明昇
夏・元|在位 1366–1371年
- 諱(本名)
- 明昇
- 在位
- 1366–1371年
- 在位期間
- 5年90日365名中186位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 10歳(数え年)172名中・若い順27位タイ
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
「(玉珍)遂卒…子升嗣,改元開熙」。実子である明昇が父の死を受けて即位した典型的な父子継承。
出典: 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)
死因の経緯
明史・明史紀事本末とも、明への降伏後「帰義侯」を授かり京師に居を賜り、翌年高麗へ移送された記述で終わり、以後の死没に関する記載がない。死因・没年月日は確定できない。
出典: 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
父・明玉珍の死去(至正26年/天統4年、1366年)を受けて即位した明昇は、天統を継続せず「開熙」に改元したことが明史列伝・明史紀事本末の双方で明記されている。在位中(洪武4年/1371年の夏滅亡まで)他に改元の記載はなく、開熙が明昇代唯一の元号として続いたとみられる。
大赦回数
明史巻123(相対第11章・明玉珍伝附、明昇部分)を通読したが「大赦」「大赦天下」等の記載は見当たらなかった。洪武4年の投降後、明側が「有司宣制赦」(罪を赦す旨の宣告)を行った記事はあるが、これは明の太祖側による明昇個人への赦免措置であり、明昇自身が皇帝として発した全国規模の大赦ではないため対象外とした。明史紀事本末(元史紀事本末は元末群雄の該当節なし)でも同様に大赦の記載なし。
立后回数
明史巻123・明史紀事本末巻五を確認したが、明昇自身による立后の記載はない。父・明玉珍が即位時に妻彭氏を皇后に立てた記事(「立妻彭氏为皇后」)はあるが、これは明玉珍の治世の出来事であり明昇本人のものではない。明昇は即位時「甫十歳」と幼少であり、在位中(1366-1371、洪武4年降伏まで)も母・皇太后彭氏が「同聴政」した旨のみで、明昇自身の立后記事は存在しない。
皇太子廃立回数
明史巻123・明史紀事本末巻五を確認したが、明昇の在位中に皇太子(または皇太弟・皇太孫等)が立てられ、それが廃された記事は見当たらない。明昇自身が幼少のまま在位5年で夏が滅亡しており、後継者指名の記録はない。
親征回数
『明史』巻123(明玉珍伝附、明昇部分)を通読したが、明昇本人が自ら軍を率いて出征した(「帝親征」「升自将」等)記述は見当たらない。呉友仁討伐は戴寿を派遣(「升命戴寿討之」)、明軍侵攻時も重慶に留まり最終的に母・彭氏の勧めで降伏しており(「升面縛銜璧輿櫬…降於軍門」)、本人不出征。即位時「甫十歳」と幼少であったことも整合的。
反乱鎮圧回数
count=events.length=1。なお同時期に発生した「万勝と張文炳の対立→万勝暗殺→明昭による矯旨での万勝縊殺」は夏政権内の重臣同士(万勝 対 張文炳・明昭)の内紛であり、皇帝明昇自身の権威に対する反乱・クーデターとは言えないため、判定基準の例外4(朝廷内部の権力者による皇帝への弑逆・クーデター)には該当しないと判断し計上外とした。呉友仁が「清君側」を名目に挙兵した局面のみを反乱として計上している。元末群雄同士(朱元璋の明勢力による夏征服戦争、1371年の重慶・成都攻略)は判定基準4により対等勢力間の統一戦争として除外した。
被反乱回数
count=events.length=1。1371年の朱元璋配下(湯和・傅友徳ら)による夏征服・重慶陥落・明昇降伏は、判定基準4により元末群雄同士(朱元璋の明勢力 対 明玉珍/明昇の夏)の対等勢力間の統一戦争として扱い、被反乱には計上していない(また簒奪目的でもなくaccessionRouteとも無関係)。万勝暗殺に関わる内紛は皇帝本人への反乱ではないため計上外。
遷都回数
明史明玉珍伝を通読。建国時の重慶定都(対象外)から明玉珍死後の明昇期を含め、1371年の降伏まで重慶が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
明史列伝(巻123/相対第11・明玉珍伝附)に「子升嗣,改元開熙…升甫十歳」とあり、明史紀事本末巻五にも「子升嗣。升年始十歳,母彭氏同聴政,改元開熙」とある。天統4年2月(1366-03-17)の即位時に「ほぼ10歳」であったことが直接記載されている(正確な生年月日の記載はなし)。崩御年月日・崩御時年齢については、洪武5年(1372年)高麗へ移送された後の記録が明史・元史・新元史のいずれにも見当たらず不明。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1367年明史列伝(巻123/相対第十一章):「子升嗣,改元開熙,葬玉珍於江水之北,號永昌陵,廟號太祖。
明史列伝(巻123/相対第十一章):「子升嗣,改元開熙,葬玉珍於江水之北,號永昌陵,廟號太祖。尊母彭氏為皇太后,同聽政。升甫十歲」。父・明玉珍の元号「天統」(天統4年2月=1366-03-17に明昇即位)をそのまま継続せず、新元号「開熙」に改元した。明史紀事本末巻五にも同内容の記載あり(「子升嗣。升年始十歲,母彭氏同聽政,改元開熙」)。開熙元年は西暦1367年に相当するとみられるため年のみ特定。改元の月日までは原典に明記なし。国号「夏」自体は父の代に既に建てられており(本項目の対象外)、これとは別の元号切替である。
出典: 明史 巻123(列伝第十一・明玉珍伝附);明史紀事本末 巻五「太祖平夏」
反乱鎮圧日付不詳呉友仁の乱(清君側を名目とした挙兵)の鎮圧
首謀者: 呉友仁
結果: 明昇の命により戴寿が討伐に赴いたが、友仁の要求(明昭誅殺)を寿が受け入れる形で妥協が成立し、友仁は入朝して謝罪し表面上鎮圧された。ただし以後友仁は国政を専断し続け、実質的には夏政権の弱体化を招いた。
『明史』巻123「呉友仁自保寧移檄、以清君側為名。升命戴寿討之。友仁遺寿書謂:『不誅昭、則国必不安、衆必不服。昭朝誅、吾当夕至。』寿乃奏誅昭、友仁入朝謝罪」に基づく。皇帝(明昇)の命令による討伐だが、明昇本人が親征したわけではないためpersonalCampaignCountには計上せず、鎮圧回数のみに計上した。年月の明記はなく、文脈上は明昇即位(1366)後・洪武元年(1368)より前とみられる。呉友仁は夏政権内部の重臣であり、政権外部の対等勢力ではないため服属民の反乱として計上(判定基準5・7に該当する簒奪目的の挙兵ではなく、あくまで清君側名目の武力行動)。
被反乱日付不詳呉友仁の乱(清君側を名目とした挙兵)
首謀者: 呉友仁
結果: 呉友仁が保寧から檄を飛ばし「清君側」を名目に挙兵、明昇は戴寿を派遣して対応。最終的に友仁の要求(明昭誅殺)が呑まれる形で友仁は入朝謝罪したが、以後友仁が国政を専断し夏政権はさらに振るわなくなった。
『明史』巻123(明玉珍伝附)に基づく。呉友仁は明昇の重臣(保寧の将)であり、夏政権内部からの離反・反乱にあたるため服属民の反乱として計上。年月の明記はなく、文脈(万勝死去後・刘桢が右丞相就任前後、洪武元年1368より前)から明昇即位(1366)直後の出来事とみられる。