を辞させての孫氏を皇后とし、のちに悔いて若いころのことだと弁解した。1430年、陵に参った帰りに自ら鋤を三度押して疲れ、民は一年中働いているのだと侍臣に言った。1432年の初めには貪暴な宦官の袁琦らを処刑した。帝は政治に励み、楊士奇らが補佐して、天下は治平と号した。即位後にとした戴綸は、狩猟を諫めて交阯へ出され、のち怨望の罪で投獄され、帝の取り調べに抗弁して打ち殺された。遊猟や玩好に耽っていたころ、学問を勧めた陳祚に激怒し、陳循の取りなしで死は免じたが投獄し、家族も拘禁した。仁宗の命で打たれた李時勉を殺すつもりで呼び出したが、上疏の中身を聞くと赦した。

1435年の初めに乾清宮で没し、国の重務は皇太后に諮るようした。

史料について

高煦の死に方を、明史のと高煦伝は書かず、銅の甕をかぶせて焼き殺した話は明史紀事本末にある。宦官伝の序は、宣宗がを設けて宦官に学問を教えさせたことが、のちの王振や魏忠賢の専横につながったと評する。本紀の賛は、吏はその職にかない、政は平らかだったと讃え、谷応泰は、交阯を棄て、胡后を廃し、陳祚を獄につないだことを失とし、大いに純で小さな疵があると評する。

宣徳帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱15・親征3・皇后2・改元1・大赦2
  1. 改元1425年6月27日元号を「宣徳」とする
  2. 1425年6月27日即位に伴う大赦。
  3. 皇后1425年7月胡氏を皇后に冊立。
  4. 反乱1425年7月大藤峡蛮の反乱
  5. 反乱1425年9月安定曲先叛番の反乱(第1次)
  6. 反乱1425年12月思恩蛮の反乱(第1次)
  7. 1426年漢王朱高煦(山東・楽安における反乱、宗室藩王の挙兵)
  8. 反乱1426年宜山蛮の反乱(第1次)
  9. 反乱1426年漢王朱高煦の乱
  10. 反乱1426–1427年交阯(黎利)の反乱
  11. 1427年皇長子(後の英宗・朱祁鎮)誕生を祝しての大赦。
  12. 反乱1427–1428年松潘蛮の反乱(第1次)
  13. 皇后1428年胡氏を廃した上で孫貴妃(孫氏)を皇后に冊立。
  14. 1428年兀良哈(会州に侵寇したモンゴル系勢力。明に服属しない北方勢力として対等勢力に分類し反乱には含めない)
  15. 反乱1429年忻城蛮の反乱
  16. 反乱1429年柳・潯蛮の反乱
  17. 反乱1430年曲先叛番の反乱(第2次)
  18. 反乱1431年松潘蛮の反乱(第2次)
  19. 反乱1433年貴州烏羅蛮の反乱
  20. 反乱1433年宜山蛮の反乱(第2次)
  21. 1434年北辺巡視(瓦剌による阿魯台討滅を受けた辺境巡視、明確な交戦記録なし)
  22. 反乱1434年思恩叛蛮の反乱(第2次)
  23. 反乱1434年松潘叛蛮の反乱(第3次)

明の歴代皇帝

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