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英宗・正統帝/天順帝

明|在位 1435–1449年 / 1457–1464年

英宗・正統帝/天順帝の肖像
諱(本名)
朱祁鎮
在位
1435–1449年 / 1457–1464年
在位期間
21年244日365名中52位
即位経路
復位
死因
病死
即位時年齢
9歳(数え年)172名中・若い順22位タイ
没年齢
38歳(数え年)269名中・長寿順145位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
8267名中56位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
16225名中20位タイ
被反乱
20289名中18位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

1期目(正統帝)は宣宗長子として生後4か月で皇太子に冊立済みの正規の世襲継承。2期目は土木の変で捕虜となり景泰帝(弟)が即位した後、天順元年正月、石亨・徐有貞・曹吉祥らが兵を率いて南宮(幽閉先)から英宗を迎え出し即位させた「奪門の変」というクーデターによる復位。

出典: 明史 本紀第十二(英宗後紀)/明史紀事本末 巻三十五(南宮復辟)

死因の経緯

天順8年正月「不豫」となり、皇太子に文華殿で摂事させた後「大漸」、遺詔で宮妃殉葬を廃止する旨を残し崩御。事件性を示す記述はなく病死。

出典: 明史 本紀第十二(英宗後紀)

復位の経緯

1457–1464年景泰8年1月17日、奪門の変により復位(天順帝)。代宗の廃位(1457年2月24日)より前に復位しており、約2週間の過渡期に両者が並存する形となった(史実通り記録)。天順8年1月17日崩御。

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

英宗前紀(卷十・正統期)で即位建元1回、英宗後紀(卷十二・天順期)で復辟に伴う建元1回の計2回。両者の間の景泰年間(代宗在位)における改元は代宗自身の紀に属するため、本人物の集計には含めていない。

大赦回数

「大赉」(褒賞・恩賜、例:正統四年三月乙亥「大赉文武军民」、天順元年七月辛卯「大赉诸边军士」)は金品下賜であり大赦とは別物のため除外。「宥…罪」(罪人個別の宥免、例:正統四年閏月の交阯王通・馬騏の罪の赦免)も全国規模の大赦ではないため除外。景泰年間の大赦は代宗紀に属するため対象外。

立后回数

冒頭の「生四月,立为皇太子,遂册贵妃为皇后」は宣徳期に英宗生母の孫氏が宣宗の皇后に冊立された記事であり、英宗自身の立后ではないため対象外。天順期(卷十二)には新たな立后の記事はなく、銭皇后がそのまま皇后位を継続したとみられる(景泰年間に廃后された記録もない)。景泰帝(代宗)の汪后・杭后の立后・廃立は代宗紀に属するため対象外。

皇太子廃立回数

卷十・卷十二とも英宗自身による皇太子廃立の記事は見当たらない。正統十四年己巳(土木の変後)に「皇太后命立皇子见深为皇太子」とあるのは新規の立太子であり廃立ではない。天順元年三月己巳「复立长子见深为皇太子」は景泰年間に代宗が見深を廃して自子見済を立てた措置(代宗紀に属する)の後、英宗が復辟して見深を皇太子に復した「再冊立」であり、英宗自身による廃立行為ではないため対象外。

親征回数

英宗前紀・正統14年7-8月の土木の変での親征のみが該当。「下诏亲征」と明記され、瓦剌(オイラト、也先)という北方モンゴル系の対等勢力・外国に対する親征のため、判定基準の通り敗北・被虜という結果も含め1件として計上する。奪門の変(1457年復位)は自身のaccessionRoute領域として除外済み。天順期には帝自身が親征した記事は見当たらない(石亨の延綏討伐等はいずれも将軍主導で本人不出征)。

反乱鎮圧回数

上記参照

被反乱回数

正統・天順両期を通算。rebellionSuppressionCountの16件は同一の反乱群として被反乱側にもそのまま計上し、加えて未鎮圧のまま在位が終了した4件(例外(2):正統期は土木の変で在位事実上終了、天順期は英宗崩御)を追加した。奪門の変で代宗(景泰帝)から兵力を伴って帝位を奪還した経緯自体は、英宗にとっては自身のaccessionRoute(復位)領域であり被反乱には含めない。北方モンゴル系(瓦剌・孛来)との交戦は対等勢力・外国として除外(土木の変での被虜はpersonalCampaignCount側に計上済み)。

遷都回数

明史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(南京→北京の遷都は永楽帝の代の出来事として計上済み。洪武帝期の鳳陽「中都」構想は未完成のまま放棄され実行されず)。

即位時年齢・没年齢

没年齢38歳は英宗後紀末尾「庚午,崩,年三十有八」(天順八年正月庚午)に直接記載、既存reignsのendDate(1464-02-23)と一致。生年の直接記載(「生於◯◯年」等)はこのキャッシュ範囲には見当たらないため、数え年の原理(没年-没年齢+1)で1427年と逆算した(1464-38+1=1427)。即位時年齢9歳は、既存reignsの第1期startDate(1435-02-07、宣徳十年正月壬午)とこの逆算生年(1427年)の差分から算出(1435-1427+1=9)。歴史的に広く知られる英宗の生年(宣徳二年=1427年)とも整合するが、当キャッシュ内に「◯◯年生」の直接原文はないため、生年・即位時年齢はいずれも逆算値(confidence highだが直接記載ではない点を明記)。

在位中の出来事(48件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1435年1月宣徳十年正月壬午、宣宗崩御を受け即位。

宣徳十年正月壬午、宣宗崩御を受け即位。「遵遗诏大事白皇太后行。大赦天下,以明年为正统元年。」により翌年を正統元年とする建元(即位に伴う最初の建元)。卷十より。

大赦1435年1月宣徳十年正月、即位に伴う「大赦天下,以明年为正统元年」。

宣徳十年正月、即位に伴う「大赦天下,以明年为正统元年」。卷十。

反乱鎮圧1436年12月広西蒙顾十六洞賊の乱

首謀者: 不詳(蒙顾十六洞贼)

結果: 蕭授により鎮圧された。

被反乱1436年12月広西蒙顾十六洞賊の乱

首謀者: 不詳(蒙顾十六洞贼)

結果: 蕭授により鎮圧された。

反乱鎮圧1438年4月〜1449年2月麓川の乱(思任发・思机发父子)

首謀者: 思任发(のち子の思机发)

結果: 王骥らにより実質的に鎮圧・平定された。

被反乱1438年4月〜1449年2月麓川の乱(思任发・思机发父子)

首謀者: 思任发(のち子の思机发)

結果: 王骥らにより実質的に鎮圧・平定された。

反乱鎮圧1439年2月貴州計砂叛苗の乱

首謀者: 不詳(貴州計砂叛苗)

結果: 蕭授により鎮圧された。

被反乱1439年2月貴州計砂叛苗の乱

首謀者: 不詳(貴州計砂叛苗)

結果: 蕭授により鎮圧された。

大赦1439年3月正統四年三月己酉「诏赦天下」。

正統四年三月己酉「诏赦天下」。卷十。

反乱鎮圧1439年12月〜1440年5月松潘祈命族叛番の乱

首謀者: 不詳(松潘祈命族)

結果: 投降により終結。

被反乱1439年12月〜1440年5月松潘祈命族叛番の乱

首謀者: 不詳(松潘祈命族)

結果: 投降により終結。

反乱鎮圧1440年11月師宗叛蛮の乱

首謀者: 不詳(師宗叛蛮)

結果: 沐昂により鎮圧された。

被反乱1440年11月師宗叛蛮の乱

首謀者: 不詳(師宗叛蛮)

結果: 沐昂により鎮圧された。

大赦1441年11月正統六年十一月甲午朔、乾清宮等完成・北京定都に伴い「大赦」。

正統六年十一月甲午朔、乾清宮等完成・北京定都に伴い「大赦」。卷十。

立后1442年5月正統七年五月戊寅「立皇后钱氏」。

正統七年五月戊寅「立皇后钱氏」。銭氏を皇后に冊立。卷十。

大赦1443年5月正統八年五月壬午「大赦」(奉天殿鴟吻落雷の修省に続く記事)。

正統八年五月壬午「大赦」(奉天殿鴟吻落雷の修省に続く記事)。卷十。

反乱鎮圧1445年12月慶遠叛蛮の乱

首謀者: 不詳(慶遠叛蛮)

結果: 柳溥により鎮圧された。

被反乱1445年12月慶遠叛蛮の乱

首謀者: 不詳(慶遠叛蛮)

結果: 柳溥により鎮圧された。

反乱鎮圧1446年9月広西瑶の乱

首謀者: 不詳(広西瑶)

結果: 化州知州茅自得が捕らえられ、千戸汪義が殺害される被害を受けた。以後鎮圧されたとみられる(confidence低め)。

被反乱1446年9月広西瑶の乱

首謀者: 不詳(広西瑶)

結果: 化州知州茅自得が捕らえられ、千戸汪義が殺害される被害を受けた。以後鎮圧されたとみられる(confidence低め)。

反乱鎮圧1448年8月〜1449年2月福建鄧茂七の乱

首謀者: 鄧茂七

結果: 斬殺され鎮圧された。

被反乱1448年8月〜1449年2月福建鄧茂七の乱

首謀者: 鄧茂七

結果: 斬殺され鎮圧された。

反乱鎮圧1448年11月〜1449年5月処州賊叶宗留の乱

首謀者: 叶宗留

結果: 都指揮呉剛が戦死する被害を受けたが、陳懋の撃破により終息に向かった。

被反乱1448年11月〜1449年5月処州賊叶宗留の乱

首謀者: 叶宗留

結果: 都指揮呉剛が戦死する被害を受けたが、陳懋の撃破により終息に向かった。

反乱鎮圧1448年12月広東瑶賊の乱

首謀者: 不詳(広東瑶賊)

結果: 続報なし、鎮圧されたとみられる(confidence低め)。

被反乱1448年12月広東瑶賊の乱

首謀者: 不詳(広東瑶賊)

結果: 続報なし、鎮圧されたとみられる(confidence低め)。

被反乱1449年4月湖広貴州苗賊の乱

首謀者: 不詳(湖広貴州苗賊)

結果: 王骥に討伐を命じたが、結果記載前に土木の変が発生(同年7-8月)し英宗が捕虜となったため、未鎮圧のまま前紀の記録が終了した(例外(2))。

大赦1449年6月正統十四年六月乙丑「赦天下」(土木の変直前、大同親征準備の時期)。

正統十四年六月乙丑「赦天下」(土木の変直前、大同親征準備の時期)。卷十。

被反乱1449年6月靖州苗の乱

首謀者: 不詳(靖州苗)

結果: 都指揮高亮が辰溪で戦死する敗北を喫した後、続報がないまま約1か月後に土木の変が発生し、未鎮圧のまま前紀の記録が終了した(例外(2))。

親征1449年7月〜1449年8月瓦剌(オイラト、也先)

対象: 瓦剌(オイラト、也先)

結果: 大敗・被虜(土木の変)。正統十四年七月己丑「瓦剌也先寇大同...下诏亲征」、八月壬戌「师溃,死者数十万...帝北狩」で瓦剌の捕虜となった。

英宗前紀。吏部尚書王直らの諫止を退けて親征を強行し、土木堡で瓦剌軍に包囲され大敗、皇帝自身が捕虜となった。

改元1457年1月天順元年正月丙戌、奪門の変(南宮復辟)を経て「诏赦天下,改景泰八年为天顺元年」と詔し、景泰八年を天順元年に改める建元。

天順元年正月丙戌、奪門の変(南宮復辟)を経て「诏赦天下,改景泰八年为天顺元年」と詔し、景泰八年を天順元年に改める建元。卷十二より。

大赦1457年1月天順元年正月丙戌、復辟に伴う「诏赦天下,改景泰八年为天顺元年」。

天順元年正月丙戌、復辟に伴う「诏赦天下,改景泰八年为天顺元年」。卷十二。

反乱鎮圧1457年4月銅仁彭藕洞苗の乱

首謀者: 不詳(銅仁彭藕洞苗)

結果: 方瑛により完全鎮圧された。

被反乱1457年4月銅仁彭藕洞苗の乱

首謀者: 不詳(銅仁彭藕洞苗)

結果: 方瑛により完全鎮圧された。

大赦1457年7月天順元年七月癸酉「大赦」。

天順元年七月癸酉「大赦」。卷十二。

反乱鎮圧1457年11月田州叛蛮の乱

首謀者: 不詳(田州叛蛮)

結果: 続報なし、鎮圧されたとみられる(confidence中程度)。

被反乱1457年11月田州叛蛮の乱

首謀者: 不詳(田州叛蛮)

結果: 続報なし、鎮圧されたとみられる(confidence中程度)。

反乱鎮圧1459年4月泷水瑶の乱

首謀者: 不詳(泷水瑶)

結果: 叶盛により撃破された。

反乱鎮圧1459年4月貴州苗の乱(方瑛討伐)

首謀者: 不詳(原文表記不鮮明)

結果: 方瑛により鎮圧された(confidence低め)。

被反乱1459年4月泷水瑶の乱

首謀者: 不詳(泷水瑶)

結果: 叶盛により撃破された。

被反乱1459年4月貴州苗の乱(方瑛討伐)

首謀者: 不詳(原文表記不鮮明)

結果: 方瑛により鎮圧された(confidence低め)。

反乱鎮圧1460年2月〜1461年3月両広瑶僮の乱

首謀者: 不詳(両広瑶・僮族)

結果: 梧州が一時陥落する被害を受けたが、最終的に「悉破之」で完全鎮圧された。

被反乱1460年2月〜1461年3月両広瑶僮の乱

首謀者: 不詳(両広瑶・僮族)

結果: 梧州が一時陥落する被害を受けたが、最終的に「悉破之」で完全鎮圧された。

大赦1461年7月天順五年七月庚戌「大赦,求直言」。

天順五年七月庚戌「大赦,求直言」。卷十二。

反乱鎮圧1461年7月曹欽の乱

首謀者: 曹吉祥・曹欽(叔甥)

結果: 左都御史寇深・恭順侯呉瑾が殺害される被害を受けたが、孫鏜により同日中に鎮圧された。

被反乱1461年7月曹欽の乱

首謀者: 曹吉祥・曹欽(叔甥)

結果: 左都御史寇深・恭順侯呉瑾が殺害される被害を受けたが、孫鏜により同日中に鎮圧された。

被反乱1463年8月洪江叛苗の乱

首謀者: 不詳(洪江叛苗)

結果: 湖広・貴州に会師討伐を命じたが結果の記載がなく、天順8年正月の英宗崩御まで鎮圧記事がないまま在位終了した(例外(2))。

被反乱1463年9月〜1463年11月両広瑶賊の再燃(梧州陥落)

首謀者: 不詳(両広瑶賊)

結果: 討伐命令後の天順7年11月に梧州が再び陥落し、致仕布政使宋欽が死亡する事態となったが、英宗崩御まで鎮圧記事がないまま在位終了した(例外(2))。

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