
土木の変でオイラトの捕虜となり、のちに奪門の変で位に返り咲いた明の皇帝である。
正統帝の人物データ
- 生年
- 1427年
- 在位
- 1度目1435年2月7日〜1449年9月22日
- 復位1457年2月11日〜1464年2月23日
- 没年
- 1464年2月23日38歳(数え年)長生き順同率143位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。のちに復位
- 呼び名
- 姓朱諱祁鎮廟号英宗諡号睿皇帝元号正統・
天順 呼び名の見方
出典
- 在位(1度目)
- 明史 本紀第十 英宗前紀
- 在位(2度目)
- 明史 本紀第十二 英宗後紀
- 死因
- 明史 本紀第十二(英宗後紀)
- 即位経路
- 明史 本紀第十二(英宗後紀)/明史紀事本末 巻三十五(南宮復辟)
生涯
即位まで
宣徳帝の長子で、生まれて間もなく皇太子に立てられた。1435年に父が没して即位し、大事は遺詔皇帝が死に際に残した命令により祖母の皇太后に諮ることになった。
史料について
明史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は母を貴妃皇帝の妃の中でも高い位の一つ孫氏とするが、后妃伝は孫氏が宮人宮中に仕え暮らした女性たちの子を取って自分の子としたとし、英宗の生母は結局誰も知らなかったと結ぶ。
治世と最期
東宮主に皇太子の住む宮殿、また皇太子その人のころから仕えた宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の王振が司礼監明で皇帝の文書を扱った、宮中の最有力の役所を掌り、英宗は彼を先生と呼んだ。1449年、オイラトのエセンが大同に攻め込むと親征君主が自ら軍を率いて戦いに出ることし、廷臣の諫めは聞き入れられなかった。引き返す途中の土木で包囲されて軍は潰え、英宗は捕らえられた。付き従ったのは校尉軍の部隊や護衛に就く武官の呼び名の袁彬だけで、寒さが厳しいと袁彬は脇腹で英宗の足を温めた。都では弟の郕王が即位して景泰帝となり、英宗は太上皇位を退いた(退かされた)前の皇帝の呼び名とされた。エセンは妹を差し出そうとしたが英宗は断り、エセンはますます敬服した。1450年、エセンと伯顔は別れの宴を開き、見送ったのち地に伏して泣き、英宗は帰京した。景泰帝は東安門で兄を迎え、英宗は南宮に入った。景泰帝はのちに英宗の子の皇太子を沂王に落とした。
1457年の明け方、石亨・徐有貞・曹吉祥らが南宮から英宗を連れ出し、英宗はその日のうちに奉天殿で即位した。その日に于謙は獄に下され、謀逆の罪とされると、英宗は功があるとためらったが徐有貞に説かれて処刑を決めた。景泰帝が没すると、その後宮の唐氏らを殉死させたが、李賢に諫められて廃后の汪氏は助けた。同じ年、土木で死んだ王振に祭葬を賜り、祠を立てた。のちに李賢に、奪門の語を後世に示せようかと言われて悟り、上奏に奪門の字を用いさせなかった。
1464年に病み、殉葬死者に従わせて人を死なせ、一緒に葬ることは古礼ではないとして宮妃の殉葬をやめさせ、没した。
史料について
親征を、明史の本紀は王直らの諫めを聞かなかったとし、王振伝と瓦剌伝は王振が英宗を引き連れて親征させたとする。本紀は捕囚を北狩皇帝が敵に捕らわれたことを狩りと言い替えた語と書く。英宗実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録は、捕らわれた英宗が大同の城下で、将は驕り兵は怠けていた、朕はそのせいで誤ったと言い、談笑して落ち着いていたと書く。于謙伝は、英宗がのちに処刑を悔いたとも書く。殉葬の停止を、明史本紀は遺詔とし、英宗実録は危篤の床での諭しとする。明史の賛は、大きな悪政は無かったとしつつ王振を思い続けたことを責め、殉葬の廃止は後世の手本になったと評する。
正統帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱20・親征1・皇后1・改元2・大赦8
- 改元1435年2月元号を「正統」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1435年2月
- 反乱1436年広西蒙顧十六洞賊の乱
- 反乱1438年4月〜1449年2月麓川の乱(思任発・
思機発父子) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1439年
- 反乱1439年貴州計砂叛苗の乱
- 反乱1439–1440年松潘祈命族叛番の乱
- 反乱1440年師宗叛蛮の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1441年
- 皇后1442年皇后を立てる
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1443年
- 反乱1445年慶遠叛蛮の乱
- 反乱1446年広西瑶の乱
- 反乱1448年広東瑶賊の乱
- 反乱1448年8月〜1449年2月福建鄧茂七の乱
- 反乱1448年11月〜1449年5月処州賊葉宗留の乱
- 反乱1449年4月湖広貴州苗賊の乱
- 反乱1449年6月靖州苗の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1449年7月
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。1449年8月4日〜1449年9月1日瓦剌(オイラト、也先)
- 改元1457年2月元号を「天順」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1457年2月
- 反乱1457年4月銅仁彭藕洞苗の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1457年8月
- 反乱1457年11月田州叛蛮の乱
- 反乱1459年瀧水瑶の乱
- 反乱1459年貴州苗の乱(方瑛討伐)
- 反乱1460–1461年両広瑶僮の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1461年
- 反乱1461年曹欽の乱
- 反乱1463年洪江叛苗の乱
- 反乱1463年両広瑶賊の再燃(梧州陥落)
明の歴代皇帝
歴代16人の一覧- 第1代洪武帝朱元璋1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年1457–1464年(復位)病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1566年病死
- 第13代隆慶帝1566–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自害
年表
明・
明が