景泰帝の人物データ
- 生年
- 1428年
- 在位
- 1449年9月22日〜1457年2月11日
- 没年
- 1457年3月14日30歳(数え年)長生き順同率186位/266人
- 死因
- 諸説あり死因について史書の記述が食い違い、一つに絞れない。同じ死因17人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 正統帝明景泰帝は正統帝の弟
- 次代
- 正統帝明復位による継承・
正統帝は景泰帝の兄
- 正統帝明復位による継承・
- 呼び名
- 姓朱諱祁鈺廟号代宗諡号恭仁康定景皇帝元号景泰呼び名の見方
- 目立つ記録
- 皇太子を廃した 1回多い順同率4位
出典
- 在位
- 明史 本紀第十一 景帝
- 死因
- 明史 本紀第十一(景帝)/明史紀事本末 巻三十五(南宮復辟)
- 即位経路
- 明史 本紀第十一(景帝)/明史紀事本末 巻三十四(景帝登極守御)
生涯
即位まで
宣徳帝の次子で、母は賢妃皇帝の妃の位の一つ呉氏であり、兄の正統帝が即位したときに郕王に封じられた。1449年、正統帝が土木で瓦剌に捕らわれると、皇太后の命で国政を預かった。都を南へ移すべきだという声を于謙が退けると、その言を是とし、守る方針が定まった。大臣たちが皇太后に郕王を立てるよう願い、郕王は二度断ったが于謙に説かれて引き受け、即位して兄を太上皇位を退いた(退かされた)前の皇帝の呼び名とした。
治世と最期
即位直後に瓦剌のエセンが北京に迫ったが、于謙と石亨らが撃退した。于謙の論奏はすべて聴き入れ、于謙が病むと自ら万歳山へ行って竹を伐り、薬を取って賜った。エセンが上皇を返すと申し出て、王直らが迎えの使者を出そうと議すると、不機嫌になって、もともと位を望まなかった、推したのは卿らだと言ったが、于謙に諭されて使者を送った。1450年に上皇が帰ると東安門で迎え、上皇が南宮に入ると百官朝廷のすべての役人を率いて朝謁した。のちに上皇への朝賀を請う声は許さなかった。
1452年、黄矰が太子を替えるよう上疏皇帝に意見を書いて差し出すことすると大いに喜び、上皇の子の皇太子を廃して自分の子を立てたが、その子は翌年に没した。沂王を太子に戻すよう求めた鍾同らを獄に下し、獄中で鍾同を打たせて死なせた。ただ、沂王を封地へ移して人望を絶てという進言は、怒って退けた。
1457年、病のため年頭の朝賀を取りやめ、太子を立てるよう求める声を退けた直後に、石亨と徐有貞らが上皇を迎えて位に戻した。郕王に落とされて西内に移され、同じ年のうちに亡くなり、戻と諡された。のちに甥の成化帝が皇帝の号を戻した。
史料について
死に方を、明史と明英宗実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録は記さず、宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の蒋安が帛で絞め殺したと書くのは、明の陸釴の病逸漫記などの明代の筆記である。谷応泰は、亡くなった日月は史書に明文が無く、燭影斧声宋の初代皇帝の急死に弟の関与を疑う話のような疑いも残るとする。明史の賛は、賢能を任じて政治に励み国を立て直した功を偉大だとしつつ、急いで太子を替え、南内を深く閉ざして朝謁を許さなかったことを批判する。谷応泰は、まことに英主だが帝位に恋々としたと評する。
景泰帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱5・皇后2・皇太子1・改元1・大赦4
- 反乱1449年9月〜1450年6月広東黄蕭養の乱
- 改元1449年9月22日元号を「景泰」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1449年9月22日
- 反乱1449年10月〜1456年12月西南苗族反乱(正統十四年~景泰七年、断続的)
- 皇后1449年12月22日汪氏を皇后に冊立。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1449年12月24日
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1450年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1452年
- 皇后1452年汪皇后を廃したうえで、皇太子見済の生母である杭氏を皇后に冊立。
- 皇太子1452年正統十四年に立てられていた皇太子朱見深(英宗の子、後の憲宗)を廃して沂王とし、代宗自身の子・
見済を新たに皇太子に立てた。 - 反乱1452年福建盗蜂起
- 反乱1457年2月11日奪門の変
- 反乱日付不詳両広瀧水瑤の乱
明の歴代皇帝
歴代16人の一覧- 第1代洪武帝朱元璋1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年1457–1464年(復位)病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1566年病死
- 第13代隆慶帝1566–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自害
年表
明・
明が
