父の死後に幼くして位を継ぎ、1371年に明軍に攻められて降った夏の皇帝である。
明昇の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 1366年3月〜1371年8月3日
- 没年
- 不詳
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。
- 先代
- 明玉珍夏・
元 明昇は明玉珍の子
- 明玉珍夏・
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓明諱昇呼び名の見方
出典
- 在位
- 明史 本紀第二(太祖二)・
列伝第十一(明玉珍伝・ 明升) - 死因
- 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)
- 即位経路
- 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)
生涯
即位まで
夏の明玉珍の子で、父は1362年に重慶で皇帝を称して彼を太子に立てた。1366年に父が没すると十歳で位を継ぎ、開熙と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。母の彭氏が皇太后となり、幼い明昇とともに政を聴いた。
史料について
父の死を、明史と新元史の順帝本紀は1366年とし、同じ新元史の明玉珍伝は1365年とする。
治世と最期
即位の後、万勝が人を遣って不仲の張文炳を殺させ、玉珍の養子の明昭が彭氏の旨を偽って万勝を絞殺した。呉友仁が保寧で君側を清めると称して背くと、明昇は戴寿に討たせたが、友仁の求めで戴寿が明昭を誅すると友仁は入朝して謝り、以後は諸大臣が実権を握った。1367年、蜀から帰った呉の使者の蔡哲は、明昇は暗弱で臣下が権をほしいままにしていると報告した。1368年に明が元の都を落とすと明昇は書を奉じて祝賀したが、1369年に楊璟が帰順を諭すと、群議に牽かれて決められず、結局従わなかった。
1371年、朱元璋は、幼い明昇を憫れんで待ったが興元を犯されたので討つと諸将に諭し、蜀を伐たせた。夏軍は大敗し、母の彭氏は泣いて、早く降って民の命を活かすべきだと言った。明昇は使いを遣って降を請い、面縛し璧をくわえて、母や臣下とともに軍門に降った。朱元璋は、明昇は幼く事は臣下に由るとして、伏して罪を請う礼を免じ、帰義侯に封じた。
1372年、明昇は陳理とともに高麗へ移された。
史料について
万勝の死を、明史紀事本末は張文炳が明昭に万勝を殺させたとし、万勝が先に文炳を殺した段を書かない。高麗へ移した理由を、国初群雄事略が引く太祖実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録は2人の怨言とし、明史の陳友諒伝は怨望を陳理だけのものとする。高麗での明昇の死は、確かめた書には記されない。方孝孺の評は、明昇は年少でも徳性は純雅だったが、権臣権力を握って君主をしのぐ家臣が国命を握って制することができなかったとする。谷応泰の論は、侯に封じられ母子ともに身を全うしたと述べ、西川で僭号資格がないのに勝手に君主の称号や国号を名乗ることした時にはすでに寄生して久しかったと結ぶ。
明昇とつながる皇帝

勢力図
元末の勢力図で見る
1366–1370年の地図に、明昇が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・改元1
- 改元1366年3月元号を「開熙」とする
- 反乱日付不詳呉友仁の乱(清君側を名目とした挙兵)
夏・元の歴代皇帝
歴代2人の一覧- 第1代明玉珍1362–1366年病死
- 第2代明昇1366–1371年不詳
年表
元・
夏・